まいにちポップス(My Niche Pops)

令和初日から毎日、1000日連続で1000曲(せんきょく)を選曲(せんきょく)しました。。。古今東西のポップ・ソングのエピソード、洋楽和訳、マニアックなネタ、勝手な推理、などで紹介しています。キャッチーでメロディアスなポップスは今の時代では”ニッチ”なものになってしまったのかなあとも思いますが、このブログを読んでくださる方の音楽鑑賞生活に少しでもお役に立てればと願っています。みなさんからの追加情報や曲にまつわる思い出などコメントも絶賛募集中です!text by 堀克巳(VOZ Records)

「ダイアナ(Diana)」ポール・アンカ(1957)

 おはようございます。

 今日はポール・アンカの「ダイアナ」です。

www.youtube.com

***********************************************************************

I'm so young and you're so old
This, my darling, I've been told
I don't care just what they say
'Cause forever I will pray
You and I will be as free
As the birds up in the trees


Oh, please stay by me, Diana


Thrills I get when you hold me close
Oh, my darling, you're the most
I love you but do you love me?
Oh, Diana, can't you see?
I love you with all my heart
And I hope we will never part


Oh, please stay with me, Diana


Oh, my darlin', oh, my lover
Tell me that there is no other
I love you with my heart
Oh-oh, oh-oh, oh-oh-oh-oh-oh-oh-oh

 

Only you can-a take my heart
Only you can-a tear it apart
When you hold me in your loving arms
I can feel you givin' all your charms
Hold me, darling, hold me tight
Squeeze me baby with all your might


Oh, please stay with me, Diana


Oh, please, Diana
Oh, please, Diana
Oh, please, Diana

***********************************************************************

僕は若すぎて、君は年上すぎる
ねえ、僕はこう言われてるんだ
何と言われたって気にしない
だって、永遠に僕は祈るから
君と僕はずっと自由だって
木の上に止まった鳥のように


ああ、どうか僕のそばにいて ダイアナ


君が僕を強く抱きしめると、ドキドキするのさ
ああ、マイ・ダーリン、君は最高
僕は君を愛しているけど 君は愛してる?
ああ ダイアナ わからないの?
心から僕は君を愛してる
二度と離れないように願っている


ああ、どうか僕のそばにいて ダイアナ

おお、マイダーリン、僕の恋人
他に好きな人はないと言ってくれ
心から愛している
Oh-oh, oh-oh, oh-oh-oh-oh-oh-oh-oh


君だけが僕のハートを奪い
君だけが引き裂くことができる
君の愛しい腕に抱かれると
君が魅力を全部僕に与えてると感じるんだ
抱きしめて、ダーリン、強く抱きしめて
力いっぱいギュッと抱きしめて


ああ、どうか僕のそばにいて ダイアナ


お願いさ  ダイアナ
お願いさ  ダイアナ
お願いさ  ダイアナ

        (拙訳)

***********************************************************************

 昨日このブログに登場したバディ・ホリーの「ザットル・ビー・ザ・デイ」の前の週に全米1位になっていたのがこの「ダイアナ」です。

 歌っているポール・アンカは作詞作曲も手がけていますが、当時まだ16歳だったといいますから驚きです。

 彼は才能だけじゃなく、音楽で成功する情熱も人一倍あったようです。

 

 

 カナダのオタワで生まれた彼は子供の頃から聖歌隊として歌い、一時はピアノを学び、13歳の時には、自分のボーカルグループ「ボビーソクサーズ」を結成し、参加できる限りのアマチュア・ナイトに出演していました。

 

 あるとき、キャンベル・スープのラベルをたくさん集めるとニューヨーク旅行に行けるというコンテストを知った彼は、食料品店に勤めると、キャンベルスープを買ったお客さんをつぶさにチェックし、ラベルをもらい集めコンテストに優勝し、ニューヨークに行ったそうです。そして、レコード会社や音楽関係の事務所、コンサートホールなどを訪ね歩き、自分も作曲家として成功してみせると決意したといいます。

 

