まいにちポップス(My Niche Pops)

令和初日から毎日、1000日連続で1000曲(せんきょく)を選曲(せんきょく)しました。。。古今東西のポップ・ソングのエピソード、洋楽和訳、マニアックなネタ、勝手な推理、などで紹介しています。キャッチーでメロディアスなポップスは今の時代では”ニッチ”なものになってしまったのかなあとも思いますが、このブログを読んでくださる方の音楽鑑賞生活に少しでもお役に立てればと願っています。みなさんからの追加情報や曲にまつわる思い出などコメントも絶賛募集中です!text by 堀克巳(VOZ Records)

「フィールズ・オブ・ゴールド(Fields of Gold)」スティング(1993)

 おはようございます。

 今日はスティングの「フィールズ・オブ・ゴールド」を。

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You'll remember me when the west wind moves
Upon the fields of barley
You'll forget the sun in his jealous sky
As we walk in fields of gold


So she took her love for to gaze awhile
Upon the fields of barley
In his arms she fell as her hair came down
Among the fields of gold


Will you stay with me? Will you be my love?
Among the fields of barley
We'll forget the sun in his jealous sky
As we lie in fields of gold


See the west wind move like a lover so
Upon the fields of barley
Feel her body rise when you kiss her mouth
Among the fields of gold


I never made promises lightly
And there have been some that I've broken
But I swear in the days still left
We'll walk in fields of gold
We'll walk in fields of gold

 

Many years have passed since those summer days
Among the fields of barley
See the children run as the sun goes down
Among the fields of gold


You'll remember me when the west wind moves
Upon the fields of barley
You can tell the sun in his jealous sky
When we walked in fields of gold
When we walked in fields of gold
When we walked in fields of gold

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君は僕を思い出すだろう
あの大麦畑の上を西風が渡る時
君は忘れるだろう 
嫉妬に染まる空に浮かぶ太陽のことも
黄金の草原を歩きながら


あの大麦畑をしばらく眺めたくて

彼女は恋人を連れ出した
髪を下ろしながら 彼の腕の中に身を委ねた
あの金色に輝く草原の中で


一緒にいてくれるかい?
僕の恋人になってくれるかい?
あの大麦畑に囲まれて
二人は嫉妬に染まる空に浮かぶ太陽を忘れるだろう
黄金の草原に横たわりながら


あの大麦畑の上を
西風が恋人がそうするように動くのを見て
君が口づけすると
彼女の体が浮き上がるのを感じる
あの金色に輝くの草原の中で


けっして軽い気持ちで約束してはいない
破ってしまったものもあるけれど
だけど、僕はまだ残された日々に賭けて誓うよ
黄金の草原を歩こう
黄金の草原を歩こう


大麦畑の中で過ごした
あの夏の日々から長い年月が過ぎた
日が暮れていく中を子供たちが走るのを見る
あの金色に輝く草原の中を


君は僕を思い出すだろう
あの大麦畑の上を西風が渡る時
君は話すがいい
嫉妬に染まる空に浮かぶ太陽に向かって
黄金の草原を二人歩いたときのことを
黄金の草原を二人歩いたときのことを

                                                  (拙訳)

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「フィールズ・オブ・ゴールド」の楽譜はこちら

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イングランドでは、私たちの家は大麦畑に囲まれていて、夏になると、風が金色の海の波のように、きらめく表面を移動してゆくのを見るのは魅力的なんだ。まるで風が大麦畑と愛し合っているような、なにか本質的にセクシーで原始的な光景だ。恋人たちはここで約束を交わし、その絆は心地よい季節のサイクルによって強められたに違いないと僕は思うんだ」

               (「Lyrics by Sting」)

 

 スティングはイングランド南西部のウィルトシャーにある16世紀に建てられたマナー・ハウス(荘園領主が建設した邸宅)を購入し、そこからの眺めにインスパイアされてこの「フィールズ・オブ・ゴールド」を書いたと言われています。

 

 この歌詞には、古典的な”詩”のような品格があるように僕は感じたのですが、古き良きイングランドを象徴するような大麦畑の景色だけじゃなく、それを眺めている彼がいる家もまた古き良きイングランドのものであり、そういうシチュエーションの中で、彼は16世紀頃の詩人になったかのような思いで、この曲を書いたのかもしれませんね。

 

 時間を超え、一個人の心の”狭い枠”も超えてゆくような、大きな視点を感じるところがこの曲の魅力だと思います。

 (最近は個人の内面を隅々まで突き詰めたような歌詞の曲が多すぎる気がして、久しぶりにこの曲を聴いてみたら、少し救われる気持ちになりました)

 

 あのポール・マッカートニーをして”自分が書いていたらよかったと思った”といわしめた曲(それ以前にポールにそう思わせた曲は、ビリー・ジョエルの「素顔のままで」だそうです)で、今ではスティングの代表曲のひとつですが、発売当初は全英16位、全米23位という、”まあまあの”ヒットでした。

 

 この曲が”クラシック”となるのに大きく貢献したカバーがあります。

 アメリカ、ワシントン出身のシンガー、ギタリストのエヴァ・キャシディが歌ったものです。 

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 彼女はワシントン・エリアでのみ知名度のあるアーティストでしたが、1996年に皮膚ガンのためにまだ33歳の若さで亡くなっています。

 彼女の死後、急速に再評価の動きが進み、1998年にBBCラジオ2で「フィールズ・オブ・ゴールド」と「虹の彼方に」が紹介され話題になり、ビデオで撮った「虹の彼方に」の映像が「トップ・オブ・ザ・ポップス2」で放映されると、彼女の人気は一気に上がり、コンピレーション・アルバム「ソングバード」は全英1位までのぼりつめます。彼女が亡くなってから3年後のことでした。

 その「ソングバード」の1曲めに入っていたのがこの「フィールズ・オブ・ゴールド」でした。

 その後、彼女のヴァージョンは、スティングのオリジナルと並ぶほど、この曲の”原型”になったようで、マイケル・ボルトンが彼女の歌に合わせて擬似デュエット版を作ったり、2017年に全英29位になったケイティ・メルアのカバーは、完全にエヴァ・キャシディのヴァージョンを基にしたものでした。

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 スティング本人もエヴァ・キャシディについて「これほど純粋な声はほとんど聴いたことがない」と言っていたようです。またある海外の方のブログでは(出典が明らかではないので真偽はわかりませんが)、スティングがデヴィッド・フォスターに彼女の「ソングバード」のCDを手渡して「もし君が僕の曲の最高のバージョンを聴きたければ、この女の子の「フィールズ・オブ・ゴールド」を聴くといい、君の人生が変わるよ」と言った、とも書かれています。

 

