まいにちポップス(My Niche Pops)

令和初日から毎日、1000日連続で1000曲(せんきょく)を選曲(せんきょく)しました。。。古今東西のポップ・ソングのエピソード、洋楽和訳、マニアックなネタ、勝手な推理、などで紹介しています。キャッチーでメロディアスなポップスは今の時代では”ニッチ”なものになってしまったのかなあとも思いますが、このブログを読んでくださる方の音楽鑑賞生活に少しでもお役に立てればと願っています。みなさんからの追加情報や曲にまつわる思い出などコメントも絶賛募集中です!text by 堀克巳(VOZ Records)

「ケアレス・ウィスパー (Careless Whisper)」ワム!(1984)


 おはようございます。

 今日はワム!の「ケアレス・ウィスパー」を。


George Michael - Careless Whisper (Official Video)

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I feel so unsure
As I take your hand and lead you to the dance floor
As the music dies, something in your eyes
Calls to mind the silver screen
And all its sad good-byes

I'm never gonna dance again
Guilty feet have got no rhythm
Though it's easy to pretend
I know your not a fool

Should've known better than to cheat a friend
And waste the chance that I've been given
So I'm never gonna dance again
The way I danced with you

Time can never mend
The careless whispers of a good friend
To the heart and mind
Ignorance is kind
There's no comfort in the truth
Pain is all you'll find

I'm never gonna dance again
Guilty feet have got no rhythm
Though it's easy to pretend
I know your not a fool

I should've known better than to cheat a friend
And waste the chance that I've been given
So I'm never gonna dance again
The way I danced with you

Never without your love

Tonight the music seems so loud
I wish that we could lose this crowd
Maybe it's better this way
We'd hurt each other with the things we'd want to say

We could have been so good together
We could have lived this dance forever
But no one's gonna dance with me
Please stay

And I'm never gonna dance again
Guilty feet have got no rhythm
Though it's easy to pretend
I know your not a fool

Should've known better than to cheat a friend
And waste the chance that I've been given
So I'm never gonna dance again
The way I danced with you

(Now that you're gone) Now that you're gone
(Now that you're gone) What I did's so wrong, so wrong
That you had to leave me alone

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すごく不安なんだ

君の手を取って ダンスフロアに連れてゆきとき

音楽が止むと 君の瞳の何かが 

映画のスクリーンを思い起こさせるんだ

悲しい別れのシーンたちを

 

もう二度とは踊らない

罪の意識で、脚でリズムが取れないんだ

ごまかすのはたやすくても

君はバカじゃないから

 

ちゃんとわかっておくべきだった

友だちをだまして あたえられたチャンスを棒に振ってしまうよりも

だから、もう二度と踊れない

君と踊ったようには

時間は繕ってはくれない

親友の軽率なささやきは

心にしてみたら

知らないことの方が、親切なんだ

真実には慰めなんてなくて

見つかるのは痛みだけ

 

もう二度とは踊らない

罪の意識で、脚でリズムが取れないんだ

ごまかすのはたやすくても

君はバカじゃないから

 

ちゃんとわかっておくべきだった

友だちをだまして あたえられたチャンスを棒に振ってしまうよりも

だから、もう二度と踊れない

君と踊ったようには

 

今夜は音楽がうるさく思える

この人混みを消せたらいいのにと願うよ

たぶん、この方法が良かったんだ

でなきゃ 言いたいことを言い合って傷つけ合うだけだから

二人は一緒にもっとうまくやれたのに

二人はこのダンスを永遠に続けられたのに

だけど、誰も僕とは踊ってくれないだろう

どうか、行かないで

もう二度とは踊らない

罪の意識で、脚でリズムが取れないんだ

ごまかすのはたやすくても

君はバカじゃないから

 

ちゃんとわかっておくべきだった

友だちをだまして あたえられたチャンスを棒に振ってしまうよりも

だから、もう二度と踊れない

君と踊ったようには

 

今はもう君は行ってしまった

僕がしたことは、大変な、大変な過ちだったから

君は僕をひとりっきりにしなきゃいけなかったんだ   (拙訳)

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 17歳の時に思いついたサックスのフレーズに徹底してこだわり続けたジョージ・マイケル 

 

 この曲をジョージ・マイケルが書いたのは1981年、彼がまだ17歳から18歳になるという、まだ大変若かった頃のことです。

 当時、彼は建設現場、レストランのDJ、映画館の案内係など、いろんな仕事をしていたそうです。

 

「『ケアレス・ウィスパー』を書いたのは、ベル・エアにDJをやりに行く途中だった。僕はいつもバスや列車や車の中で書いていた。」

「『ケアレス・ウィスパー』については、正確に時と場所を覚えている。そんなのってほんとに妙だし、口にするとなんだかロマンチックだけど、どこで浮かんできたか、自分がバスのどこに座っていたか、その次にどんなことをしたか、とかすべてをはっきりと覚えている。バスの車掌にお金を渡してた時、こんなライン、サックスの「ダーダ、ダーダ、ダーダ、ダーダ」ってラインを思いついたんだ。車掌があっちに行って、僕は頭の中で書き続けた。全部頭の中で完成させたのさ。3ヶ月ぐらい頭の中でずっと練っていたんだ。」

 (「自伝 裸のジョージ・マイケル」)

 

 そして、彼は相棒のアンドリューのところに行きそのメロディーラインを聞かせ、アンドリューがそれにギターのコードを合わせながら、曲を一緒に作って行ったそうです。メロディーはほとんどジョージが書き、歌詞は共作したそうです。

 

 歌詞の背後にある物語はジョージの実体験が反映しているところがあるようです。

 彼はもともと眼鏡をかけて太った少年で容姿にコンプレックスを持っていて、その頃憧れていた女の子が、何年か後に彼がディスコで歌う姿を見て好きになり付き合いだしたそうですが、その頃彼には前から付き合っていた相手がいたそうです。

 

「『ケアレス・ウィスパー』の発想は、この最初の女の子が2番目の女の子を知ってしまうというものだった。実際はそうならなかったけど」

 (「自伝 裸のジョージ・マイケル」)

 

 実際に彼は二股をかけていて、実際にはバレなかったのですが、バレたという想定の歌詞にしたわけです。罪悪感と怖れはあったのでしょう。ちなみに、彼はそのあと、また別の女の子とつきあいはじめ、その憧れていた女の子とは別れることになったそうです。

 背景となる実体験があったからこそ、曲に説得力も加わったのだと思いますが、それ以上に僕が興味を持ったことは、商業音楽としてこれほど巧みでパワーのあるメロディーを17歳で書いたということと、イントロのサックスのキラー・フレーズも曲の大切な一部として書かれていた、という事実です。

 

 この「ケアレス・ウィスパー」には、最初に録音された別ヴァージョンが存在し、発売もされています。


George Michael - Careless Whisper (Special Version)

 プロデューサーはジェリー・ウェクスラー。スタジオはアラバマ州のマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオ。アレサ・フランクリンの才能を覚醒させ、R&Bの老舗アトランティック・レコードの名作を数多く生み出したラインナップなんです。

 

 このアイディアは当時ワム!のマネージャーだったサイモン・ネピアベルの発案だったそうです。彼はTレックスヤードバーズなどを手がけた、イギリス音楽シーンの伝説的人物です。