 1956年、彼は両親を説得してロサンゼルスに行き、電話帳に載っているレコード会社に片っ端から電話をかけ、オーディションを受けました。そして、モダン・レコードというレーベルから最初のシングル "ブラウ・ワイル・デヴレスト・フォンテーヌ "という曲をリリースしますがヒットしませんでした。しかし、彼はファッツ・ドミノの楽屋に忍び込みファッツと彼のマネージャーに会うほど、売り込みを行なっています。1957年にニューヨークに戻ったアンカは、ABCパラマウント・レコードのA&R担当のドン・コスタに会うことができ、曲を披露すると(「ダイアナ」もそこに入っていました)その才能を認められました。

 

 ドン・コスタはアレンジャー、指揮者でイーディー・ゴーメとスティーヴ・ローレンス、のちにはフランク・シナトラとも仕事をし、自身の名義でインストのアルバムもリリースしています。

 

 彼にとってこの人との出会い、というのが大きかったですね。彼の曲自体もキャッチーで優れていますが、コスタのアレンジがまたそれをよく際立たせていると思います。

 

 さて、この「ダイアナ」には実在するモデルがいます。ダイアナ・アユーヴという女性で、彼が15歳の時、彼女は19歳。彼の弟か妹のベビーシッターをやったことはあったようですがそれほど親密な仲ではなく、教会や地域のイベントで彼女を見かけて、彼が一方的に恋に落ちます。

   しかし、二人の仲は進展することはなく、あくまでも彼の空想の中の恋人で終わったそうです。

 

 しかし、曲は大ヒットし、全米、全英ともに1位。特にイギリスでは9週間連続でトップを独走しました。

 日本でも大ヒット。

 ちなみに、大瀧詠一は日本人にとってのロックの父がポール・アンカだと語っています。

エルヴィス・プレスリーですらなくて、ポール・アンカなんだよ。C→Am→F→Gなのよ、どこまで行っても。父であり母であり、神様。C→F→Gじゃなくて、Am入れるところに日本の特殊性があるんですよ。かといってニール・セダカみたいにメジャー・セヴンスやシックスを使うまでのところはない」

(「大滝詠一Taiks About NIagara」)

 なるほど、C→Am→F→Gのコード進行はまさに「ダイアナ」。僕が初めてアコースティック・ギターを弾き始めた時に、教則本で最初に覚える循環コードもそうでしたし、このコードで弾ける曲はすごく多いな、って思った記憶があります。そのルーツは「ダイアナ」だったわけですね。

 

 さて、それ以降の彼のヒット曲もいくつかピックアップしてみます。

 

「君はわが運命 (You Are My Destiny)」1958年全米7位

www.youtube.com

「あなたの肩に頬うめて(Put Your Head on My Shoulder)」1959年全米2位

www.youtube.com

 サブスクではこの曲が大人気なんですよね。調べてみたらドージャ・キャットが「STREETS」と「FREAK」という曲でサンプリングしていました。

www.youtube.com

  また、アンカはソングライターとしても活躍し、一緒のツアーで仲良くなったバディ・ホリーにも曲を書いています。その曲「It Doesn't Matter Anymore」はホリーにとって最後の録音となった一つで、飛行機事故で亡くなるわずかひと月前にリリースされています。バック・バンドのクリケッツと袂を分かっていたホリーに、アンカはストリングスを加えた新しいスタイルを提案したそうです。

 

「It Doesn't Matter Anymore」1959年全米13位

www.youtube.com

 

 1963年ごろからヒットが出なくなりましたが、1969年にフランスの曲「Comme d'habitude」に英語詞をつけてフランク・シナトラに提供した「マイ・ウェイ」が大ヒットしています。

www.youtube.com

 そして1974年に「二人のきずな((You're)Having My Baby)」が彼にとって15年ぶりの全米NO.1ヒットになっています。

www.youtube.com

 さて、ポール・アンカは現在80歳ですが、昨年(2021)は新作「Making Memories」(「マイ・ウェイ」、「あなたの肩に頬うめて」などを新録)、暮れにはクリスマス・アルバム「Songs of December」と二枚のアルバムをリリースするなど、今もかなりエネルギッシュに活動しています。