 最後はそのエヴァ・キャシディのライヴ・ヴァージョンを。彼女が亡くなった1996年に行われたライヴを収めた「Live at Blues Alley」。新たにリマスターされた25周年版が昨年リリースされましたが、そこに収録されているものです。

  歌声がこれほどまでに純粋に研ぎ澄まされると、心のこんな深いところまですうっと染み込んでゆくのか、、と思ってしまいます。

 

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「ムーン・リバー(Moon River)」オードリー・ヘプバーン(1961)

 おはようございます。

 今日はオードリー・ヘプバーンムーン・リバー(Moon River)」です。

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Moon river, wider than a mile
I'm crossing you in style some day
Oh, dream maker, you heart breaker
Wherever you're going, I'm going your way

 

Two drifters, off to see the world
There's such a lot of world to see
We're after the same rainbow's end,
Waiting 'round the bend
My huckleberry friend
Moon river and me

 

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ムーンリバー 1マイルよりもっと広くても
堂々と渡ってみせるわ いつか
ああ、夢をくれる人よ 悲しくさせる人よ
どこに行っても、私はあなたと同じ道を行くわ

 

二人の漂流者 世界を見るために旅に出る
見るべき世界はこんなにもたくさんある
私たちは同じ虹の果てを目指してる
川の曲がり角で待ちながら
私のハックルベリー・フレンド
ムーンリバーと私

 

           (拙訳)

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 ヘンリー・マンシーニが一ヶ月悩んだあとに30分で出来上がったという、永遠のスタンダード

 

 

 もともとは映画「ティファニーで朝食を」の劇中で使われていた楽曲です。

 作曲したヘンリー・マンシーニも作詞したジョニー・マーサーもアメリカの音楽史に名を残す巨匠です。

 ただし、この曲が作られた頃、マーサーはすでに巨匠でしたが、当時のロックンロールのブームによって”過去の人”になりかけていて、マンシーニはまだほとんど無名の存在でした。

 

 それまで、彼はユニバーサル映画のお抱え作曲家・編曲家として、ほとんどがクレジットもされない仕事(6年で100作品!)をやったあと、彼は会社の都合でクビになっていました。

 

 ただ、彼はフリーの音楽家として、TVシリーズ「ピーターガン」や「Mr.Lucky」の音楽を手がけ、その監督ブレイク・エドワーズから信頼されていました。そして、エドワーズが「ティファニーで朝食を」という映画を撮ることになると、彼に音楽を担当してほしいとリクエストされます。

 

 マンシーニが依頼されたのは映画のスコアだけで、映画会社は劇中歌はブロードウェイのミュージカルを書いている作家に依頼する予定でした。

 「ティファニーで朝食を」はニューヨークを舞台にした作品ですので、妥当な見解ではありました。

 しかし、マンシーニはそれに不満だったらしく、劇中歌も作らせてほしいと映画の制作トップのマーティン・ラッキンにも直談判しましたが

「キミはインストの作曲家で、ソングライターじゃないだろ?ほしいのはブロードウェイ・ミュージカルを書くような人なんだ」

 と一蹴されてしまいます。

 

 自分のエージェントに相談してもこう言われたそうです。

「君は素晴らしい監督と素晴らしい女優のすごい映画の仕事を手にしたんだ、波風を立てるな、歌は誰かに任せて、君はスコアだけやりなさい」

 

 それでもあきらめきれないマンシーニは、ブレイク・エドワーズと映画のプロデューサーに、せめて試しに曲を作らせてみてくれと頼みこみ、なんとか了承を得ます。

 



 しかし、自分から強引に売り込んだということは、逆に自分の首を絞めるというか、大変なプレッシャーにもなったようで、彼のキャリアの中で最ももがき苦しむ曲作りとなったのです。

 

 映画の中で誰が歌うのかさえ決まっていませんでしたが、ある晩偶然にオードリー・ヘプバーンが出演している映画「パリの恋人」がTVで放送されているのを彼は見たそうです。

 そして、彼女がその映画の中で歌っていた「HOW LONG HAS THIS BEEN GOING ON」という曲を彼はピアノで弾いてみると、わずか1オクターヴと1音の音域でできていることに気づきます。それなら、彼女にも歌えるわけだと気づき、自分が手がける映画でもヘプバーン自身が歌うべきだと確信するようになりました。

 

 こちらが「HOW LONG HAS THIS BEEN GOING ON」


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 「ムーン・リバー」が出来上がる過程について、マンシーニ本人はこう語っています。

 

「あの曲は僕が作った中で最も大変だったもののひとつだった。考えるのに1ヶ月かかった。どんな曲をこの娘が歌うべきだろう?どんなメロディが求められているだろう?ジャズ風のバラードであるべきか?ブルースがいいのか?

 ある夜家で夕食がすんでリラックスしていたんだ。そして、ガレージの外に作ったスタジオに行き、ピアノ(まだレンタル中)の前に座ると、いきなり最初の3音を弾いた。それがすごく魅力的に響いたんだ。僕は1オクターヴと1音でメロディーを組み立てた。それはシンプルで完全にダイアトニック(全音階)だった、Cのキーで。ピアノの白鍵だけで全部弾けるんだ。すぐに出来上がったよ。あのメロディを作るのに1ヶ月と30分かかったんだ」

 (「Did They Mention The Music?   The Autobiography of Henry mancini」) 

 

 「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」を書いたバート・ハワードは20分で曲を書く方法を見つけるのに、20年かかった」と語っていましたが、月をタイトルにした二大スタンダード曲は、両方ともあっという間に書けたものなんですね。ただし、そこまでには長い時間がかかったということも共通していますが。(それに両方ともワルツです)

 

 さて、出来上がった楽曲を監督のエドワーズもプロデューサーも気にいり、これでいこう、ということになります。エドワーズはマンシーニに作詞家は誰がいいかたずねると、彼はジャズの非常に高名な作詞家であるジョニー・マーサーの名前を挙げました。


 マンシーニにとってマーサーは長年の憧れの人で、ただ、一度も仕事はしたことがありませんでした。このときマンシーニが37才、マーサーが52才と年もかなり離れていました。
 
 マンシーニがこの曲をマーサーに聴かせると、彼はこう言ったそうです。

「君、いったい誰がワルツなんかレコーディングするんだ?映画のためにやったとしても、商業的には未来はないよ」

 

 当時はロックンロールの時代、「ムーン・リバー」はこの当時としても”オールド・スタイル”の曲だったんですね。

 

  曲に対してネガティヴな発言はしたものの、マーサーはプロ中のプロ、マンシーニのメロディに3通りの全く違うアングルの歌詞を用意してきます。しかも、それぞれが的確で、完璧にまとまっていて、それぞれが全く違っていたそうです。

 