 マッスル・ショールズの凄腕ミュージシャンたちで、バックの演奏を録音し、LAから有名なサックス奏者を呼んだそうですが、ジョージは気に入らなかったそうです。

 サイモンはこう回想します。

「LAからきたサックス奏者は、完璧にそのパートを演奏しているように見えるんだけど、その度にジョージが言うんだ”いや、まだちょっと違うんだ”そして彼は、トークバック(録音中に演奏者と会話するための)のマイクに頭を下げて、また辛抱強くそこのパートハミングするんだ”そのところでちょっとだけ上の音に引き上げるんだ、わかるかい?だけど、やりすぎはダメだ”」 (Skrufff)

 

 あとでサイモンはジェリー・ウエクスラーに、サックスの演奏が本当に違っているのかたずねたそうです。

「ジェリーは答えたんだ”間違いない!”こういうことは前にもあったよ。あのサックス奏者がどうしてもつかめない、ちょっとしたニュアンスがあるんだ。君や僕にはそれが何なのかわからなくても、それがヒット曲にするきっかけになるかもしれない。ポップ・レコードの成功というのは、あまりにもはかなく、信じられないほど予測不可能だから、せっかちになるようなリスクを冒すことはできないんだ」(Skrufff)

 

 ジェリーにもジョージがこだわるポイントはどこなのかわからない、しかし、辛抱強くそれに付き合うことから、ヒット・レコードが生まれる可能性があることを経験上知っている、ということなんですね。

 

 その後、ニューヨークからも売れっ子サックス奏者を呼びますが、彼もやはりうまくいかず、サックス抜きのままバックトラックだけを完成させたそうです。

 

 しかし、演奏自体もよくないと考え、ジョージがいつも使っているメンバーと友人のサックス奏者であらためてこの曲をレコーディングし、それが大ヒットしたヴァージョンになったというわけです。

 ジョージの友人のサックス奏者の演奏について、サイモンはこう語っています。

「彼はたぶん、正しくない指の使い方で演奏して、それがジョージが求めていた独特なフィーリングを与えたんだよ。あのアメリカのプレイヤーはただあまりに上手すぎて、それを出せなかったんだ」

 

 17歳のときにバスの中でふと浮かんだサックスのフレーズのフィーリングの細部にまでジョージが徹底してこだわったことが、大ヒットにつながったということ、

そして、ポップスというのはただ歌詞と曲が良ければいいのではなく、アレンジ、アレンジもただ上手ければいいのではなく曲にピッタリ合っていること、というのが”命綱”なのだということを、この「ケアレス・ウィスパー」の2つのヴァージョンを聴き比べることでわかると思います。

 

 後に、ジョージは若くて未熟な時代に書いたこの曲がアーティストとしての自分を定義するようなものになってしまったことに正直とまどっている、と語り、自分ではあまり評価していないようでした。

 そういう意味では貴重な後年、2008年のライヴを最後に。


George Michael - Careless Whisper (25 Live Tour) [Live from Earls Court 2008]

 

 

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「君は完璧さ(Do You Really Want to Hurt Me)」カルチャー・クラブ(1982)

 おはようございます。

 今日はカルチャー・クラブの「君は完璧さ」です。


Culture Club - Do You Really Want To Hurt Me (Official Video)

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Give me time to realise my crime
Let me love and steal
I have danced inside your eyes
How can I be real

Do you really want to hurt me
Do you really want to make me cry
Precious kisses, words that burn me
Lovers never ask you why

In my heart the fires burning
Choose my colour find a star
Precious people always tell me
That´s a step a step too far

Do you really want to hurt me
Do you really want to make me cry
Do you really want to hurt me
Do you really want to make me cry

Words are few, I have spoken
I could waste a thousand years
Wrapped in sorrow, words are token
Come inside and catch my tears

You´ve been talking but believe me
If it´s true, you do not know
This boy loves without a reason
I´m prepared to let you go

If it´s love you want from me then take it away
Everything is not what you see it´s over again

Do you really want to hurt me
Do you really want to make me cry
Do you really want to hurt me
Do you really want to make me cry、、、

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時間をください 僕の罪に気づくまでの

愛し、愛を奪わせてください

僕は君の瞳の中でずっと踊っていたんだ

どうすれば現実的になれるの?

 

本当に僕を傷つけたいの?

本当に僕を泣かせたいの?

大切なキスや言葉が僕を燃え上がらせる

恋人はそれがどうしてかなんて たずねたりしない

 

僕の心の炎は燃えている

その色を選んで その明るさで星を見つけて

大切な人たちはいつも僕に言う

あまりにも遠すぎるって

 

本当に僕を傷つけたいの?

本当に僕を泣かせたいの?

本当に僕を傷つけたいの?

本当に僕を泣かせたいの?

 

言葉もないまま 僕はしゃべった

1000年だって無駄に費やすこともできそうさ

悲しみにくるまって 言葉はしるし

心の中に入ってきて、僕の涙を受け止めて

 

君はしゃべり続けているけど  僕を信じて

もしそれが確かなら、君は知らないんだ

この僕が、理由もなく愛していることを

僕は君を行かせる覚悟はできているんだ

 

もし、君が僕の愛が欲しいなら、さあそうすればいい

すべてのものが君の見た通りとは限らないんだ

また愛は終わってしまったんだ

 

本当に僕を傷つけたいの?

本当に僕を泣かせたいの?

本当に僕を傷つけたいの?

本当に僕を泣かせたいの?              (拙訳)

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 ラジオ番組の企画から生まれた'80sの代表曲

 

 カルチャー・クラブはボーカルのボーイ・ジョージを中心とする4人組。

 ボーイ・ジョージはバンド結成前にセックス・ピストルズを手がけたマルコム・マクラーレンと出会い、彼がマネージメントしているバウ・ワウ・ワウというグループにボーカルで参加することになっていたそうですが、うまくいかず自分でバンドを結成することに決めたそうです。

 ちなみにバウ・ワウ・ワウは日本でも人気のあったアダム&ジ・アンツ(沢田研二がファッションを取り入れましたね)のアダム以外のメンバーを全員引き抜いて結成したバンドでした。

 当時の”お化粧系”のカリスマ二人、アダム・アントとボーイ・ジョージがクロスする瞬間があったんですね(もうひとり、当時の同系のカリスマにデッド・オア・アライヴピート・バーンズもいました)。

 

 さて、カルチャークラブは1982年に「ホワイト・ボーイ」という曲でデビューします。


Culture Club - White Boy (Performance)

 しかし、全英114位とふるわず、次のシングル「アイム・アフレイド・オブ・ミー〜あしたのボクは?」も全英100位で終わります。両方ともロンドンのクラブ・シーンでは大変に人気だったそうですが、そこから外に広まらなかったんですね。

 背水の陣で発表したこの「君は完璧さ」は、ダンスミュージックだった前の2作とうってかわって、レゲエのリズムをベースにしたミディアム・スローの楽曲でした。

 当時はポリス、UB40などレゲエを取り入れた音楽がイギリスでは大人気だったんですね。

   イギリスでは国営放送BBCの主に最新ヒットを紹介する"RADIO 1"、RADIO 1より広いジャンル、年代をカバーしリスナーが一番多い"RADIO 2”といったラジオ局がヒットに大きな影響を及ぼしていました。

 プロデューサーのスティーヴ・レヴィンによると、当時RADIO1では、人気DJの番組で演奏を収録する(事前収録)企画があり、カルチャークラヴも参加し3曲やることになり、シングル2曲に加えて、録音することにしたのがこの「君は完璧さ」でした。この時点ではシングルになることは決まっていなかったようですが、デモを録ったばかりで、本人たちもやりやすかったということもあったようです。