 

 彼の後半のキャリアで最も大きかった話題といえば、マイケル・ジャクソンと1983年に作っていた曲が世に出たことでしょう。同名映画のタイトル・ソングでもあった「This Is It」(2009)、2014年にシングル・リリースされた「ラヴ・ネヴァー・フェルト・ソー・グッド」はともにクオリティが高く、アンカのポップ・ソングライターとしての才能を思い知らせれたようでした。

 

 「This Is It」はマイケルとのデュエットで、アンカのアルバム「マイ・ソングス〜朝のとばりの中で(Walk A Fine Line)」に収録され予定で、マイケルが多忙なためフィニッシュできなかったものだったようです。

 

 最後は、その「マイ・ソングス〜朝のとばりの中で(Walk A Fine Line)」から1曲。アルバムは思いっきりAOR路線に走った内容でしたが、そこからのシングル「朝のとばりの中で」(全米40位)を。デヴィッド・フォスターのプロデュースでピーターセテラのコーラスも入ってるせいか、シカゴの「素直になれなくて」の兄弟分みたいな雰囲気ですが、僕は「素直になれなくて」よりこっちが好きなんです、、、。

 ちなみに、1983年に彼の恩人であるドン・コスタが亡くなったため、このアルバムはコスタに捧げられています。

 

www.youtube.com

 

ポール・アンカマイケル・ジャクソンが共作し大傑作。

popups.hatenablog.com

 

f:id:KatsumiHori:20220101161742j:plain

 

「ザットル・ビー・ザ・デイ(That'll Be The Day )」バディ・ホリー(1957)

 おはようございます。

 今日はバディ・ホリーの「ザットル・ビー・ザ・デイ(That'll Be The Day )」です。

www.youtube.com

*****************************************************************

Well, that'll be the day, when you say goodbye
Yes, that'll be the day, when you make me cry
You say you're going to leave, you know it's a lie
Because that'll be the day when I die


Well, you give me all your lovin' and your turtle dovin'
All your hugs and kisses and your money too
Well, you know you love me baby
Until you tell me, maybe
That someday, well I'll be through


Well, that'll be the day, when you say goodbye
Yes, that'll be the day, when you make me cry
You say you're going to leave, you know it's a lie
Because that'll be the day when I die
Well, that'll be the day, when you say goodbye
Yes, that'll be the day, when you make me cry
You say you're going to leave, you know it's a lie
Because that'll be the day when I die

 

Well, when Cupid shot his dart
He shot it at your heart
So if we ever part and I leave you
You sit and hold me and you tell me boldly
That someday, well I'll be blue

 

Well, that'll be the day, when you say goodbye
Yes, that'll be the day, when you make me cry
You say you're going to leave, you know it's a lie
Because that'll be the day when I die


Well, that'll be the day, hoo-hoo
That'll be the day, hoo-hoo
That'll be the day, hoo-hoo
That'll be the day

*****************************************************************

そんなことありえないさ 君がサヨナラを言うなんて
そう、そうなったらおしまいさ 僕を泣かせるなんて
君は出てゆくって言うけど それは嘘だろ
だって、そうなるのは僕が死んでしまう日だから


君は僕にすべての愛と
ハグとキス、そしてお金も
君は僕を愛しているよね、ベイビー
それでも君は僕にこう言うのさ
たぶん、いつか僕はご用済みになるって


そんなことありえないさ 君がサヨナラを言うなんて
そう、そうなったらおしまいさ 僕を泣かせるなんて
君は出てゆくって言うけど それは嘘だろ
だって、そうなるのは僕が死んでしまう日だから
そんなことありえないさ 君がサヨナラを言うなんて
そう、そうなったらおしまいさ 僕を泣かせるなんて
君は出てゆくって言うけど それは嘘だろ
だって、そうなるのは僕が死んでしまう日だから