 マンシーニがディナーの演奏の指揮をとることになっていたホテルのボールルームで、シンガーでもあるマーサーはマンシーニのピアノに合わせて、3通りの歌詞を歌ってみせたと言います。

 

 最初が「ティファニーで朝食を」でヘプバーンが演じる主人公ホーリー・ゴライトリーに合わせて”I'm Holly~"と歌い出すものだったそうです。

 そして、3つ目が”Blue River"というものでしたが、マーサーが調べてみると同じタイトルの曲がすでにあったそうです。同名異曲はよくあることなので問題はなかったのですが、マーサーは乗り気ではなかったようです。

 彼が代案として出したのが”ムーン・リバー”でした。

 同じタイトルのラジオ番組があるとマンシーニが言うと、歌のタイトルじゃないなら問題ない、と答えたそうです。

 

 そして、彼は”ムーン・リバー”を歌い始めました。

 

    マンシーニのピアノに合わせてマーサーが歌う、たぶん映画関係者へのプレゼン用のデモが公開されています。数多あるこの曲の演奏の中でも、最高のもののように僕には思えます。

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 マンシーニはこう回想しています。

「ゾクゾクっとするほど、ぴったりとはまったものを聴くことは、ごくまれにしかない。そして”ハックル・ベリー・フレンド”のラインを彼が歌ったときに、これだ、と僕は思った。彼はその言葉がどんな影響を与えるかわかっていたのか、それともただ思いついただけかわからないが、心が震えるものだった。はるかミシシッピマーク・トウェインやハックル・ベリーフィンの冒険を思い起こさせた。それはアメリカのこだま(echoes)なんだ。人々の心を高ぶらせる卓越した歌詞だった。決め手になるものだった」

 (「Did They Mention The Music?   The Autobiography of Henry mancini」) 

 

 

 当のマーサーはこう語っています。

「僕が南部で育ったころ、川のそばには野生の茂み、ブラックベリー、ストロベリー、小さなワイルドストロベリー、ワイルドチェリーの木々、ハックルベリーなんかがいつでも生えていたんだ。それと、マーク・トウェインミシシッピを舞台に書いたハックルベリー・フィンの名前を組み合わせたのさ、”ティファニーで朝食を”の少女が南西部のその辺りの出身だから、必要性にフィットしているように思えたんだ」

 (「Portrait of Johnny: The Life of John Herndon Mercer」)

 自分の幼少期の景色にあるハックルベリーをまず思い浮かべ、そこからハックルベリー・フィンにつなげていったんですね。

 そして、出来上がったものを関係者に聴かせると、全員が気に入って、ヘプバーンにこの歌を歌わせることで一致します。そして、マンシーニが指導しながら彼女の歌の録音が行われたのです。

 

  そして映画が完成し試写会後、関係者全員が満足して、パラマウント映画の制作トップのマーティ・ラッキンが滞在するホテルのスイートに集まったそうです。

  映画にはひとつだけ問題がありました。尺が長すぎてシーンをカットしなければいけなかったのです。

 全員が沈黙する中、ラッキンはこう言ったそうです。

”Well, the fucking song has to go”(ええと、あのクソみたいな歌はカットしなくちゃな)

 このラッキンさん、おしゃれなニューヨーカーで決して愛想も悪くない人物だったようですが、この曲のストーリーの中では完全に敵役ですね。

 最初に、マンシーニが劇中歌を書きたいという要望をはねつけ、出来上がったらそれをカットしろと言ったわけですから。

 「ムーン・リバー」という稀代の名曲の生誕における最大の障害、脅威といってもよかったでしょう。

 

 マンシーニはこの時のことをこう描写しています。

「僕はブレイクの方に目をやった。彼の顔を見た。彼の頭のてっぺんまで血がのぼっていた。マッチを下においた温度計みたいに。今にもブチ切れそうに見えた。オードリーは椅子で体を動かして、立ち上がって何かを言おうとしていた。彼らはマーティに向かって少し体を乗り出した、あたかも彼をリンチしようとするばかりに」

 (「Did They Mention The Music?   The Autobiography of Henry mancini」)

 

 なんて言っていますが、一番ショックだったのは作ったマンシーニ本人のはずだと思いますよね。

  マンシーニの奥さんのジニーもこの場にいたそうで、のちにこう語っています。

「私はヘンリーがどんどん青ざめてゆくのを見たわ。みんな、完全に唖然としていました。1、2分静かにしたあと、私たちはなぜこの曲を映画に残すべきか、他の部分をカットすべきかという理由が次々とまくしたてたんです」

 (BBC NEWS  9 June 2015)

 

 ちなみに、このときのエピソードとして、ヘプバーンが”Over My Dead Body”(そうしたいなら、私の屍を乗り越えてからにしなさい!)と啖呵を切ったという、もはや都市伝説なようなものもあるようです。真実はどうだったんでしょう?

 

 ともかく、無事にこの曲は映画に使われ、ご存知の通り、永遠のスタンダードになりました。

 

 マンシーニはこう言っています。

「今まで、「ムーン・リバー」のレコーディングは1000以上行われてきた。その全ての中で、友達のシンガーたちが録音したものを大目に見ているのではなく、オードリーのパフォーマンスが最も決定的なヴァージョンだった」

(「Did They Mention The Music?   The Autobiography of Henry mancini」)

 

 オードリー・ヘプバーンが歌うことをイメージし、彼女の声域に合わせて作った曲ですので、当然のことなのかもしれませんね。

 しかし、せっかくなので他のシンガーのカバーもご紹介します。

 

 この曲のカバーを最初にヒットさせたのは実はR&Bシンガーのジェリー・バトラーでした(1961年全米11位)。カーティス・メイフィールドと組んだインプレッションズのヴォーカルだった人ですね。このころは黒人版アンディ・ウィリアムスという評価もあったという、コンサバティヴなスタイルで売っていました。


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そして、この曲を自分の代名詞のように歌い続けたのがそのアンディ・ウィリアムス

ですが、彼はシングルとしてはこの曲をリリースしていなかったんですね。

しかし「ムーンリバー」を表題曲としたアルバム「Moon River and Other Great Movie Themes」は全米3位まであがり、彼を一気にスターへと押し上げました。


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そして最後に、全米11位のヒットとなったマンシーニ・オーケストラのヴァージョンを。

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「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン(Fly Me to the Moon)」フランク・シナトラ(1964)

 おはようございます。

 今日はフランク・シナトラ「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」です。

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Fly me to the moon
Let me play among the stars
And let me see what spring is like
On a-Jupiter and Mars
In other words, hold my hand
In other words, baby, kiss me


Fill my heart with song
And let me sing forevermore
You are all I long for
All I worship and adore
In other words, please be true
In other words, I love you