 

 時間の関係でこの曲だけ一発録りに近いやり方になったそうですが、かえってそのほうが出来が良く、ジョージのボーカルがよいことに気づいたため、シングルの録音も同じやり方を選んだそうです。

 そして発売されると、"RADIO 1"じゃなく"RADIO 2”の今週のレコードに選ばれたことがきかっけで、火がつきます。(当時の"RADIO 2”は今より"RADIO 1"に近い選曲だったようです)

 そして、チャートが32位になると、国民的TV番組「トップ・オブ・ポップス」で、エルトン・ジョン(シェイキン・スティーヴンスという説もあります)の出演が急にキャンセルになったため、彼らに声がかかり出演すると、その4週後にはイギリスでナンバー・ワンになりました。

 

 曲が良くラジオで広まり、TVに出演するとビジュアルにインパクトがあるわけですから、まさに理想的な展開ですよね。

 アメリカでは前年にMTVが開局していたので、彼らは最初からビジュアル込みで大ブレイクします。

 

 ボーイ・ジョージはこの曲についてこのように語っています。

「あれはカルチャー・クラブのドラマーで当時のボーイフレンドだったジョン・モスについて書いた曲だ。ただジョンだけでなく、あの頃つき合っていたすべての男性のことでもあるんだ。僕はいつもああいうぎこちない恋愛をしていた、それは他人が関わったときに限って気まずくなるということなんだ」

  (Flashback: October 1982(The Guardian))

 

参考:IN THE MIX – ‘DO YOU REALLY WANT TO HURT ME’(NEWSOUNDS)

 

「君は完璧さ」の次のシングル「タイム」。僕は彼らの曲ではこれが一番好きです。


Culture Club - Time (Clock Of The Heart)

 

君は完璧さ

君は完璧さ

  • Virgin Catalogue
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「ストップ・イン・ザ・ネイム・オブ・ラヴ(Stop! In the Name of Love)」スプリームス(1965)

 おはようございます。

 今日もモータウン・ナンバーを。スプリームスの「ストップ・イン・ザ・ネイム・オブ・ラヴ」です。


Stop! In The Name Of Love

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Stop! In the name of love
Before you break my heart

Baby, baby I'm aware of where you go
Each time you leave my door
I watch you walk down the street
Knowing your other love you'll meet
But this time before you run to her
Leaving me alone and hurt
(Think it over) After I've been good to you
(Think it over) After I've been sweet to you

Stop! In the name of love
Before you break my heart
Stop! In the name of love
Before you break my heart
Think it over  Think it over

I've known of your
Your secluded nights
I've even seen her
Maybe once or twice
But is her sweet expression
Worth more than my love and affection
But this time before you leave my arms
And rush off to her charms
(Think it over) Haven't I been good to you
(Think it over) Haven't I been sweet to you

Stop! In the name of love
Before you break my heart
Stop! In the name of love
Before you break my heart
Think it over Think it over

I've tried so hard, hard to be patient
Hoping you'd stop this infatuation
But each time you are together
I'm so afraid I'll be losing you forever

Stop! In the name of love
Before you break my heart
Stop! In the name of love
Before you break my heart
Stop! In the name of love

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やめて! 愛の名のもとに

私の心がこわれてしまう前に

 

ベイビー、ベイビー、

あなたがどこに行くのか気づいているのよ

私の部屋から出て行くたびに

あなたが通りを歩き去って行くのを見つめるの

あなたが他の恋人に会うことを知りながら
だけど、今度は彼女の元に行く前に

私を一人、傷ついたまま放っておくのね

(よく考えて)私があなたによくしてあげたあとなの

(よく考えて)私があなたに優しくしたあとなのよ

 

やめて! 愛の名のもとに  私の心がこわれてしまう前に

やめて! お願いだから  私の心がこわれてしまう前に

よく考えて よく考えて

 

あなたが予定が入っている夜のこと知っているのよ

彼女も見たことがあるわ、たぶん一度か二度

だけど、彼女の甘ったるい表現のほうが

私の愛や愛情より大事なの?
だけど今度は私の腕から離れる前に

彼女の魅力にひかれて飛んで行くのね

(よく考えて)あなたによくしてあげなかった?

(よく考えて)あなたに優しくしてあげなかった?

 

やめて! 愛の名のもとに 私の心がこわれてしまう前に

やめて! お願いだから 私の心がこわれてしまう前に

よく考えて よく考えて

 

 がんばってきたの 必死に我慢しようと

あなたが浮気をやめてくれることを願いながら

だけど、あなたと一緒にいるといつも

私はあなたを永遠に失うようでとてもこわいの

やめて! 愛の名のもとに 私の心がこわれてしまう前に

やめて! お願いだから 私の心がこわれてしまう前に   (拙訳)

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 作者が”浮気の現場”で不意に口をついて出した言葉がインスピレーションになった名曲

 

 ” in the name of love”の解釈が、日本人にはわかりにくいですよね。

”愛の名のもとに”と訳してみても、具体的なイメージがわきませんし。今回は"in the name of God"でお願いだから”という使い方があるそうなので、それを応用した言い回しじゃないかという僕の解釈で訳してみました。曲の流れをみても、愛の名のもとにそんな悪いことはやめなさい、という水戸黄門の印籠(?)みたいな高圧的なニュアンスじゃなく、基本的には”お願いだから”と懇願しているように思えます。ただし、こちらには否はないわけですから、相手の良識や倫理観に訴えるために"in the name of love"という言い回しをしているんじゃないかという気がします。

 

  さて、このタイトルを思いついたのは、モータウンきってのヒット・ソングライター・チーム”ホランド=ドジャー=ホランド”のラモン・ドジャーです。

 きっかけは恋人が浮気現場を突き止めて押しかけてきたときだったそうです。

 

「彼女は僕の居場所を突き止めてドアを叩いていたんだ、「このモーテルで一緒にいるのは誰なの」と大声で叫びながら。もう一人の女の子を裏口からが逃した後に、彼女を入れたんだ」

「彼女が入ってきて、僕は当然嘘をついたんだ、そこで眠っていたって。 僕は最後に言ったんだ、『ここじゃ何も起こっちゃいないし、何もやっていないよ。お願いだから、愛の名のもとにやめてくれないか』と言ったんだ。すると彼女は、『何?面白くないわよ』と言った。私は、『ちょっと待てよ、僕が言ったことを聞いた?愛の名のもとにやめてくれ。レジがチャリンとなる音が聞こえたなかったか?」

                   (CBC

 別のインタビューでは、彼女はかなり気が強くて殴りかかってきたなんて話をしています。しかし、彼が”Stop!in the name of love"と言うと、あまりに陳腐な言い回しに二人で笑ったしまったと。そして、彼女に首を締められながら、レジの音が聞こえなかったか?ヒットしそうなタイトルじゃないか?と言うとまたおたがい笑って、ケンカがおさまった、と話しています。

 Stop!in the name of loveはとっさに出た陳腐な言い回しですが、歌にするとキャッチーなフレーズ、というわけなんですね。

 

 そして、次の日彼がスタジオに行くと、パートナーのブライアン・ホランドがスローテンポの曲を弾いていて、それを聴いたドジャーはテンポを上げるように言い、”Stop!in the name of love”というフレーズをハメて、二人で曲にしていったそうです。

 

 