キューピッドが矢を放つ時
彼は君のハートめがけて撃つんだ
だから、もし二人が引き裂かれ、僕が君の元を離れても
君は座って僕を抱きしめ、はっきり言うのさ
いつか、僕はさみしくなるでしょうって

 

そんなことありえないさ 君がサヨナラを言うなんて
そう、そうなったらおしまいさ 僕を泣かせるなんて
君は出てゆくって言うけど それは嘘だろ
だって、そうなるのは僕が死んでしまう日だから

そんなことありえないさ
そんなことありえないさ
そんなことありえないさ,,,

           (拙訳)

*****************************************************************

 ”That'll Be The Day"は「もしそれが現実になったら、それは特別な日になる」というような意味で、実際に起こりそうにないと思っているときに使うフレーズです。

「まさか」「そんなことあり得ない」「そうなったらおしまいだ」みたいなニュアンスのようですね。

 

 このフレーズは、ジョンフォード監督の名作西部劇「捜索者」の中でジョン・ウェイン演じる主人公イーサン・エドワーズが何度か使う決め台詞でした。

 

  せっかくなのでそのシーンを見てもらいましょう。

www.youtube.com

 一番最後に相手が「I Hope You Die」と言うと、ジョン・ウェインは「That'll Be The Day(そんなことありえない)」と答えるという、彼らしい”マッチョ”な使い方をしたていたわけです。

 

 「伝説によると、バディ・ホリーと彼の友人でバンド仲間のジェリー・アリソンは、映画「捜索者」を見て、ジョン・ウェインが映画の中でこのフレーズを使うのを聞いたという。ある夜、ホリーとジェリーが一緒に仕事をしていると、ホリーが「ヒット曲が書けたら、きっと素晴らしいだろうね」と言った。ジェリーは "That'll Be The Day”(その日が楽しみだ )と答えた。すぐにインスパイアされて、二人は同名のロックンロール・ソングを書き上げた」

(western classic movies.com)

 

 ジョン・ウェインは男らしく、ジェリー・アリソンはポジティヴにこの言葉を使っていたわけですが、この曲の中では、そんなこと起こるわけない、あってほしくない、という若干弱気な気持ちで使っているところが面白いですね。

 

 バディ・ホリーはロックンロールの偉大なパイオニアの一人です。エルヴィス・プレスリーの1歳下で、まだ人気がではじめたばかりの彼の前座をやったことがきかっけでロックンロールにのめりこんでいったと言われています。

 しかし、エルヴィスとはまた全然違うロックンロールのスタイルを短いキャリアの中で築き上げています。

 

 この曲は彼の最初の大ヒットで、最初に1956年にバディ・ホリーと彼のバンド、ザ・スリー・チューンズ名義でレコーディングされていますが、レーベル(デッカ)は気に入らず発売を見送っています。

www.youtube.com

 ヒットしたヴァージョンに比べて歌のキーが高いですね。

 

 そして翌年バディ・ホリーは新しいプロデューサー、ノーマン・ペティが所有するニューメキシコ州クロヴィスのスタジオでこの曲を再録していますが、前のレーベルとの契約上の問題で自分の名前は使えず、バンド名の”クリケッツ”名義でリリースされています。

 すると、この曲は全米NO.1になる大ヒットとなります。

(このヒットのあと、デッカは最初のヴァージョンをリリースしますが、チャートインしませんでした)

 

 この曲に影響を大きな影響を受けたのがビートルズ。特にジョン・レノンが初めてギターで弾き語りを覚えた曲だという話もあり、ビートルズの前身バンド”クオリーメン”がこの曲を録音しています。

www.youtube.com

 

 「ザットル・ビー・ザ・デイ」が大ヒットした同じ年に彼は「ペギー・スー」というもう一つの代表曲をリリースしています(全米2位)

 

 エドサリヴァン・ショーでのパフォーマンス。

www.youtube.com

 

 人気絶頂だった彼ですが、「ザットル・ビー・ザ・デイ」の2度目の録音からまだ2年しか経っていない、1959年2月に飛行機事故で亡くなってしまいます。まだ22歳だったそうです。