Fill my heart with song
Let me sing forevermore
You are all I long for
All I worship and adore
In other words, please be true
In other words, in other words
I love you

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僕を月まで飛ばして
星たちの間で歌わせて
そして、木星と火星では
春がどんなか見たいんだ
言い換えれば、僕の手を握って
つまり、ベイビー、キスして


僕の心を歌で満たして
そして永遠に歌わせてくれ
君は僕が恋しく思う相手
僕が崇拝し、熱愛するすべてなのさ
言い換えれば、どうぞ正直になって
つまり、君を愛している


僕の心を歌で満たして
そして永遠に歌わせてくれ
君は僕が恋しく思う相手
僕が崇拝し、熱愛するすべてなのさ
言い換えれば、どうぞ正直になって
つまり、君を愛している

                 (拙訳)

 

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「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」の楽譜はこちら

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 この曲を書いたバート・ハワードはこんな風に語っています。

 

「”20分で曲を書く方法を見つけるのに、20年かかったといつも僕は言っているんだ”と、ハワード氏は1988年のニューヨーク・タイムズ紙のインタビューで振り返っている。この曲はただ僕の中から出てきたんだ。ある音楽出版社が、歌詞を‘take me to the moon.’に変えてほしがっていた。もし、そうしていたら、今頃僕はどうなっていたかわからないね”」

(KUVO JAZZ  Stories of Standards: “Fly Me to the Moon”)

 

   彼は本名をハワード・ジョセフ・グスタフソンといい、1915年にアイオワ州バーリントンで生まれ、16歳で家を出てダンスバンドのピアニストになりました。1934年に映画の音楽を書きたくてロサンゼルスに行きましたが、結局、女性モノマネ芸人の伴奏をすることになります。そして、1937年にコメディアンでモノマネ芸人のエリザベス・タルボット=マーティンとチームを組んでニューヨークに移り住みます。

 

 そして、1938年に出会ったメイベル・マーサーというシンガーがニューヨークで初めて彼の曲を歌いますが、1941年から45年の4年間、彼は陸軍で音楽家として過ごすことになります。そのあと、ニューヨークのキャバレーでピアノを弾く仕事に就き、再びマーサーの伴奏をやり始めました。

 

 1951年から1959年までは彼はマンハッタンのおしゃれなナイトクラブ<ブルーエンジェル>の司会と出し物の合間に演奏するピアニストをやり、アーサ・キット、ジョニー・マティス、ドロシー・ラウドンといったアーティストをステージで紹介したそうです。

 

 この時代のスタンダードを書いたソングライターのほとんどは、映画やミュージカルで活躍していた人たちですが、この名曲中の名曲「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」を書いたソングライターは、モノマネ芸人の伴奏や、キャバレー、ナイト・クラブの司会やピアニストといった仕事を20年もやっていた、下積みミュージシャンだったのです。

 彼は偉大な作曲家コール・ポーターにずっと憧れて目標にしていたそうです。

 コール・ポーターは「ナイト・アンド・デイ」「ビギン・ザ・ビギン」「ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ」など、1930年代から50年代にかけて数々のスタンダードを書いたソングライターです。

 

 「ナイト・アンド・デイ」エラ・フィッツジェラルド

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 さて、この「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」のタイトルはもともと「In Other Words」といって、1954年にキャバレー歌手のフェリシア・サンダースがステージで歌ったのが最初だったそうです。

 

 そして、レコードになったものでは、女優、シンガーでコメディアンのケイ・バラードが録音したものが最初でした。

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 最初はワルツだったんですね。

   その後、数々のアーティストが取り上げ始め、1960年にペギー・リーがカバーし、「エド・サリバン・ショー」に出演してそれを披露したことがきっかけで広く知られるようになったようです。

 

   このときもまだタイトルは「In Other Words」のままでした。調べてみるとそのタイトルで30くらいカバーがありました。さて、どのタイミングで誰が最初に「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」としてリリースしたのかについては決定的な記述は見つかりませんでした。

 

 さて、この曲が初めてヒットチャートの上位に入ったのは、実はインストのものでした。

 1962年にピアニストのジョー・ハーネルがこの曲をボサノバにアレンジしたものが、ビルボード・チャートに13週間ランクイン(最高14位)したのです。ちなみに、ジョー・ハーネルのヴァージョンのタイトルは「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」となっています。 

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   僕はこのヴァージョンが「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」を大スタンダードにした最も重要なものだと考えています。

 

 ネットを見ると、1963年にペギー・リーがハワードを説得して、タイトルを「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」に変更させたという説がありますが、1962年にすでにハーネルがそのタイトルを使っていたので、その説は間違っているようですね。

 

 ここからは100%僕の推測ですが、ジョー・ハーネルが最初に「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」というタイトルにしたんじゃないでしょうか。

 

 この頃、この曲に少なからず影響を与えたことが起こっています。1961年5月にアメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディがいわゆるアポロ計画、1960年代中に人間を月に到達させるとの声明を発表したんですね。

 " Fly Me To The Moon"ってまさにぴったりじゃないか、ハーネル本人か制作関係者かわかりませんが、そう思ったんじゃないでしょうか。

 

 そして作者のハワードとしては、この曲の一番重要な決め台詞は"In other words, I love you"というところだったはずですが、インストならいいか、ってタイトルの変更を了承したんじゃないか、と。

 

 ところが、これが大ヒットして「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」のタイトルの方が有名になってしまったわけです。

 

 「In Other Words」というタイトルですでにリリースしていたペギー・リーはこの時期にジョー・ハーネルともレコーディングしていますから、私もこれから歌うときは「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」というタイトルにしたい、とハワードを説得した、そんな流れだったんじゃないかと。まあ、あくまでも僕の推測ですよ。

 

 そして、1964年にいよいよフランク・シナトラがこの曲をカバーします。

 この曲は『It Might as Well Be Swing』というシナトラがカウント・ベイシー楽団と共演するアルバムのオープニングを飾っていました。

 アレンジはクインシー・ジョーンズなんですね。シナトラ本人から電話でクインシーに仕事の依頼があったそうです。以前にクインシーがベイシーとやった仕事を彼が気に入っていたのです。

 この頃、クインシーはまだ売り出し中で知名度も低かったのですが、この仕事で一躍名が知られることになります。

 音楽史上屈指の大プロデューサー、クインシー・ジョーンズが成功するきっかけになったのがこのフランク・シナトラとの仕事、とりわけ「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」だったわけです。

 

 ここでクインシーは、もともとワルツだったこの曲を、4分の4拍子でアレンジしています。確かにそのほうが、もともとのスローワルツより、シナトラ×ベイシー楽団の良さが出るような気がします。

 

