おはようございます。今日はジョニー・マティスの「アイム・カミング・ホーム」です。
Sittin' in a railway station
with my suitcase in my hand
Goin' back where I came from,
I've had more than I can stand
Of watchin' men destroy my dreams,
they picked my brain till it was clean
When I was up they knocked me down
I ain't goin' to hang around, I'm goin' home
I'm goin' home, goin' home
Tell someone to meet me I'm comin' home
Came to this old town
seeking fortune and some fame
Never got the chance to prove myself,
though I tried to play their game
But usin' people just ain't my thing
And I don't dangle from any string
To please some fool that don't care about
They turned me inside out, I'm goin' home
I'm goin' home, goin' home
Tell someone to meet me I'm comin' home
Tell someone to meet me I'm comin' home
I'm goin' home, goin' home
Tell someone to meet me I'm comin' home
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駅の構内に座っている
スーツケースをこの手に持って
僕が生まれた場所に戻るよ
もうこれ以上見ていられないんだ
ヤツらが僕の夢を壊すのも
僕の頭を空っぽにしてしまうのも
僕が立ち上がっても叩きのめしたから
もうここにいることはない、
僕は家に帰るんだ
家に帰ろう 家に帰ろう
誰かに伝えてくれ、迎えにきてって
僕は帰るんだ
この古い町にやってきた
富と名声を求めて
自分を証明するチャンスなんて全然なかった
彼らのゲームに加わろうとしたんだけどね
だけど人を利用するなんてできない
誰かに操られはしない
どっかのバカの機嫌を取るために
ヤツらは僕をダメにしたから
僕は家に帰るんだ
家に帰ろう 家に帰ろう
誰かに伝えてくれ、迎えにきてって
僕は帰るんだ (拙訳)
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実はこの歌知りませんでした。。。だいたいジョニー・マティスは今までまともに聴いたことがなかったんですよね。
で、先日NHKで放送された「寺尾 聰 人生の集大成ライブ!」って番組で、彼がこの曲を歌っていたんです。僕の好きなB.J.トーマスやグレン・キャンベルが歌いそうないい曲だな、ジョニー・マティスにこんな曲があったんだと思って調べたら、トム・ベルの作曲、プロデュースと知ってびっくりして、今回取り上げたというわけです。
作詞はリンダ・クリード。彼女とトム・ベルはスタイリスティックスの「誓い(You Make Me Feel Brand-New)」「 ユー・アー・エヴリシング」とか、フィラデルフィア・ソウルの名曲の数々を生み出したコンビですね。
この「アイム・カミング・ホーム」を表題曲としたアルバムもリリースされていて、これがまたトム・ベル全曲プロデュースで、味わい深いいい作品でした。
スタイリスティックスのような、流麗でドラマティックなスタイルの曲も少しありますが、全体的には押さえ気味で、バカラック×B.J.トーマス、ジミー・ウェッブ×グレン・キャンベル、のコンビネーションに近い味わいを僕は感じました。
さて、ジョニー・マティス。彼は間違いなくアメリカと日本の人気のギャップが最も大きいアーティストの一人です。20世紀のアーティストの中でなんと三番目めに多くのレコードを売った人としてギネスに記録されているほどの超スーパースターなのに、僕の記憶では日本のメディアで彼が大きく紹介されるのを見たことがないです。
ジャズをベースにした彼のデビューは1956年。ナット・キング・コールを最大のアイドルとする彼はコールのように、白人リスナーに向けて歌う黒人シンガーとしてキャリアを進めていくことになります。シングル「Wonderful! Wonderful!」がいきなり全米14位のヒットになります。プロデュースは楽団を率いる人気指揮者でもあったミッチ・ミラー。
翌 1957年には「Chances Are」が全米1位の大ヒットになります。
