おはようございます。
今日はフランク・シナトラ「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」です。
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Fly me to the moon
Let me play among the stars
And let me see what spring is like
On a-Jupiter and Mars
In other words, hold my hand
In other words, baby, kiss me
Fill my heart with song
And let me sing forevermore
You are all I long for
All I worship and adore
In other words, please be true
In other words, I love you
Fill my heart with song
Let me sing forevermore
You are all I long for
All I worship and adore
In other words, please be true
In other words, in other words
I love you
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僕を月まで飛ばして
星たちの間で歌わせて
そして、木星と火星では
春がどんなか見たいんだ
言い換えれば、僕の手を握って
つまり、ベイビー、キスして
僕の心を歌で満たして
そして永遠に歌わせてくれ
君は僕が恋しく思う相手
僕が崇拝し、熱愛するすべてなのさ
言い換えれば、どうぞ正直になって
つまり、君を愛している
僕の心を歌で満たして
そして永遠に歌わせてくれ
君は僕が恋しく思う相手
僕が崇拝し、熱愛するすべてなのさ
言い換えれば、どうぞ正直になって
つまり、君を愛している
(拙訳)
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この曲を書いたバート・ハワードはこんな風に語っています。
「”20分で曲を書く方法を見つけるのに、20年かかったといつも僕は言っているんだ”と、ハワード氏は1988年のニューヨーク・タイムズ紙のインタビューで振り返っている。この曲はただ僕の中から出てきたんだ。ある音楽出版社が、歌詞を‘take me to the moon.’に変えてほしがっていた。もし、そうしていたら、今頃僕はどうなっていたかわからないね”」
(KUVO JAZZ Stories of Standards: “Fly Me to the Moon”)
彼は本名をハワード・ジョセフ・グスタフソンといい、1915年にアイオワ州バーリントンで生まれ、16歳で家を出てダンスバンドのピアニストになりました。1934年に映画の音楽を書きたくてロサンゼルスに行きましたが、結局、女性モノマネ芸人の伴奏をすることになります。そして、1937年にコメディアンでモノマネ芸人のエリザベス・タルボット=マーティンとチームを組んでニューヨークに移り住みます。
そして、1938年に出会ったメイベル・マーサーというシンガーがニューヨークで初めて彼の曲を歌いますが、1941年から45年の4年間、彼は陸軍で音楽家として過ごすことになります。そのあと、ニューヨークのキャバレーでピアノを弾く仕事に就き、再びマーサーの伴奏をやり始めました。
1951年から1959年までは彼はマンハッタンのおしゃれなナイトクラブ<ブルーエンジェル>の司会と出し物の合間に演奏するピアニストをやり、アーサ・キット、ジョニー・マティス、ドロシー・ラウドンといったアーティストをステージで紹介したそうです。
この時代のスタンダードを書いたソングライターのほとんどは、映画やミュージカルで活躍していた人たちですが、この名曲中の名曲「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」を書いたソングライターは、モノマネ芸人の伴奏や、キャバレー、ナイト・クラブの司会やピアニストといった仕事を20年もやっていた、下積みミュージシャンだったのです。
彼は偉大な作曲家コール・ポーターにずっと憧れて目標にしていたそうです。
コール・ポーターは「ナイト・アンド・デイ」「ビギン・ザ・ビギン」「ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ」など、1930年代から50年代にかけて数々のスタンダードを書いたソングライターです。
「ナイト・アンド・デイ」エラ・フィッツジェラルド
さて、この「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」のタイトルはもともと「In Other Words」といって、1954年にキャバレー歌手のフェリシア・サンダースがステージで歌ったのが最初だったそうです。
そして、レコードになったものでは、女優、シンガーでコメディアンのケイ・バラードが録音したものが最初でした。
最初はワルツだったんですね。
その後、数々のアーティストが取り上げ始め、1960年にペギー・リーがカバーし、「エド・サリバン・ショー」に出演してそれを披露したことがきっかけで広く知られるようになったようです。