 そして、この曲とアポロ計画とのつながりはこういう形で着地(着陸?)することになります。    

 1969年にアポロ10号に乗った宇宙飛行士が地球から25万キロも離れた場所から、シナトラの歌う「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」をカセットで流したのです。

 

 そのこともあって、シナトラのヴァージョンはこの曲の決定版というポジションをつかむことになりました。そして、4分の4拍子のヴァージョンが有名になったことで、時代を超えてカバーされやすくなったという側面もあるような気がします。

 

 とは言いつつ、歌詞の内容からしても、この曲は女性が歌ったほうがいいな、と僕は思いますので、女性が歌ったものを最後に。

 ジャズ系では古いものではジュリー・ロンドンのヴァージョンは定番ですし、新し目では、シナトラのアプローチをベースにしたダイアナ・クラールも素晴らしく、なかなか選べませんので、違うアプローチのものにします。

 

  まずは、宇多田ヒカル。2000年のシングル「Wait&See~リスク」のカップリングに収録されていましたが、その後映画「シン・エヴァンゲリオン劇場版」シリーズで使われるためにリミックスされています。

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 そして、最新のカバー。オーストラリア出身のシンガーソングライター、シーア(Sia)。昨年末発表されたばかりで、『ファイナルファンタジーXIV』とのコラボのようです。

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「ブラック・ムーン」RAJIE(ラジ)(1981)

 おはようございます。

 今日はラジ(RAJIE)の「ブラック・ムーン」です。

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 僕が昔、”シティポップ感”をものすごく感じたものに、"MAXELL"のカセットテープ”UDシリーズ”のTVCMがありました。

 最初は、1980年の山下達郎の「RIDE ON TIME」。山下達郎本人が出演しているという、今考えるとものすごくレアなものですよね。

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 そして、翌1981年は同じ商品の新シリーズの色が黒だったことから、三人の女性シンガーに”黒”がタイトルに入った新曲を歌わせるという、画期的な企画がありました。

 

 使われたのは、吉田美奈子の「BLACK EYE LADY」、大貫妙子の「黒のクレール」、そしてラジの「ブラック・ムーン」で、三人ともCMに出演していました。

 ちなみに、「BLACK EYE LADY」は吉田美奈子本人の作詞作曲で編曲が山下達郎、「黒のクレール」も大貫妙子本人の作詞作曲で編曲は坂本龍一、「ブラック・ムーン」は作詞来生えつこ、作曲が南佳孝 編曲は井上鑑でした。

 

 ラジと吉田美奈子はCM動画がなかったのですが、大貫妙子の動画はこちらになります。

 

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 「黒のクレール」、すごくいい曲ですのでフルでもどうぞ。

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 ラジは吉田美奈子大貫妙子に比べてしまうと知名度は落ちてしまいますが、吉田、大貫がシティポップの枠を超えた存在になってしまったのに対し、彼女の作品群はシティポップというフォーマットに見事にリンクしたまま、今もなお存在し続けているように思えます。

 

 また、彼女は日本のポップス史に大きな足跡を残した重要人物たちと交流していた、貴重なプロフィールの持ち主です。

 

 彼女は本名を相馬純子といい、”ラジ”というのはアメリカのNBCのTVドラマ「巨像マヤ」の主役の一人であるインド人の少年の役名からとったそうです。

 

 1973年にROWという女子高生四人組グループで「失われたもの達」(作詞:山上路夫作曲:村井邦彦)という曲でデビューしています。

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 1975年には加藤和彦高橋ユキヒロのバックアップをうけ、グループ名を”ポニーテール”に変え再デビューし、「チャンスと口紅」(作詞:阿久悠 作曲:加藤和彦)というシングルをリリースしています。

 

 しかし、方向性の違いから彼女ともう一人のメンバーが脱退します(残ったメンバーは二人組になり、ムーンライダーズ一派のバックアップでユーミンの曲「二人は片思い」をリリースしています)。

 

 彼女はしばらくCMシンガーの仕事をやっていたそうですが、加藤和彦率いるサディスティック・ミカ・バンドの解散を受けて、バンドメンバーの高橋ユキヒロ、高中正義後藤次利今井裕が結成した”サディスティックス”の1stアルバム「Sadistics」(1977)のヴォーカリストの一人として抜擢され「TOKYO TASTE」と「香港戀歌」の2曲録音しています。

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 そして、同じ1977年に彼女は高橋ユキヒロと後藤次利サウンド・プロデュースでシングル「HOLD ME TIGHT」、アルバム「Heart to Heart」でソロ・デビューを果たします。

 

 昨今のシティポップ・ブームで、彼女のレパートリーの中で一番人気がこのデビュー曲。

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 もう一つの人気曲はサディスティックスのアルバムで歌ったものを再レコーディングした「TOKYO TASTE」。デュエットの相手は南佳孝

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   南佳孝は「ブラック・ムーン」を書いていますが、彼女には「クール・ダウン」という曲も書いてデュエットしています。ラジと南は同じレコード会社で同じディレクターでしたので、彼女は”女性版”南佳孝といった狙いもあったようです。

 

 高橋ユキヒロが軸になったことで、サディスティック・ミカ・バンドYMO細野晴臣坂本龍一)、ムーン・ライダーズ、そして井上鑑が参加したことでパラシュート(林立夫斎藤ノブ松原正樹、今剛)のメンバーと、この当時の”洋楽的な日本のポップス”を作り上げたミュージシャンが勢ぞろいして、彼女のバックを固めたというのは特筆すべきことでしょう。 

 

 そして、「ブラック・ムーン」がリリースされた1981年には、日本のポップスの金字塔である、大瀧詠一の「A LONG VACATION」に彼女は参加し「Velvet Motel」でデュエットしています。

 

 シティポップ・ブームに興味を持ってさかのぼって聴き始めた人たちには、彼女は避けては通れないアーティストだと僕は思います。

 

 21世紀のシティポップを代表する歌姫、一十三十一(ひとみとい)も「ブラック・ムーン」をカバーしています。

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 最後は、彼女はジャパニーズ・シティ・ポップの象徴的作家”林哲司”作品も歌っているのでそれを紹介します。

 杉山清貴&オメガトライブの1985年のアルバム「ANOTHER SUMMER」で、杉山清貴とデュエットしている「You're a Lady,I'm a Man.」です。

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「ブラック・ムーン」他人気曲を網羅したベスト

 

「HOLD ME TIGHT」を収録した人気盤

 

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「この世の果てまで(The End of the World)」スキータ・デイヴィス(1962)

 おはようございます。

 今日はスキータ・デイヴィスの「この世の果てまで(The End of the World)」です。

 

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Why does the sun go on shining?
Why does the sea rush to shore?
Don't they know it's the end of the world?
'Cause you don't love me any more