 この曲はモータウンの契約第一号女性アーティストでいながら、まったくヒットを出せずに後続にも追い抜かれ”ノー・ヒット・スプリームス”と揶揄(自虐も)されていた彼女たちの12枚目のシングルで、最初の全米NO.1ヒット「愛はどこへ行ったの」から4曲連続となるNO.1ヒットになりました(まさにレジがチャリン、チャリン音を立てたわけですね)。

 

 「メイキング・オブ・モータウン」という今まで知らなかった事実がいろいろわかる大変面白い映画なのですが、その中に当時”エチケット・インストラクター”が、アーティストたちに歩き方や話し方や優雅な物腰を教えていたことが描かれていました。

 貧しい出の彼らが、王や女王、セレブたちと交流しても、恥ずかしくならないような心の尊厳を特に重視して教えたのだそうです。

 そして、その成果を全米に知らしめることになったのが、彼女たちスプリームスだったのです。プレスリービートルズをブレイクさせたアメリカの国民的TV番組「エドサリヴァン・ショー」に黒人女性アーティストとして初めて出演します。

 歌ったのは「ストップ・イン・ザ・ネイム・オブ・ラヴ」の一つ前のシングル「カム・シー・アバウト・ミー」でした。


The Supremes "Come See About Me" on The Ed Sullivan Show

 アメリカを代表する女性司会者オプラ・ウィンフリー、は当時10歳でそれが”人生が変わった瞬間”と呼び、あんなに豪華で優雅な黒人女性は初めて見た、と語っています。

 スプリームスは多くの若い黒人女性に夢と可能性自尊心を与えたんですね。黒人音楽の場合は特に、アレサ・フランクリンのように、ゴスペルやソウルを感じさせるアーティストにばかりに敬意が集中してしまいますが、彼女たちのように、ポップ・ミュージック、エンターチンメントの世界で人々に夢を与えた人たちのことも過小評価してはいけないと思います。

 スプリームスは1960年代にNO.1ヒットをたくさん出したグループで片付けちゃいけないんですね。

 

 さて、「ストップ・イン・ザ・ネイム・オブ・ラヴ」をレコーディングした彼女たちはモータウンのヨーロッパ・ツアーに合流し、最初のパフォーマンスがイギリスのTVスペシャルでした。

 この曲のリハーサルを見ていたテンプテーションズのポール・ウィリアムスが振り付けを提案したと言われています。STOP!と手で制するような振り付けが、またこの曲のヒットに少なからず貢献したのかもしれません。


The Supremes - Stop In The Name Of Love

 

 この曲は日本人にも人気がありますね。小室哲哉の”globe”、高橋幸宏などたくさんのアーティストがカバーし、杏里「悲しみがとまらない」や大瀧詠一の「バチェラー・ガール」などもこの曲のインスパイアされた感じが強いですね。

 

 最後は作者のラモン・ドジャー本人のセルフ・カバーを(2002年)。

 浮気の修羅場も今となっては遠い日のいい思い出、とでも言ってるかのような(?)穏やかなヴァージョンです。


Lamont Dozier- Stop! In the Name of Love (Official Audio)

 

 

 

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「リーチ・アウト・アイル・ビー・ゼア(Reach Out I'll Be There)」フォー・トップス(1966)

 おはようございます。

   今日はフォー・トップスの「リーチ・アウト・アイル・ビー・ゼア(Reach Out I'll Be There)」です。


Reach Out I'll Be There

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Now if you feel that you can't go on
Because all of your hope is gone,
And your life is filled with much confusion
Until happiness is just an illusion,
And your world around is crumblin' down;
Darling, reach out (come on girl, reach on out for me)
Reach out (reach out for me.)
I'll be there, with a love that will shelter you.
I'll be there, with a love that will see you through.
I'll be there to always see you through.

When you feel lost and about to give up
'Cause your best just ain't good enough
And you feel the world has grown cold,
And you're drifting out all on your own,
And you need a hand to hold:
Darling, reach out (come on girl, reach out for me)
Reach out (reach out for me.)
I'll be there, to love and comfort you,
And I'll be there, to cherish and care for you.
I'll be there to love and comfort you.

I can tell the way you hang your head,
You're without love and now you're afraid
And through your tears you look around,
But there's no peace of mind to be found.
I know what you're thinkin',
You're alone now, no love of your own,
But darling, reach out (come on girl, reach out for me)
Reach out (reach out for me.)
Just look over your shoulder
I'll be there, to give you all the love you need,
And I'll be there, you can always depend on me.

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今もし君が 望みが全部消えてしまったから

もうこれ以上進めないと感じているなら

そして、幸せは幻だって思えるまで

人生が無茶苦茶になってしまったなら

そして、君のまわりの世界が崩れ落ちたなら

ダーリン、手を伸ばすんだ(さあ、僕に向かって手を伸ばすんだ)

手を伸ばすんだ(僕に手を伸ばすんだ)

僕はそこに駆けつけるから 君を守る愛とともに

僕はそこにいるから 君を支える愛とともに

僕は君を最後まで助けるためにそこにいるよ

 

君がベストを尽くしてもそれが全然足りなくて

途方に暮れてあきらめそうになったとき

そして、世界が冷たくなってゆく感じがするとき

そして、ひとりぼっちでさまよっているとき

そして、誰かの手を握りたいときは

ダーリン、手を伸ばすんだ(さあ、僕に手を伸ばすんだ)

手を伸ばすんだ(僕に手を伸ばすんだ)

そこに駆けつけるよ 

君のことを愛し、慰めるために

僕はそこにいるから 君のことを大切に思いやるために

僕はそこにいるよ 君を愛し、気持ちを楽にしてあげるために

 

僕にはわかるんだ どんな風に君がうなだれているのか

愛もないまま、いま君は怖れている

そして、涙が浮かんだ目で見渡してみても

心の安らぎは見つけられない
僕は君が何を思っているのかわかるよ
君はいま一人ぼっちで 愛する人もいない

だけどダーリン、

手を伸ばすんだ(さあ、僕に手を伸ばすんだ)

手を伸ばすんだ(僕に手を伸ばすんだ)

ただ振り返って見るだけでいい

僕はそこにいる 君が求めている愛を捧げるために

僕はそこにいるよ いつだって僕を頼ってくれればいいんだ

                         (拙訳)

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   ”ボブ・ディランのように歌え”

 

 1960年代のモータウンで、テンプテーションズのライバル・グループだったフォー・トップスは、品が良くおしゃれなテンプテーションズとは違い、エネルギッシュで勢いのあるスタイルが売りでした。

  モータウンのアーティストを集めて全米をツアーした「モータウン・レヴュー」ではフォー・トップスはケンカ腰でテンプテーションズを食ってやろうと必死にライヴをやったといいます。テンプスのほうは振り付けを一段と大きくして見せつけたそうで、踊りが得意ではないフォー・トップスは自己流でパワーで押したようです。ボクシングでいえばモハメド・アリジョー・フレイジャーの一戦みたいですね(古すぎますか、、)。

 メンバーでも特に闘争心むき出しだったのが、メイン・ヴォーカルのリーヴァイ・スタッブスだったそうで、やはりフォー・トップスといえば何と言っても彼のヴォーカルが最大の魅力でした。

 

  デトロイトの同じ高校にかようメンバーで結成したフォー・エイムズが発展したのがフォー・トップス。1956年にチェス・レコードと契約しますが売れず、長い間バック・コーラスをメインとする下積みを重ねていました。

