おはようございます。
今日はデル・シャノンの「悲しき街角」です。
As I walk along I wonder
A-what went wrong with our love
A love that was so strong
And as I still walk on
I think of the things we've done together
A-while our hearts were young
I'm a-walkin' in the rain
Tears are fallin' and I feel the pain
Wishin' you were here by me
To end this misery
And I wonder
I wah-wah-wah-wah-wonder
Why
Why, why, why, why, why she ran away
And I wonder
A-where she will stay-ay
My little runaway
A-run, run, run, run, runaway
I'm a-walkin' in the rain
Tears are fallin' and I feel the pain
Wishin' you were here by me
To end this misery
I wonder
I wah-wah-wah-wah-wonder
Why
Why, why, why, why, why she ran away
And I wonder
A-where she will stay-ay
My little runaway
A-run, run, run, run, runaway
A-run, run, run, run, runaway
A-run, run, run, run, runaway
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ひとり歩きながら考える
僕たちの愛はどうしてしまったんだろう
強い愛だったのに
そして、僕はまだ歩いている
二人でやってきたことを思い浮かべて
僕たちの心が若かった頃
僕は雨の中を歩いている
涙がこぼれ落ち、胸が痛い
君がここにいてくれたらと思う
この苦しみを終わらせるために
そして、僕は疑問に思う
なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、彼女は行ってしまったのか
そして、僕は思う
彼女はどこにいるんだろう
僕のかわいい どこかに消えた恋人
僕は雨の中を歩いている
涙がこぼれ落ち、胸が痛い
君がここにいてくれたらと思う
この苦しみを終わらせるために
そして、僕は疑問に思う
なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、彼女は行ってしまったのか
そして、僕は思う
彼女はどこにいるんだろう
僕のかわいい どこかに消えた恋人
どこかに消えた恋人
どこかに消えた恋人
どこかに消えた恋人
(拙訳)
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"Runaway”は大人なら「逃亡者」、十代なら「家出少年、少女」を指して肯定的な言葉ではないのですが、出て行ってしまった恋人に愛情を込めて”My little Runaway"と呼ぶところが、まずつかみになっています。
音楽的には大瀧詠一がこのように語っています。
「「悲しき街角」が彼の第1作目で、全米は固より、わが国でも大ヒットした。話の筋は多少それるが、この曲が60年代日本のポップスー洋風(と日本人が感じる)な歌謡曲ーのベースになった、というのが私の見方である。専門的になってしまうが、Am G F E7というこの曲のコード進行(他には「花咲く街角」のインマグロ(註:イントロの大瀧流の言い回し)、ヴァンチャーズの「急がば廻れ」、アニマルズの「悲しき願い」のメロディ部分で使用されている、といえばどんな感じか多少の見当はつくと思うが如何なもんでショ)は、哀愁を帯びた旋律を生みやすく、よく使われた。特にグループ・サウンズ時代に酷使された事は記憶に新しい。最近の歌謡界は60年代後半の「ポップス」が主流になった感が強く、いまだにあのコード進行が使用されて、しかもヒットしているという事は、定着したという事で、日本では、彼のサウンド潜’在’的’な’意’味’合’い’で評価されていると言えそうで、影響されているのはマージー・ビートの連中だけではなかった、と改めて感じた」
(「ニューミュージックマガジン」1978年4月号)
”ポップス”に関する最高峰の知識と見識を持つ大瀧をして、”1960年代の日本のポップスのベースとなった”、と言わしめるほどの重要な曲なんですね。
彼の他のヒット曲も聴いてみましょう。
「悲しき街角」の大ヒット受けて、続く二枚のシングルは原題に関係なく、邦題に”街角”を入れることで、シリーズ作のようなイメージをつけ、それがまた成功しました。
「花咲く街角 (Hats Off to Larry)」 (1961年 全米5位・全英6位)
「さらば街角 (So Long, Baby)」 (1961年 全米28位・全英10位)
1960年代のアメリカンポップス黄金時代にあって、マイナー調のヒットが多いというのはかなり珍しく、その哀愁味が特に日本人にフィットしたのかもしれません。
「太陽を探せ (Keep Searchin' (We'll Follow the Sun))」 (1964年 全米9位・全英3位)
「街角のストレンジャー(Stranger in Town)」 (1965年 全米30位・全英40位)
デル・シャノンはデビューする際に考えられた名前で、本名はチャールズ・ウエストオーヴァーです。
デルは、彼が働いていたカーペット店のボスが乗っていたキャデラックの”Coupe de Ville"から、シャノンは彼が演奏していた店の常連客でプロレスラー志望だった男が考えて使わなかったリングネーム”マーク・シャノン”からとったといいます。
ちなみに”de ville”はフランス語で”都会、街角”を意味しますから、彼の曲に”街角”シリーズの邦題をつけた日本の担当者が、そこまで知っていてつけていたら感服してしまいますが、どうなんでしょう?
この「悲しき街角」はキーボード奏者のマックス・クルックとの共作になっています。
クルックはこう回想しています。
「僕たちはミシガン州バトルクリークのナイトクラブ「Hi-Lo」で週に幾晩か演奏していたんだけど、デルは同じようなブルース進行の曲に飽きてきたんだ。「何か違うことをやってみようよ」とデルは僕に言った。それで、新たにコードを繰り返して弾いてみたら、それがAmとGなんだけど、彼は「いいね。何か書いてみるよ 」って言ったんだ。それで彼はランダムに歌詞を歌い始めたんだ。そして、曲の真ん中にある音楽の橋渡しのために何か弾くように言われたんだよ。その頃、私はミュージトロンというちょっとした楽器を作っていて、ピアノと一緒に置いていたんだ。それで、いざブリッジを作ることになったときに、頭の中から出てきたものをそのまま弾いたんだけなんだ。レコードで聴くことができるのは、まさに僕がミュージトロンで思いついたもので、何の変更も加えていない。たくさんの人が、とてもユニークで面白いと言ってくれた。でも、当時の私にとっては、ただ流れ出てきたものだったんだ」
(Forbes Mar 6, 2019)
デル・シャノンのトレードマークとなるコード進行、そしてミュージトロンのサウンド、クルックの貢献度はかなり大きいですね。
当時シャノンは、カーペットのセールスマンを続けていて、クルックによるとシャノンはそのカーペットの上でこの曲の歌詞を書き上げたそうです。
また、シャノンはソングライターとしてもこんな大ヒット曲を書いています。
ピーター&ゴードン『アイ・ゴー・トゥ・ピーセス( I Go to Pieces)』 (1965年 全米9位)
彼は1960年代半ば以降ヒットに恵まれませんでしたが、若い頃に彼に憧れていたアーティストのバックアップで作品をリリースしていますので、最後に2曲ご紹介します。
トム・ペティのプロデュースでフィル・フリップスの「シー・オブ・ラブ (Sea of Love )」をカバー。(1981年全米33位)
ジェフ・リンとマイク・キャンベル(ハートブレイカーズ)がプロデュースした「ウォーク・アウェイ (Walk Away)」(1991年 全米99位)