Why do the birds go on singing?
Why do the stars glow above?
Don't they know it's the end of the world?
It ended when I lost your love


I wake up in the morning and I wonder
Why everything's the same as it was
I can't understand, no, I can't understand
How life goes on the way it does


Why does my heart go on beating?
Why do these eyes of mine cry?
Don't they know it's the end of the world?
It ended when you said goodbye


Why does my heart go on beating?
Why do these eyes of mine cry?
Don't they know it's the end of the world?
It ended when you said goodbye

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なぜ、太陽は輝き続けるの?
なぜ、海は岸に押し寄せるの?
みんな世界が終わったって知らないの?
だって、あなたはもう私を愛してくれないから


なぜ、鳥は歌いつづけるの?
なぜ、星は空で輝くの?
みんな世界の終わったって知らないの?
終わったのよ、あなたの愛を失ったとき


朝、目が覚めると不思議に思う
どうして、何もかも前と変わっていないの
わからない、もう、わからない
どうして人生がそうなってしまうのか


なぜ、私の鼓動は止まらないの?
なぜ、私の瞳は泣いているの?
みんな世界の終わったって知らないの?
終わったのよ、あなたがさよならを言ったときに


なぜ、私の鼓動は止まらないの?
なぜ、私の瞳は泣いているの?
みんな世界の終わったって知らないの?
終わったのよ、あなたがさよならを言ったときに

                   (拙訳)

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「この世の果てまで」楽譜はこちら

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 僕はずっとこの曲を聴くたびに、10代の女の子のイメージを持っていたのですが、歌っていたスキータ・デイヴィスはこのときすでに31歳だったんですね。

 

 

 彼女の本名はMary Frances Penickで、1931年にケンタッキー州グレンコー近郊のドライリッジというところの出身です。エネルギッシュな彼女に感心した祖父から「スキータ」(蚊のスラング)というあだ名をつけられました。

 彼女は高校の同級生ベティ・ジャック・デイヴィスと一緒に歌い始め、デイヴィス・シスターズという名前に決めると(〜シスターズ、〜ブラザーズというのが流行っていました)、彼女はスキーター・デイヴィスと名乗りはじめました。

 彼女たちはデトロイトに移り、ラジオの番組で有名になり、1953年にRCAとレコーディング契約を結び、シングル「I Forgot More Than You'll Ever Know」がカントリー・チャートで1位になります。

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 それから間もなくして、ショーの出演した帰りに二人の乗った車が、居眠り運転の車に正面衝突され、ベティ・ジャックは亡くなってしまい、彼女も頭に重傷を負ってしまいます。

 しかし、ベティ・ジャックの母親はショービジネスへの執着があったようで、彼女が怪我から回復すると、強制的にベティ・ジャックの妹のジョージアと組ませ、デイヴィス・シスターズを再開させたそうです。

 

 3年ほど活動をし、彼女は結婚しますが相手の男が彼女の金目当てだったとわかり、結婚生活はわずか8日で終わってしまったそうです。また、彼女は結婚を口実にデイヴィス・シスターズもやめていました。

 

 それからしばらくの間、彼女はうつ病になっていたそうですが、ソロシンガーとして活動を再開します。

 音楽史に残る名ギタリスト、チェット・アトキンスのプロデュースにより彼女はヒット曲を生み出していきました。

 

「My Last Date (with You)」1960年 全米26位 カントリーチャート4位

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 彼女は「この世の果てまで」の印象があまりに強いのですが、もう1曲全米トップ10ヒットがあります。書いたのはなんと、キャロル・キング&ジェリー・ゴフィン。勢いのあった当時の彼女たちのスタイルに、デイヴィスが合わせたという感じはしないでもないですが。

 

 「I Can't Stay Mad at You」1963年全米7位(カントリー・チャートは最高14位と彼女にとっては”逆転現象”が起こっています。曲調はカントリーじゃないですから納得できますが)

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 さて、スキーター・デイヴィスはこの曲についてこのように語っています。

 

「チェットが私に何曲か渡して、"これを家に持って帰って、好きなのを探して "と言ったの。ニール・セダカの「悲しき慕情(Breaking Up Is Hard To Do)」のデモもあったけど、やらなかったんだ。キャロル・キングは「I Can't Stay Mad At You」も送ってきていて、それはやったわ。ともかく、チェットが曲を渡してくれて、そのデモの中に男の人が歌っている「この世の果てまで」があったの。この曲は、いろんな悲劇や長年の孤独や苦しみに耐えてきた私の気持ちを全部表していて、大好きになったの。不思議だったわ、誰かが死んだらこんな気持ちになるんだとだけ歌っていたのに。他の人はみんなは、ただのラブソングだと思ってた。私はこの曲が大好きで、レコーディングもしたけど、ずっとお蔵入りしていたので、世に出ることはなかったわ。最後に、私はチェットに「この曲をリリースしないなら、もうレコーディングはしない」と言ったの。それでリリースされたんだけど、何も起こらなかったわ。


 カントリーのDJたちは、そのB面の古いポップ・スタンダードでの"Somebody Loves You "をオンエアしていたのよ。最後に、ニューヨークのDJ、スコット・ムニ(WABC)が思いつきでこのレコードをかけたら、ニューヨークでブレイクしたの。1週間で10万枚のレコードが売れたわ。カーネギーホールで演奏したとき、作詞をしたシルヴィア・ディーに会ったのですが、彼女はこの曲を14歳のときに父親を亡くして書いたものだと言っていたわ。私が会ったとき、彼女は30歳だった。今でも私にとって本当に特別な曲なの」

    (Goldmine Magazine, January 31, 1986)

 

 この「この世の果てまで」は大切な人と死別したことを書いたもので、音楽パートナーであった親友を交通事故で亡くしたデイヴィスもそれに深く共感してこの曲を歌っていたのです。

 しかし、”Cause you don't love me any more””when you said goodbye”といった歌詞から、聴く人の多くは失恋の歌だと受け止めたわけですね。

 

 それにしても、祖父がつけたあだ名の”蚊”という意味の"スキータ”と、音楽パートナーでしかも早くに亡くなってしまった友達の名字”デイヴィス”を合わせたステージネームとともに生涯生きたというのは、なんともアンビバレントな人生であっただろうと思います。

 

  彼女はバディ・ホリーの大ファンで、1967年には「Skeeter Davis Sings Buddy Holly」というアルバムをリリースしています。

 

 最後にそのアルバムから、僕の好きなバディ・ホリーの曲を。「True Love Ways」を

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「この世の果てまで」楽譜はこちら

「ボーイ・ハント(Where The Boys Are)」コニー・フランシス(1961)