 メンバーのいとこがソングライターで、ベリー・ゴーディと一緒に仕事をしたことがあったことから、ベリーの招きでモータウンのジャズ・レーベルにジャズ・グループとして契約することになります。しかし、世の中でジャズが売れなくなってきたことをリサーチしたベリーは、彼らが録音したジャズ・レコードをお蔵入りさせ、あらたに、作家チーム”ホランド=ドジャー=ホランド”の作るポップ・ソングを歌わせる方針に変えます。

 

 そして、再デビュー曲「ベイビー、アイ・ニード・ユー・ラビング」(1964年全米11位)がいきなりヒットを記録します。


Baby I Need Your Loving

 そして、彼らはホランド=ドジャー=ホランドのもとで、「アイ・キャント・ヘルプ・マイセルフ(シュガーパイ、ハニーバンチ)」(1965年全米1位)が大ヒットします。


I Can't Help Myself (Sugar Pie, Honey Bunch)

 続く「イッツ・ザ・セイム・オールド・ソング」(同全米5位)もヒットしますが、その後失速してゆき、一度はまだ16歳のスティーヴィー・ワンダーが共作した曲もリリースしましたが上手くゆかず、もう一度ホランド=ドジャー=ホランドがトライすることになります。

  ホランド=ドジャー=ホランドは、キャッチーでロマンティックなポップ・ソングをたくさん書いてヒットさせていましたので、この時期何か新しいものを求めていました。

 ラモン・ドジャーはこう語っています。

 

「このケースでは、僕はマインド・トリップ、テンションが持続する感情の旅、ボレロみたいなものを創り出したかった。それを伝えるために曲のキーを変えているんだ。マイナーなロシア調のAメロからメジャーでゴスペル調のサビにかわるときに」

  (THE  WALL STREET JOURNAL

ボレロみたいなもの、が念頭にあったというのは驚きですね。

そしてもう一つ、意外なアーティストからインスパイアされていることがわかりました。

 

「66年当時、私たちはボブ・ディランをよく聴いていました。彼は詩人であり、そして、『ライク・ア・ローリング・ストーン』での彼のトーク・シンギング・スタイルにインスパイアされました。ディランは特別で、私たちが尊敬する人でした。彼の歌詞の複雑さや、ところどころでセリフを話したり歌ったりするところが好きでした。『リーチ・アウト・アイル・ビー・ゼア』の歌詞を、ディランへの感謝の証明として、リーヴァイに叫んで歌ってもらいたかったのです」

 (THE  WALL STREET JOURNAL

 ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」にインスパイアされた、というのも驚きです。

 そして、ヴォーカルのリーヴァイのシャウトを引き出すために、ドジャーとホランドたちは曲のキーを彼の声域の上限ギリギリに設定したそうです。

 そして、エディ・ホランドはリヴァイにボブ・ディランのように歌えと言ったそうです。

 リーヴァイは最初は嫌がって"俺は歌手だ。喋ったり叫んだりはしない”と言っていたそうです。しかし、彼らは2時間ほどかけて、喋る部分と喋らない部分を分けて録音していきました。

 

 メンバーのディック・ファキールはこう回想しています。

「エディは、リーヴァイが声域の上限に達したときに、誰かが傷ついているように聞こえることに気づいて、そこまで歌わせたんだ。リーヴァイは文句を言っていましたが、私たちは彼がすごく気に入っているのがわかったよ。彼らが上限まで行ったと思うたびに、彼はもう少し先まで声を出したんだ、その声の中に涙が聞こえるまで」

 (THE GUARDIAN)

  声の中に涙が聞こえる、というのは見事な表現ですね。

 

 この曲のレコーディングが終わっても、メンバーはアルバム用の実験的だととらえていたそうです。しかし、ベリー・ゴーディだけはこの曲が売れると即断し、彼らに「税金のことに気をつけておくんだぞ、おまえたちにとって最大のヒットレコードをリリースすることになるんだから」と話し、それに対して彼らはどうかシングルにしないでくれとお願いしたといいます。

 フタを開けみたら、ベリーのいうとおり最大ヒットになり、彼らは今後何をシングルにするかは自分たちに相談しなくてもいい、とベリーに話したそうです。

 

  エドサリヴァン・ショー」でのパフォーマンス、”真っ向ストレート勝負”という彼ららしさがよく出ています。


Four Tops "Reach Out I'll Be There" on The Ed Sullivan Show

 

 さて、最後はこの曲と同じ路線だった次のシングル「Standing in the Shadows of Love」。僕は昔からこの曲好きなんです。ロッド・スチュワートもカバーしていました。


Standing In The Shadows Of Love

 

 フォー・トップスの最初の大ヒット。全米オンエア数はR&B作品では史上1位

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「はかない想い(Just My Imagination (Running Away with Me))」テンプテーションズ(1971)

 おはようございます。

 今日はテンプテーションズの「はかない想い」です。


Just My Imagination (Running Away With Me)

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Each day through my window
I watch her as she passes by
I say to myself
You're such a lucky guy
To have a girl like her
Is truly a dream come true
Out of all the fellas in the world
She belongs to you

But it was just my imagination
Runnin' away with me
Seems it was just my imagination
Runnin' away with me

Soon we'll be married
And raise a family, oh yeah
Have a cozy little house in the country
With two children maybe three
I tell you I can visualize it all
This couldn't be a dream, for too real it all seems

But it was just my imagination、once again
Runnin' away with me
Seems it was just my imagination
Runnin' away with me

Every night on my knees I pray
Dear Lord hear my plea
Don't ever let another take her away from me
For I would surely die
Her love is heavenly
When her arms enfold me I hear a tender rhapsody
But in reality, she doesn't even know me

Just my imagination、once again
Runnin' away with me
Tell you it was just my imagination
Runnin' away with me、、、

I never met her I can't forget her

Just my imagination
Runnin' away with me、、、

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来る日も来る日も 僕の家の窓から

彼女が通り過ぎるのを見つめる

僕はひとり言を言う

なんて僕は幸せな男だって

世界中の男の中で

あんな娘を彼女にできるなんて

本当に夢がかなったようなものだ

彼女はおまえのものなんだ

 

だけどそれはただの僕の空想

僕の中を駆け巡る

どうやら僕の空想みたいさ

抑えられないんだ

 

 

もうじき僕らは結婚する

そして家族を持つのさ

田舎に居心地のいい小さな家を建ててね
二人子供がたぶんそこにはいるのさ
僕には完璧に絵が浮かぶのさ

夢であるはずなんてない、全部があまりにリアルなんだ

だけどそれはただの僕の空想 今度もまた

僕の頭を駆け巡る

どうやら僕の空想みたいさ

抑えられないんだ

 

毎晩僕はひざまずいて祈る

神様僕の願いをどうか聞いてください

他のヤツが彼女を僕から奪わせないでください

でなければ、僕はきっと死んでしまいます

彼女の愛は天国のように素晴らしい

彼女の腕が僕を包む時 やさしいラプソディが聴こえてくる

だけど、現実は、彼女は僕の存在すら知らないんだ

ただの僕の空想 今度もまた

僕の頭を駆け巡る

それはただの僕の空想なんだよ

抑えられないんだ

ちゃんと会ったこともないのに、忘れられない

ただの僕の空想 抑えられないんだ、、、        (拙訳)

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”内省の時代”にぴったりハマった”妄想ラヴ・ソング”の最高峰

 