「ウィンター・ダンス・パーティ」と題された、3週間かけてアメリカ中西部24の都市をまわるという過酷なツアーに出ていて、長時間のバス移動で疲労困憊した彼は小型飛行機をチャーターしたのですが、その飛行機が悪天候と操縦士の経験不足が原因で墜落したのです。

 彼の他に同乗していた二人のアーティスト、リッチー・ヴァレンス、J.P."ビッグ・ボッパー" リチャードソンも亡くなっています。

 のちにドン・マクリーンは代表曲「アメリカン・パイ」でこの日のことを「音楽が死んだ日」と表現しています。

 

アメリカン・パイ」にはこういう歌詞があります。

good old boys were drinkin' whiskey 'n rye
Singin', "This'll be the day that I die"
"This'll be the day that I die"

 

"This'll be the day that I die"というのは、「ザットル・ビー・ザ・デイ」の中の"that'll be the day when I die"をもじったものです。起こるはずのないものが起こってしまった、という気持ちが込められているわけですね。

 

 最後に彼の作品からもう1曲。ビートルズのカバーでも有名な「Words of Love」です。

www.youtube.com

 

 

popups.hatenablog.com

 バディ・ホリーの「Everyday」をモチーフにした曲。

popups.hatenablog.com

 

 

f:id:KatsumiHori:20220101150846j:plain

 

「 YELLOW MAGIC CARNIVAL」MANNA(マナ)(1979)

 あけましておめでとうございます。

 新年第一回目はマナの「 YELLOW MAGIC CARNIVAL」です。

www.youtube.com

 

 この曲は細野晴臣の作詞作曲したもので、彼がいたバンド<ティン・パン・アレイ>のアルバム「キャラメル・ママ」に収録されていました。

www.youtube.com

 

 眼(マナコ)が大きいから、という理由でつけられたあだ名がそのまま芸名になったMANNA(マナ)は、”知る人ぞ知る”というシンガーではありますが、日本のポップス史の重要人物を惹きつける存在でした。

 

 まず、彼女が出会ったのが佐野元春です。

 1973年の12月、彼女は立教高校のクリスマス・パーティーで佐野に出会い、彼のバンド「バックレイン元春セクション」のメンバーになります。

 

「多分ね、兄が佐野くんに私を紹介したんだと思うわ。『妹も音楽をやってるんだ』とか言って。そのとき私は立教女学院の中三で、コンテストに応募したりしてたの。それで、佐野くんとパーティの席で話が弾んじゃって、彼が『いまバンドやってるんだけど、キーボードがいないんだ。君やらない?』って言うのよ。それで、私はコードを押さえる程度にしか弾けないって言ったら、『それで十分さ!』とか言われちゃって、そのバンドにキーボード奏者として参加することになるの」

                 (「路上のイノセンス」下村誠)

 

 翌年10月、ヤマハポプコンの本選で敗れたことでバンドは解散してしまいました。

 

 その後彼女は”ドロッピング・パイ”(のちに佐野元春&ザ・ハートランドのメンバーになる里村美和、小野田清文も参加)というバンドで、ヤマハ主催のコンテスト”East West"に出場します。

 賞は取れなかっかたのですが、彼女のボーカルに興味を持ったのが"East West "の審査員だった、ティン・パン・アレイの林立夫でした。

 そして、そこから細野晴臣とつながります。

 

   

 1977年に細野は「イエロー・マジック・カーニバル」をドラマーの林と新たにレコーディングする構想があり、そのシンガーとしてマナをイメージしていたといいます。

 

 林はこう語っています。

「彼女はぼくが審査員をしたヤマハのアマチュア・バンド・コンテスト、イーストウエストに出場していて、声が太くてキンキンしてない、ぼくらの好きそうな一九五〇年代風の声の持ち主だった。細野さんもそこからイメージが湧いたんじゃないかと思いますよ」

                (「細野晴臣と彼らの時代」)

 