 おはようございます。

 今日はコニー・フランシスの「ボーイ・ハント」です。

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Where the boys are
Someone waits for me
A smiling face
A warm embrace
Two arms to hold me tenderly

Where the boys are
My true love will be
He's walking down some street in town
And I know he's looking there for me

In the crowd of a million people
I'll find my valentine
And then I'll climb to the highest steeple
And tell the world he's mine

Till he holds me
I'll wait impatiently
Where the boys are
Where the boys are
Where the boys are
Someone waits for me

Till he holds me
I'll wait impatiently
Where the boys are
Where the boys are
Where the boys are
Someone waits for me

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男の子たちがいるところで
誰かが私を待っている
微笑む顔
あたかい抱擁
私を優しく抱くふたつの腕

男の子たちがいるところに
私の本当の恋がある
彼は街のどこかの通りを歩いていて
そこで私を探しているの

 

100万の群衆の中で
私のバレンタインを見つけるの
そして一番高い塔に登って
彼は私のものだって 世界中に言うの

 

彼が抱きしめてくれるまで
私は待ち焦がれている
男の子たちがいるところ
男の子たちがいるところ
男の子たちがいるところ
誰かが私を待っている

 

彼が抱きしめてくれるまで
私は待ち焦がれている
男の子たちがいるところ
男の子たちがいるところ
男の子たちがいるところ
誰かが私を待っている

          (拙訳)

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 1960年代、アメリカン・ポップスを代表する歌姫で日本でも大変人気のあったのがコニー・フランシスです。などと言っている、僕もさすがにリアルタイムでは知りませんでしたが、かなり幼い頃に見たTVの歌番組で、日本の女性シンガーたちが彼女のこの曲を歌っているのを何度も見た記憶があります。

 

「ヴァケイション(Vacation)」1962年全米9位

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 日本人のカバーがいくつもありますが、一番ヒットしたのが弘田三枝子

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 中尾ミエの大ヒット「可愛いベイビー」(1962)の原曲もコニー・フランシスでした。

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 この曲はアメリカではアルバムの1曲、イギリスではシングルのB面だったそうですから、日本人関係者の”選曲眼”は素晴らしいですね。

 

 コニー・フランシスアメリカ・ニュージャージー州ニューアーク出身、イタリア系で本名はConcetta Rosa Maria Franconero(コンチェッタ・ローサ・マリア=フランコネロ)といいます。

 

 父親に勧められ、4歳の頃からタレントコンテストや近所のお祭りなどに定期的に出演し、歌やアコーディオン奏者として活躍していたそうで、1953年から1955年にかけてNBCのバラエティ番組『Startime Kids』という番組に出演しています。

 

  1955年にデビューし、シングル10枚をリリースしますが泣かず飛ばずで、レコード会社からもう1枚シングルを出したら契約終了すると宣告され、彼女は医学の道に進もうと決意します。

 最後のシングルは、彼女は気が進まなかったのですが、父親の強い勧めに押し切ら1923年に作られた「フーズ・ソリー・ナウ(Who's Sorry Now?)」という曲をカバーしました。

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 ところが、この曲が全米4位(1958年)という大ヒットになり、彼女は一躍スターになりました。

 彼女には全米NO.1になった曲が3曲ありますのでご紹介します。

 

「エヴリバディズ・サムバディーズ・フール(Everybody's Somebody's Fool)」(1960) ジャック・ケラー&ハワード・グリーンフィールドの作品

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「マイ・ハート(My Heart Has a Mind of Its Own)」(1960)こちらもケラー&グリーンフィールド。

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「泣かせないでね(Don't Break the Heart That Loves You)」(1961)

こちらも彼女の父の強い勧めでやることになった曲なのだそうです。たいしたパパですね。

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日本では「ヴァケイション」「可愛いベイビー」など、キャッチーなポップスのイメージが強いですが、本国でのヒットはカントリー・タッチの落ち着いた曲が多いようです。

 

 さて、ようやく「ボーイ・ハント」の話になります。

 この曲は彼女が全米1位をリリースしていた全盛期の1961年に、彼女が出演する同名の映画「ボーイ・ハント(Where The Boys Are)」の主題歌としてニール・セダカとハワード・グリーンフィールドが書いたものでした(全米4位)。

 

  映画の監督は主題歌に別のソングライターを考えていたのですが、コニーは「間抜けなキューピッド」というヒット曲を書いてもらっていたセダカとグリーンフィールドのコンビを強く推したそうです。

 乗り気ではなかった監督は1週間で決めなくてはいけないと彼女に言いますが、彼女はグリーンフィールドに1週間で曲を書いてとリクエストします。

 作詞家のグリーンフィールドは当初は「Where The Boys Are」という馬鹿げたタイトルで歌詞はかけないと言ったそうですが、セダカと曲を書き上げ間に合わせたそうです。

  一説によると、セダカたちは2曲作って送り、コニー含め三人が気に入っていなかったほうを監督が選んだ、なんて話もあります。

 

 コニー・フランシスは、この「ボーイ・ハント」を日本語を含め6ヶ国語で録音しています。

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  さてこの曲を作曲したニール・セダカは自身もシンガーですので、他のアーティストに提供するときも、いつも自分が歌うことをイメージしたそうですが、この曲だけはそういう事情もあり、他の人が歌う前提で作った彼の中では唯一の曲なのだそうです。

 

 彼のデモ・ヴァージョンがこちら。

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 まさに、ニール・セダカらしいポップな感じですね。最初は、彼らしい軽快な曲として書いていたようですね。しかし、彼女が歌う場合はバラードが良かったというのも頷けます。後年、彼もライヴでこの曲を歌うときはしっかりバラードとして歌っています。

 

 日本人のカバーとしては、近いところでは、竹内まりやが2003年リリースのカバー・アルバム『Longtime Favorites』で歌っているものがありますが、代表的なカバーとされているのが伊東ゆかり。彼女は1960年代に数多くのアメリカン・オールディーズをカバーしていましたが、この曲をシングルでリリースしたのが1971年、結構オリジナルのリリースから空いているんですよね。どんな背景があったんでしょう。ご存知の方はぜひコメント欄にお願いします。

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「悲しき街角(Runaway)」デル・シャノン(1961)

 おはようございます。

 今日はデル・シャノンの「悲しき街角」です。

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As I walk along I wonder
A-what went wrong with our love
A love that was so strong
And as I still walk on
I think of the things we've done together
A-while our hearts were young


I'm a-walkin' in the rain
Tears are fallin' and I feel the pain
Wishin' you were here by me
To end this misery
And I wonder
I wah-wah-wah-wah-wonder
Why
Why, why, why, why, why she ran away
And I wonder
A-where she will stay-ay
My little runaway
A-run, run, run, run, runaway