 妄想ラヴ・ソング史上(そんなカテゴリーはないですが)間違いなく最高傑作のひとつでしょう。平穏な妄想の中に、現実の切なさがそっと混じってくる、そのバランスが絶妙です。

 

 さて、この曲を歌っているテンプテーションズは中高年の洋楽ファンにはお馴染みwモータウンを代表する男性ボーカル・グループです。

 このブログでは「マイ・ガール」(1964)を以前とりあげました。

「マイ・ガール」はスモーキー・ロビンソンが、メンバーのデヴィッド・ラフィンの声の面白さにインスパイアされて、彼が歌うことを念頭に置きながら書かれた曲でした。

 

 それまでは、ファルセットが魅力のエディ・ケンドリックス、あともう一人ポール・ウィリアムスがメインで歌っていたのですが、「マイ・ガール」がきっかけで主役が代わることになってしまいました。

 その後エディがメインをとった曲もありましたが、ヒットしたのはほとんどデヴィドが歌ったものでした。

 

 しかし、デヴィッドが1968年にグループを脱退(解雇)、エディが主役の座に返り咲くかと思われましたが、代わりにグループに加入したデニス・エドワーズがメインのシングルを歌うようになります。デニスは男らしくエネルギッシュなボーカルで、エディとは正反対でした。

 

 1960年代後半はサイケデリック・ロックが流行し、R&Bサウンドもヘヴィーなものへと変わっていったタイミングで、テンプテーションズもそっちへと舵を切っていたので、きれいなデヴィッドの声より、ワイルドなデニスの声の方がフィットしていたんですね。

  社会性のある歌詞のついた曲を、デニスをメイン・ボーカルに、そこにエディのファルセットが絡むというのが彼らのスタイルになっていきました。

 

 1968年全米6位、「クラウド・ナイン」。”クラウド・ナイン”とはドラッグによってハイになっている状態のことをさすそうです。モータウンの社内会議でこの曲がヒットしないほうに手をあげたのは社長のベリー・ゴーディだけだったそうです。


Cloud Nine: The Temptations

 

 しかし、1971年のシングル「Ungena Za Ulimwengu」が不調に終わったことでその路線を見直す必要が生まれます。


Ungena Za Ulimwengu (Unite The World)

 

 そこで、次の候補として浮かび上がって来たのがこの「はかない想い」だったのです。

 テンプテーションズのプロデューサーはノーマン・ホイットフィールドで作詞家のバレット・ストロングと組んで彼らの曲もほとんど書いていました。

 キャッチーでポップなモータウンのヒット・ソングの多くを書いたソングライター・チーム”ホランド=ドジャー=ホランド”がモータウンを辞めてしまったあと、サイケデリックな時代の風潮に最も対応した曲を生み出しモータウンを救ったのが、ノーマンでした。

 「はかない想い」も1960年代後半に彼とバレットで書いた曲だったのですが、時代が合わないということでお蔵入りしていたものだったのです。

 

 激しい変動があった1960年代が終わり、この1971年頃というのは、音楽シーンも”内省的な”トーンに変わってゆきます。その代表が、キャロル・キングの「つづれおり」やジェイムス・テイラーでした。

 そういう時代の風潮と「はかない想い」のヒットも歩調を共にしていたように僕には思えます。

 そして、このヒットが、久しぶりにエディを主役の座に戻したのです。

 

  エディはのちのインタビューで、たくさんのテンプテーションズのファンは、グループがサイケデリックな方向に行ったあと間違っていると叫んでいて、元のソウル・サウンドに戻ることを求めていたんだ、と語っています。

 

 しかし、彼はこの頃すでに、グループをやめてソロになると心を決めていたのです。

 サイケデリック路線が不服だっただけじゃなく、デヴィッド・ラフィンと彼は仲が良くてデヴィッドがグループを解雇されたことに納得していなかったという話もあります。

 そして、彼はこの曲を最後にグループを脱退してしまいます。エディがメインをとった中での最大のヒット曲が、結局最後の曲になってしまったのです。

 

  「エドサリヴァン・ショー」でのパフォーマンス。華麗な振り付けが売りである彼らが、バラードとはいえ階段に座ったまま歌っているのが印象的です。

 

 この曲でギターを弾いている、ファンク・ブラザーズのエディ"チャンク"ウィリスはこの放送で、エディがメンバーから離れて座っているのを見て目が潤んでしまったと語っています。このときのエディは主役の位置ではなく孤立の位置にいたのだと、内実をよく知る人の目には映ったんですね。


The Temptations "Just My Imagination (Running Away With Me)" on The Ed Sullivan Show

 

 

 ローリングストーンズのカバー。「女たち」(1978)に収録。


Just My Imagination (Running Away With Me)

 

 

 

テンプテーションズと言ったらやっぱりこの曲。 

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モータウンの大ヒット曲

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「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード (Goodbye Yellow Brick Road)」エルトン・ジョン(1973)

 おはようございます。

 今日はエルトン・ジョンの「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」です。


Goodbye Yellow Brick Road (Remastered 2014)

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When are you gonna come down?
When are you going to land?
I should have stayed on the farm
I should have listened to my old man

You know you can't hold me forever
I didn't sign up with you
I'm not a present for your friends to open
This boy's too young to be singing, the blues

So goodbye yellow brick road
Where the dogs of society howl
You can't plant me in your penthouse
I'm going back to my plough

Back to the howling old owl in the woods
Hunting the horny back toad
Oh I've finally decided my future lies
Beyond the yellow brick road

What do you think you'll do then?
I bet that'll shoot down your plane
It'll take you a couple of vodka and tonics
To set you on your feet again

Maybe you'll get a replacement
There's plenty like me to be found
Mongrels who ain't got a penny
Sniffing for tidbits like you on the ground

So goodbye yellow brick road
Where the dogs of society howl
You can't plant me in your penthouse
I'm going back to my plough

Back to the howling old owl in the woods
Hunting the horny back toad
Oh I've finally decided my future lies
Beyond the yellow brick road

********************************************************************************

いつ戻ってくるんだい?

いつ到着するんだい?

僕は農場にいればよかったよ

父さんの言うことを聞くべきだった

 

君は僕を永遠に縛りつけることはできないんだ

君とは契約したわけじゃないから

僕は君の友達が開けるプレゼントじゃないんだ

この坊やは若すぎて歌えないのさ、ブルースなんて

 

だから、さよなら黄色いレンガ路

上流階級の犬たちがわめく場所

僕を君のペントハウスにいさせることはできないんだ

畑仕事に戻ることにするよ

 

森のなつかしいフクロウのところに戻って

背中がツノみたいなカエルを捕まえるさ

ああ、僕はようやく心に決めたんだ

僕の未来はこの黄色いレンガ路の向こうにあるって


君は何をやっていると思う、その頃?
このことが君の飛行機を撃ち落とすことになるだろうね
ウォカトニックを2杯は飲まなきゃ

もう一度立ち上がることはできないかもね

 

たぶん君は僕の代わりを見つけるだろう

僕みたいなやつならいくらでもいるさ

一文無しの野良犬たちが 地べたで

君みたいな餌を探して鼻をクンクンさせてるよ

 

だから、さよなら黄色いレンガ路

上流階級の犬たちがわめく場所

僕を君のペントハウスにいさせることはできないんだ

畑仕事に戻ることにするよ

 

森のなつかしいフクロウのところに戻って

背中がツノみたいなカエルを捕まえるさ

ああ、僕はようやく心に決めたんだ

僕の未来はこの黄色いレンガ路の向こうにあるって   (拙訳)