 彼女の声から「イエロー・マジック・カーニバル」の再録という考えが浮かんだんじゃないかということですね。

 細野は林とマナと三人で新たなバンドを組み、細野が移籍することになっていた,新しくできるレコード会社、アルファ・レコードに一緒に連れてゆく計画でしたが(マナ本人はその計画を知らなかったそうです)、独自の道を歩みたいと考えていた林から断られ、このプロジェクトは立ち消えになってしまいました。

 (細野は林と佐藤博と「ファイアークラッカー」を演奏するという構想もあったそうですが、こちらも林の不参加でなくなってしまっていました)

 

 アルファレコードの発足記念レセプションで新たなプロジェクトを発表する予定だった細野は、「イエロー・マジック・カーニバル」が頓挫したことで、発表できることは何もありませんでしたが、その時に突然浮かんだのが”イエロー・マジック・オーケストラ”というバンド名だったそうです。

 

「なにか発表しなきゃという状況でひねり出したんですね、名前だけ。それでイエロー・マジック・オーケストラを一年後にやると言ったんです。頭の中にあったメンバーは全員NGだったから、誰とやるかは決まってなかった。なにをやるかも決まってない。でもうっすらっと、それまでやってきたエキゾティック・サウンドとディスコ・ミュージックを掛けあわせれば、変なものができるんじゃないかと。そんな想いはありましたけどね」

               (「細野晴臣と彼らの時代」) 

 

  「イエロー・マジック・カーニバル」のプロジェクトなくしてYMOのアイディアはなく、MANNA(マナ)なくして「イエロー・マジック・カーニバル」のプロジェクトはなかったわけですから、マナはYMOの誕生に、期せずして大きな役割を果たしたことになりますね。

 

 その後、ティン・パン・アレイのコーラスや彼らが演奏したCM歌っていたそうですが、1979年にEPICレコードからデビューが決まります。

 

 それまで、彼女は浜口庫之助のもとで1年間レッスンしていたそうです。

 そんなわけで彼女のデビュー・アルバム「CHABAKO TRICK」には浜口の曲が3曲収録されています。

 アルバムのプロデューサーは林立夫で、アレンジは今井裕、レコーディングはロスアンジェルスA&Mスタジオで行われました。

 

 そのアルバムからに収録されシングルになったのがこの「YELLO MAGIC CARNIVAL」でした。

 林は細野作品でこの曲が一番好きだったそうですから、自分が原因で一度頓挫したプロジェクトをしっかりカタチにしようという思いはあったのかもしれません。

 

 ちなみに、冒頭で紹介したのがシングル・ヴァージョンで、シングルにする際に新たに作り直したようです。アルバム・ヴァージョンは今井裕が編曲を手がけましたが、シングルのアレンジは鈴木茂で、フィリー・ソウル風のストリングスから当時大流行していた「ホワット・ア・フール・ビリーヴス」パターンのリフに入るという、ぐっとAOR、シティポップ寄りのアレンジになっています。

 

 ちなみにこちらがアルバム・ヴァージョン。

www.youtube.com

 

 彼女はEPIC時代に二枚のアルバムとシングル四枚を残していますが、彼女に一番曲を書いていたのが筒美京平でした。彼も、彼女の声質に大変に興味を持っていたそうです。それにしても短い期間に、浜口庫之助筒美京平細野晴臣佐野元春という突出した才能とコラボしたわけですから、彼女も何か”持っていた”んでしょうね。

 

 筒美京平作品の中から1曲。作詞がユーミン呉田軽穂)の「さよならのポラロイド」というのもありますが、筒美ワールド全開で、シングルにもなった「TOKIO通信」を。

www.youtube.com

 

 その後、彼女はブレッド&バター岩沢幸矢と結婚しますが、歌手活動もしばらく続けて「ドラゴンボール」のエンディング・テーマや「ひらけ!ポンキッキ」のオープニング・テーマなども歌っていたようです。

 

 最後は「夜のヒットスタジオ」出演時の映像を。

www.youtube.com

 

f:id:KatsumiHori:20211230144045j:plain

 

 

 

「星に願いを(When You Wish upon a Star)」クリフ・エドワーズ(1940)

 おはようございます。

 今日はディスニーの大スタンダード「星に願いを」です。

www.youtube.com

************************************************************

When you wish upon a star,
Makes no difference who you are,
Anything your heart desires,
Will come to you.