 

I'm a-walkin' in the rain
Tears are fallin' and I feel the pain
Wishin' you were here by me
To end this misery
I wonder
I wah-wah-wah-wah-wonder
Why
Why, why, why, why, why she ran away
And I wonder
A-where she will stay-ay

 

My little runaway
A-run, run, run, run, runaway
A-run, run, run, run, runaway
A-run, run, run, run, runaway

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ひとり歩きながら考える
僕たちの愛はどうしてしまったんだろう
強い愛だったのに
そして、僕はまだ歩いている
二人でやってきたことを思い浮かべて
僕たちの心が若かった頃


僕は雨の中を歩いている
涙がこぼれ落ち、胸が痛い
君がここにいてくれたらと思う
この苦しみを終わらせるために
そして、僕は疑問に思う
なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、彼女は行ってしまったのか
そして、僕は思う
彼女はどこにいるんだろう
僕のかわいい どこかに消えた恋人

 


僕は雨の中を歩いている
涙がこぼれ落ち、胸が痛い
君がここにいてくれたらと思う
この苦しみを終わらせるために
そして、僕は疑問に思う
なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、彼女は行ってしまったのか
そして、僕は思う
彼女はどこにいるんだろう

 

僕のかわいい どこかに消えた恋人
どこかに消えた恋人
どこかに消えた恋人
どこかに消えた恋人

        (拙訳)

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  "Runaway”は大人なら「逃亡者」、十代なら「家出少年、少女」を指して肯定的な言葉ではないのですが、出て行ってしまった恋人に愛情を込めて”My little Runaway"と呼ぶところが、まずつかみになっています。

 

  音楽的には大瀧詠一がこのように語っています。

「「悲しき街角」が彼の第1作目で、全米は固より、わが国でも大ヒットした。話の筋は多少それるが、この曲が60年代日本のポップスー洋風(と日本人が感じる)な歌謡曲ーのベースになった、というのが私の見方である。専門的になってしまうが、Am G F E7というこの曲のコード進行(他には「花咲く街角」のインマグロ(註:イントロの大瀧流の言い回し)、ヴァンチャーズの「急がば廻れ」、アニマルズの「悲しき願い」のメロディ部分で使用されている、といえばどんな感じか多少の見当はつくと思うが如何なもんでショ)は、哀愁を帯びた旋律を生みやすく、よく使われた。特にグループ・サウンズ時代に酷使された事は記憶に新しい。最近の歌謡界は60年代後半の「ポップス」が主流になった感が強く、いまだにあのコード進行が使用されて、しかもヒットしているという事は、定着したという事で、日本では、彼のサウンド潜’在’的’な’意’味’合’い’で評価されていると言えそうで、影響されているのはマージー・ビートの連中だけではなかった、と改めて感じた」

 (「ニューミュージックマガジン」1978年4月号)

 

  ”ポップス”に関する最高峰の知識と見識を持つ大瀧をして、”1960年代の日本のポップスのベースとなった”、と言わしめるほどの重要な曲なんですね。

 

 彼の他のヒット曲も聴いてみましょう。

 「悲しき街角」の大ヒット受けて、続く二枚のシングルは原題に関係なく、邦題に”街角”を入れることで、シリーズ作のようなイメージをつけ、それがまた成功しました。

 

「花咲く街角 (Hats Off to Larry)」 (1961年 全米5位・全英6位)

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「さらば街角 (So Long, Baby)」 (1961年 全米28位・全英10位)

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 1960年代のアメリカンポップス黄金時代にあって、マイナー調のヒットが多いというのはかなり珍しく、その哀愁味が特に日本人にフィットしたのかもしれません。

 

「太陽を探せ (Keep Searchin' (We'll Follow the Sun))」 (1964年 全米9位・全英3位)

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「街角のストレンジャー(Stranger in Town)」 (1965年 全米30位・全英40位)

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  デル・シャノンはデビューする際に考えられた名前で、本名はチャールズ・ウエストオーヴァーです。

 デルは、彼が働いていたカーペット店のボスが乗っていたキャデラックの”Coupe de Ville"から、シャノンは彼が演奏していた店の常連客でプロレスラー志望だった男が考えて使わなかったリングネーム”マーク・シャノン”からとったといいます。

 

 ちなみに”de ville”はフランス語で”都会、街角”を意味しますから、彼の曲に”街角”シリーズの邦題をつけた日本の担当者が、そこまで知っていてつけていたら感服してしまいますが、どうなんでしょう?

 

  この「悲しき街角」はキーボード奏者のマックス・クルックとの共作になっています。

クルックはこう回想しています。

「僕たちはミシガン州バトルクリークのナイトクラブ「Hi-Lo」で週に幾晩か演奏していたんだけど、デルは同じようなブルース進行の曲に飽きてきたんだ。「何か違うことをやってみようよ」とデルは僕に言った。それで、新たにコードを繰り返して弾いてみたら、それがAmとGなんだけど、彼は「いいね。何か書いてみるよ 」って言ったんだ。それで彼はランダムに歌詞を歌い始めたんだ。そして、曲の真ん中にある音楽の橋渡しのために何か弾くように言われたんだよ。その頃、私はミュージトロンというちょっとした楽器を作っていて、ピアノと一緒に置いていたんだ。それで、いざブリッジを作ることになったときに、頭の中から出てきたものをそのまま弾いたんだけなんだ。レコードで聴くことができるのは、まさに僕がミュージトロンで思いついたもので、何の変更も加えていない。たくさんの人が、とてもユニークで面白いと言ってくれた。でも、当時の私にとっては、ただ流れ出てきたものだったんだ」

         (Forbes  Mar 6, 2019)

 デル・シャノンのトレードマークとなるコード進行、そしてミュージトロンのサウンド、クルックの貢献度はかなり大きいですね。

 当時シャノンは、カーペットのセールスマンを続けていて、クルックによるとシャノンはそのカーペットの上でこの曲の歌詞を書き上げたそうです。

 

 また、シャノンはソングライターとしてもこんな大ヒット曲を書いています。

 

ピーター&ゴードン『アイ・ゴー・トゥ・ピーセス( I Go to Pieces)』 (1965年 全米9位)

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  彼は1960年代半ば以降ヒットに恵まれませんでしたが、若い頃に彼に憧れていたアーティストのバックアップで作品をリリースしていますので、最後に2曲ご紹介します。

 

 トム・ペティのプロデュースでフィル・フリップスの「シー・オブ・ラブ (Sea of Love )」をカバー。(1981年全米33位)

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 ジェフ・リンとマイク・キャンベル(ハートブレイカーズ)がプロデュースした「ウォーク・アウェイ (Walk Away)」(1991年 全米99位)

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