人気者になった彼にレコード会社は新曲を録音するように要求しますが、忙しくてレコーディングできず、苦肉の策としてプロデューサーのミッチ・ミラーのアイディアでそれまでレコーディングした6枚のシングルのA,B面を入れたアルバムにまとめ「JOHNNY'S GREATEST HITS」と名付けてリリースしたところ大ヒットになります。このアルバムがその後、たくさんのアーティストがリリースする”「グレイテスト・ヒッツ」の起源”と言われています。言い換えれば、世界初の「グレイテスト・ヒッツ」は収録曲の半分がシングルのB面という、グレイテストじゃない内容だったんですね。。。しかしこのアルバムはビルボードのアルバム・チャートになんと490週もランクインするという記録を打ち立てました(それを破ったのがピンク・フロイドの「狂気」でした)
1959年には彼の代表曲となる「Misty」が全米12位のヒットを記録します。「Misty」はジャズ・ピアニストのエロール・ガーナーが1954年に作曲しヒットしたものにジョニー・バークが新たに歌詞をつけたものでした。
その後彼はジャズやポップスの有名曲を洗練されたアレンジでカバーする、言わばボーカル版イージー・リスニング的なスタイルで安定した支持はありましたが、セールスはじわじわと下降していきました。60年代には彼のようなスタイルは古くなっていましたし、同じレコード会社には同じようなスタイルのアンディ・ウィリアムズもいましたからその影響もあったのかもしれません。
低迷期にあった彼にアプローチしたのがトム・ベルでした。
マティスがその少し前にトムがスタイリスティックスに書いた「Betcha by Golly, Wow」や「Break Up to Make Up」をカバーしていたので、興味を持っていたのかもしれません。
「幸運にも、トム・ベルは彼と仕事をすることを熱望しており、コロムビア・レコードの社長クライヴ・デイヴィスにこのアイデアを持ちかけました。しかし、デイヴィスは当初ベルの提案を拒否しました。というのも、マティスは黒人でありながら「黒人音楽」を歌っておらず、ポップ・バラードの歌手だったからです。「彼は多くの人が犯す過ちを犯したんだ」とベルは2015年にPopMattersに語っています。「肌の色と私が作る音楽の種類を混同するなと言いたい。少し時間がかかったけれど、最後にはマティスをと一緒にやることになったよ。」
そして、トム・ベルは、ジョニー・マティスが低迷していた理由を見つけました。
「彼はカタログ・アーティストだったので、コロムビアは彼のために特別なことを何もしていませんでした。ただの標準的な手順をやっただけだったんだ」
カタログ・アーティストとは、新譜より旧譜の売り上げがメインになっているアーティストのことですね。マティスの場合、当時は「JOHNNY'S GREATEST HITS」の方が新譜より売れていたのかもしれません。
「問題はどこにあるのか?私はそれがプロダクションの問題だと気付きました。作品が可能な限り強力なものではなかったんです。アレンジ、スタジオ、ミキシング、マスタリングが不足していました。私がしなければならなかったのは、彼の作品を確実に良いものにすることでした。曲は良いものでなければならないし、自分の力の限りで、サウンドも良いものにしなければならなかったんです。」
当時ノリに乗っていたプロデューサー、トム・ベルが本気になったんですね。
「ベルの計画の一部は、マティスを他のどのプロデューサーとも異なる方法で録音することでした。「彼をレコーディングした誰もが、高い声を録音していた」とベルは語ります。「私は彼を高いところから低いところに引き戻しました。少し低めの音域で歌わせることで、歌に成熟して豊かな響きが得られるんです。彼は本当に安心していました。彼は『君が僕を落ち着かせてくれるなんて信じられない』と言っていました。」
また、当時自分のためだけに書かれた曲を歌うことがなかった彼に、曲を書き下ろすために、トム・ベルとリンダ・クリードが彼の個人的な本当の感情を引き出すために対話したそうですが、今までそういう機会のなかった彼は何を言ったのか覚えていないそうです。
「彼らは何かを求めていたから、僕は適当に答えた。それがアルバムのアイデアにつながったんだよ。彼らは僕と話し僕のいろんな考えを引き出してくれた。それが素晴らしいと感じたよ。そんなことをした人はこれまでいなかったんだ。」
以上、参考:Songfacts
「アイム・カミング・ホーム」は彼のアーティスト人生の中で、あらゆる点で全く異色のものだったんですね。
ちなみに、1974年にトムはスピナーズにこの曲をカバーさせています。ジョニー・マティスとは全然違ったソウルフルな仕上がりで、全く違う曲のようです。そして、より黒人らしい仕上がりなのに全米ポップ・チャート18位とマティス以上のヒットになっています。当時、フィラデルフィア・ソウルがそれだけ盛り上がっていたということなんでしょうね。
1978年、デニース・ウィリアムスとのデュエットで、「Chances Are」以来2曲目の全米1位になる「Too Much, Too Little, Too Late」をリリースしていますので、それを最後に。