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 「ロケット・マン」(1972年全米6位、全英2位)、「クロコダイル・ロック」(同全米1位、全英5位)、「ダニエル」(1973年全米2位、全英4位)とヒット曲を連発し、一気に大スターの地位にのぼりつめたエルトン・ジョンは、次のアルバムのレコーディングをジャマイカで行うことに決めます。

 

 ローリング・ストーンズ(「山羊の頭のスープ」)、キャット・スティーヴンス(「異邦人〜キャット・スティーヴンス第5集」)など当時のスーパースターたちがジャマイカでレコーディングをしていたので、彼もそれに倣ったんですね。

 

 しかし、到着してみると治安はひどく、スタジオの機材もそろっていなかったため、彼ら一行は早々に引き上げ、前のアルバムで使ったフランスのストロベリー・スタジオ(フランスのエルヴィル城に作られたスタジオ)に移動し、アルバムの制作をはじめることになります。

 約2週間、バンド・メンバーとスタッフと家族のようにそこで生活しながらアルバムをレコーディングしていったそうです。

 

 エルトン・ジョンは必ず詞先で曲を書く人です。そして、作詞が相棒バーニー・トーピンのときにその才能が一段高いレベルで開花します。

 このときも、バーニーがせっせと書いた歌詞の山から、毎朝エルトンが選び、それに曲をつけて録音していったそうです。

 

 「いつも朝食のテーブルで書いた。そこに、バンド・メンバーも来て。朝食が終わる頃には曲が出来上がっていて、2曲リハーサルしてからスタジオに行きレコーディングする。僕がベッドに入っている間、メンバーがコーラスを入れてくれる。あれが僕たちのパワーの頂点だったね」( Songfacts)

 

 バンドのドラマーであるナイジェル・オルスンによると、歌詞のことで二人が話し合うことは一切なく、バーニーの歌詞にただただ曲をつけていくだけだったそうです。

 

「大変でもなく、努力もせず、楽しかった」とエルトンはこのときのことを回想しています。

 「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」は今ではエルトンにとっての「サージェント・ペパーズ」、「ペット・サウンズ」とまで評されているアルバムで、しかも二枚組なんです。

 

 バーニーも

「もし誰かがこのアルバム全体を他の誰かが書いたと言ったら、それを信じてしまうかもしれない。そこにいたことは覚えているが、ただ、自分の肉体を通して創作していなかったんだ」

「僕は手書きで歌詞を書いた。タイプライターを持っていなかったんだと思う。僕がはっきり覚えている数少ないことの一つは、これは今もその様子が浮かぶんだけど、僕はベッドの隅にすわってメモ帳にただ書いていた、ただ意識の流れで書いていたということだ」 (American Songwriter)

 

 彼らの創作能力がまさに”神がかっていた”時期だったのでしょう。

 

 ただし、エルトンはノリに乗ってテンションが高かったようですが、バーニーには大ブレイクしたことをどこか客観的に、悲観的に見る視点があったようです。

 実際にスポットライトを浴びるのはエルトンだけですから、そういう差が生まれるのは当然かもしれません。

 

「成功には幻滅していなかった。幻滅というよりは都会に出た地方の若者が経験する苦労だ。理解できない都会というか。<中略>もちろん、成功や名声への疑問もあった。ロックンロールがすべてではないという気持ちだ。」

(DVD クラシック・アルバムズ「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」)

 

「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」の”イエロー・ブリック・ロード”は、「オズの魔法使い」の主人公ドロシーが、オズの魔法使いが住むエメラルド・シティに向かう道のことだというのはよく知られています。

 

 歌詞は様々な解釈ができるとは思いますが、基本的には田舎から都会に出てきた青年が、田舎に帰ろうと決意する内容です。僕には、主人公は歌手になるために都会に出て来て、彼を縛ろうとしていたのはマネージャーやレーベルの人間、という風に思えます。芸能界での成功につながる道に別れを告げている、という風に。 

 

 ただ、スターダムに駆け上がったばかりので絶好調のアーティストが、もうやめて田舎に戻りたいという歌を歌うというのは、かなり皮肉なことです。しかし、それを「オズの魔法使い」を引用した優れた歌詞と、美しいコード感に満ちたメロディが重なることで、皮肉ではなく、内面の深みとしての表現になったように思えます。

 新進気鋭のアーティストだったエルトンの”才能の深化”が現れた曲として、彼に一段と箔をつける結果につながったわけです。

 

 バーニーはこのように語っています。

 「"自分のルーツのようなものに戻らなければならない "と考えていた時期があったんだ。そのため、初めの頃にはそういう気持ちを書いた曲をたくさん書いた。これもそのひとつだ。僕は、成功に背を向けたことも、成功はほしくない、と言ったこともない。自分がそこまでナイーブだったとは思えないんだ。ただ、もっと穏やかな環境で成功させる、幸せな中間のやり方があることを望んでいたのだと思う。僕の唯一のナイーヴなところは、思うに、すぐにそれができると信じていたことだなんだ。その目標を達成するためには、長い長い道のりを歩き、人生経験を積まなければいけなかったんだ」

                 (American Songwriter)

 

 このアルバムにはその後彼の最大のヒット曲になる「キャンドル・イン・ザ・ウインド」も入っています。これは、マリリン・モンローに捧げた歌ですが、バーニーは彼女のファンだったというわけではなく、彼女やジェームズ・ディーンや、ジム・モリソンなど若くして亡くなったスターという存在に興味を惹かれて作ったそうです。

 

 エルトンがスターへの階段を駆け上がっていこうという真っ最中に、逆にバーニーはルーツに戻ることを意識し、売れた時にはその成功を客観視し、疑問にさえ思っていたわけですね。

 

 彼はエルトンの歩みと逆行した考えを常に持ちながら、ソング・ライティングのパートナーとしてはこの上なくフィットしていてわけで、エルトンはそんな”逆のベクトルにあった”彼の歌詞を”才能の勢いに任せるままに”曲にして歌っていったわけです。

 そういういわゆる”アンビバレント”なバランスが当時のエルトンに不思議な魅力を加えることになったのかもしれません。言い換えれば、バーニーがたんに優れた作詞家というだけではなく、エルトンと同じような思いを持つ、単なる”代弁者的な”作詞家ではなかったからこそ、よかったのだと僕には思えます。

 思いが異なるがこそ、不思議な”化学反応”が起きたのではないかと思えるのです。

 

 しかし、やはりその後、ふたりの波長は合わなくなり、その3年後に一度袂を分かってしまいます(その7年後にまた復活しますが)。

 

 最後にカバーを2つ。まずは、2018年リリースのエルトンのトリビュート・アルバム「REVAMP」に収録されていた、ハード・ロック・バンド、クイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジのカバーを。プロデュースは、ブルーノ・マーズ「アップタウン・ファンク」やエイミー・ワインハウス「Rehab」を手がけたマーク・ロンソン。


Goodbye Yellow Brick Road

 そして、二大ピアノ・マンのもうひとり、ビリー・ジョエルのライヴ音源もどうぞ。


Billy Joel sings Goodbye Yellow Brick Road

 

 

 

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「流星のサドル」久保田利伸(1986)

 おはようございます。

 今日は久保田利伸の「流星のサドル」です。


久保田利伸 - 流星のサドル [Official Video]

 