このときもまだタイトルは「In Other Words」のままでした。調べてみるとそのタイトルで30くらいカバーがありました。さて、どのタイミングで誰が最初に「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」としてリリースしたのかについては決定的な記述は見つかりませんでした。
さて、この曲が初めてヒットチャートの上位に入ったのは、実はインストのものでした。
1962年にピアニストのジョー・ハーネルがこの曲をボサノバにアレンジしたものが、ビルボード・チャートに13週間ランクイン(最高14位)したのです。ちなみに、ジョー・ハーネルのヴァージョンのタイトルは「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」となっています。
僕はこのヴァージョンが「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」を大スタンダードにした最も重要なものだと考えています。
ネットを見ると、1963年にペギー・リーがハワードを説得して、タイトルを「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」に変更させたという説がありますが、1962年にすでにハーネルがそのタイトルを使っていたので、その説は間違っているようですね。
ここからは100%僕の推測ですが、ジョー・ハーネルが最初に「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」というタイトルにしたんじゃないでしょうか。
この頃、この曲に少なからず影響を与えたことが起こっています。1961年5月にアメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディがいわゆるアポロ計画、1960年代中に人間を月に到達させるとの声明を発表したんですね。
" Fly Me To The Moon"ってまさにぴったりじゃないか、ハーネル本人か制作関係者かわかりませんが、そう思ったんじゃないでしょうか。
そして作者のハワードとしては、この曲の一番重要な決め台詞は"In other words, I love you"というところだったはずですが、インストならいいか、ってタイトルの変更を了承したんじゃないか、と。
ところが、これが大ヒットして「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」のタイトルの方が有名になってしまったわけです。
「In Other Words」というタイトルですでにリリースしていたペギー・リーはこの時期にジョー・ハーネルともレコーディングしていますから、私もこれから歌うときは「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」というタイトルにしたい、とハワードを説得した、そんな流れだったんじゃないかと。まあ、あくまでも僕の推測ですよ。
そして、1964年にいよいよフランク・シナトラがこの曲をカバーします。
この曲は『It Might as Well Be Swing』というシナトラがカウント・ベイシー楽団と共演するアルバムのオープニングを飾っていました。
アレンジはクインシー・ジョーンズなんですね。シナトラ本人から電話でクインシーに仕事の依頼があったそうです。以前にクインシーがベイシーとやった仕事を彼が気に入っていたのです。
この頃、クインシーはまだ売り出し中で知名度も低かったのですが、この仕事で一躍名が知られることになります。
音楽史上屈指の大プロデューサー、クインシー・ジョーンズが成功するきっかけになったのがこのフランク・シナトラとの仕事、とりわけ「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」だったわけです。
ここでクインシーは、もともとワルツだったこの曲を、4分の4拍子でアレンジしています。確かにそのほうが、もともとのスローワルツより、シナトラ×ベイシー楽団の良さが出るような気がします。
そして、この曲とアポロ計画とのつながりはこういう形で着地(着陸?)することになります。
1969年にアポロ10号に乗った宇宙飛行士が地球から25万キロも離れた場所から、シナトラの歌う「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」をカセットで流したのです。
そのこともあって、シナトラのヴァージョンはこの曲の決定版というポジションをつかむことになりました。そして、4分の4拍子のヴァージョンが有名になったことで、時代を超えてカバーされやすくなったという側面もあるような気がします。
とは言いつつ、歌詞の内容からしても、この曲は女性が歌ったほうがいいな、と僕は思いますので、女性が歌ったものを最後に。
ジャズ系では古いものではジュリー・ロンドンのヴァージョンは定番ですし、新し目では、シナトラのアプローチをベースにしたダイアナ・クラールも素晴らしく、なかなか選べませんので、違うアプローチのものにします。
まずは、宇多田ヒカル。2000年のシングル「Wait&See~リスク」のカップリングに収録されていましたが、その後映画「シン・エヴァンゲリオン劇場版」シリーズで使われるためにリミックスされています。
そして、最新のカバー。オーストラリア出身のシンガーソングライター、シーア(Sia)。昨年末発表されたばかりで、『ファイナルファンタジーXIV』とのコラボのようです。