 正真正銘、彼は日本のR&Bのパイオニアです。誰も異論はないですよね。

 でも、あらためて今の音楽シーンを眺めてみると、彼みたいなアーティストは他に誰もいないように思います。

 パイオニアですが、誰もつづかなかった、というよりつづけなかった、ということでしょう。つづこうとトライした人はいたはずですが。

 

 正確な表現は忘れてしまいましたが、彼が出てきたときにユーミンが、山下達郎が何年もかけてやってきたことを彼がいきなりやってしまった、みたいなことをどこかで発言していたのをおぼえています。

 

 それだけ稀有な才能であるわけですが、彼のR&B感とともに僕が最初からずっと気になっていたのが彼の”ポップ”感です。彼流のR&B道を極めてゆく道筋の中で、常に垣間見える”ポップ・センス”がただならぬもののような気がしていたのです。

 

 ポップ・センスも相当にあったからこそ、あんなに売れた、だからこそ、そのかわり。アーティストしての凄さが少しあいまいに映ってしまう、少しだけ軽めに見られてしまうそんなこともあったのかもな、とも思います。

 

  ここで、彼のスタート地点をもう一回振り返ってみたいと思います。

  まず、彼の音楽的なルーツについて発言しているものを探してみました。

 「僕が勝手に自分でラジオや何かで聴いて好きになったのは、ポール・マッカートニーとか、解散後のビートルズの面々ですね。スティーヴィー・ワンダーとかもあったけど」

                   (ROCKIN'ON JAPAN FILE vol.2)

 「『実は歌うこと、曲を作ることより、聴くことが好き』と明かした久保田は、自身の音楽の原点にスティーヴィー・ワンダー(63)の名前を挙げ、『中学、高校時代は毎日聴いていた。その後も今に至るまで週に2、3回は聴いている』と、今でもリスペクトしていることなどを話した」

                  (デイリー・スポーツ 2013年7月)

  スティーヴィー・ワンダーは納得ですが、ポール・マッカートニーや解散後のビートルズのメンバーというのが興味深いですね。

 

 彼は大学時代に組んだ”HOTTENTOTS”というファンク系のバンドで出場した”イースト・ウエスト”(サザン、ラッツ&スターエレカシなども出場したバンド・コンテスト)で最優秀ボーカルを獲得します。その後、バンドで作ったデモ・テープを気に入った今の事務所と契約することになります。

 「そう、歌手として俺はガンガンにいけるだろうと思ってた。作曲家としてっていうのはあんまり考えていなかった。」

               (ROCKIN'ON JAPAN FILE vol.2)

 そう語っていますが、彼はまず作曲家としてキャリアをスタートさせることになります。

 一番有名なのはこの曲ですね。


田原俊彦 It's BAD(ステレオ音声♫)

 嵐とか出てきたときに、ジャニーズもラップやるようになったんだ、と僕は思ったのですが、考えてみたら大昔にとっくにやっていましたね、、。

 

 そしてこうした実績をひっさげていよいよデビューするわけですが、彼はその前に”プロモーション用デモテープ”をマスコミに配り、それが大変な話題になります。”すごいぞ!テープ”と呼ばれていました。

 

 当時(1986年)、僕は大学生でR&Bばかり聞いていたので彼の評判を聞くとすぐデビュー・シングル「失意のダウンタウン」も買いました。そして、ラジオ局でバイトしていた友人が”すごいぞ!テープ”のコピーを持っていたので、聴くことができて、うわ〜すげえと思ったものです

"すごいぞ!テープ”はA面にデビュー・アルバムの楽曲、B面にカバー曲が収録されていて、特にB面の内容にみんな驚愕したんですね。


久保田利伸 すごいぞ!テープ It's BAD~ I Wish~ A Song For You デビュー前のデモテープ


久保田利伸 すごいぞ!テープ メドレー デビュー前のデモテープ

 2つ目の音源の最初は”ウィ・アー・ザ・ワールド”に参加したアーティストのオリジナル曲をメドレーで一人で歌いきるという離れ業ですね。

 

 そして、そのあとデビュー・アルバム「SHAKE IT PARADISE」が出るわけです。

 久保田本人は

「最初のデモ・テープまですごいものを作れていなかったんです」

「で、それを越えるものを作んなきゃいけないというプレッシャーがあって」

                  (ROCKIN'ON JAPAN FILE vol.2)

 

 と”すごいぞ!テープ”の反響がありすぎたことでかえって、ファースト・アルバムをインパクトのある作品にできなかった、という主旨の発言をしています。

 でも、僕は「SHAKE IT PARADISE」が彼のアルバムの中で一番好きなんです。

 このアルバムの良さは、彼のメロディー・メイカーとしての資質がすごく良く出ていることです。代表曲「Missing」以外のバラード「Dedicate(To M.E)」と「For You〜伝えられなくて」も美しいメロディーでかつ、それまでの日本のポップスでは聴いたことがないような雰囲気がありました。

 

 「流星のサドル」はアルバムの1曲目で、今ではこれがデビュー曲だったかのようなかたちになっています。デビュー曲「失意のダウンタウン」が、本人にとって何か不本意なものだったのでしょうか。僕は結構好きでしただ、、。、ただ、”すごいぞ!テープ”であれだけ煽ったので、まわりも、ものすごいシングルを期待してしまっていたことはあると思います。

 

 「SHAKE IT PARADISE」で僕が注目したいのは「もうひとりの君を残して」という曲。これは、今考えると異例な、ど真ん中のポップ・ソングです。彼が本来かなりのポップ・センスも持っていたことが感じられます。

 

 そのあと、彼は自分が制作のイニシアチヴをとるようになるにつれ、R&B色をどんどん強めていきました。今までの日本人ではたどりつけなかったR&Bの道を自ら選び、同時にポップ・センスは抑制するようになった気がします。

 『LA・LA・LA LOVE SONG』や「LOVE RAIN 〜恋の雨〜」といったドラマ・タイアップのときにだけ、彼のポップ・センスが発揮されたそういうイメージを僕は持っています。

 

 

 ただ、彼の歩みを追ってみてすごいと思うところは、R&B系はもちろん、バラードもポップ・ナンバーも、すべて洋楽的な作りを徹底しているところです。

 歌謡曲の要素とか日本人が好みそうなコード感など、に歩み寄ることなく、それなのにしっかり売れながら長いキャリアを貫いています。いまだにスティーヴィー・ワンダーを聴き続けているというのは、自分のソングライティングのスタンスがぶれないようにしている、意味があるのかな、などと勝手に想像してしまいます。

 

 洋楽的なアプローチをし続け、本来けっして日本の大衆向けではない音楽を作り続けながら、長くコンスタントに売れ続けているという点では、山下達郎と共通しているかもしれないと思います。

 ただ、山下達郎は”ポップス”に軸足を置き、そこに意識的にR&Bの要素をバランスや配分に留意しながら取り入れているようなイメージがあります。逆に、久保田はR&Bに軸足を置いていますが、R&B道を選んだからこそ、彼が本来持っていたポップ・センスを最大限に生かすことにためらいながら、ここまで来ているように思います。(もちろん勝手な妄想ですが)

 

 どちらにしろ、アメリカのR&Bの要素が強く、かつ日本人の多数にアピールできるポップスを作ることは、ごく限られたアーティストにしかできないことなんだなあ、とあらためて思ってしまいます。

 

 最後は個人的に僕が好きな彼のバラードを。サードアルバムに収録されていた「Love Reborn」。


久保田利伸 - Love Reborn - 1993

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