If your heart is in your dream,
No request is too extreme,
When you wish upon a star,
As dreamers do.

 

Fate is kind,
She brings to those who love,
The sweet fulfillment of,
Their secret longing,

 

Like a bolt out of the blue
Fate steps in and sees you through
When you wish upon a star
Your dreams come true

************************************************************

星に願いをかけるとき
あなたが誰かなんて違いはない
心から望めば何でも
やってくるはず あなたのもとへ


あなたの心がもし夢の中にあるのなら
行き過ぎた願いなんてない
あなたが星に願いをかけるとき
夢見る人がそうするように


運命は親切さ
彼女は愛する者たちの
心に秘めた強い想いを
優しく満たしてくれる


青天の霹靂のように
運命は、あなたの心を見通す
星に願いをかけるとき
夢は叶う

           (拙訳)

 

<広告>

「星に願いを」楽譜はこちら

************************************************************

 

 この曲は1940年のディズニー映画「ピノキオ」の中で、作品のストーリーテラーでもありピノキオの良心役を任されるコオロギ”ジミニー・クリケット”によって歌われています。

 ジミニー・クリケットを演じたのが俳優でミュージシャンのクリフ・エドワーズ。”ウクレレ・アイク”というニック・ネームのウクレレ奏者として人気でした。

www.youtube.com

 

 冒頭でご紹介したのは映画のヴァージョンですが、エドワーズはレコード用として別途録音しています。

www.youtube.com

 こちらは歌詞を二回繰り返していますが、その間にこういうパートが挿入されています。

 

” When a star is born
  They possess a gift or two
  One of them is this 
  They have the power to make a wish come true”

 

(星が生まれる時 特別に与えられた力を一つか二つ与えられているんだ

そのうちのひとつがこれ 星は夢を叶える力を持っているのさ)

 

    そして、「Fate steps in and sees you through」という歌詞を

「Suddenly, it comes to you」に変えています。子供向けにわざとよりシンプルな言い回しにしたのでしょうか。しかし、いろいろカバーを聴いてみましたが、その後この曲がカバーされるときは、ほぼディズニー盤の「Fate steps in and sees you through」で歌っているようです。

 

  この曲を作詞したのがネッド・ワシントン、作曲がリー・ハーライン。ともに、映画音楽で活躍した人たちです。

 

 リー・ハーラインという作曲家について少しプロフィールを紹介します。

 

  スウェーデンからの移民の子としてユタ州に生まれたハーラインは、6歳からピアノを始め作曲家になるために勉強を続け、チャンスをつかむために大学を辞めてロサンゼルスに向かいました。

 そしてカリフォルニアのラジオ局で主にオルガン奏者としてキャリアを始め、作曲家としても徐々に有名になっていきました。

 彼がカリフォルニアにやってきたのが1928年頃と言われていますが、その同じ年の11月にウォルト・ディズニーミッキー・マウスを映画デビューさせています。

 

 ハーラインの評判を聞きつけたウォルト・ディズニーは1932年に彼を自社の音楽部門に雇い入れました。

 彼は映画「白雪姫」の「いつか王子様が(Someday My Prince Will Come)」や「ハイ・ホー」で知られる作曲家フランク・チャーチルと両輪となってディズニー映画の音楽を支える存在になりました。

 

 優れたピアニストだったチャーチルは、ピアノで演奏できて"簡単に口笛やハミングができる "ような曲を作り、ハーラインはピアニストとしては優れた才能はなかった分"幅広い音楽教育 "を受けていたため、"両手とピアノだけ "では伝えきれないメロディーや構造を持つ、より複雑な音楽を作曲することができた、と言われています。

 

 僕が思うに、チャーチルは”歌モノ”が得意、ハーラインは”劇伴”も得意、という感じだったのかなと思います。

 

 ちなみに「白雪姫」ではチャーチルがメインの楽曲を書いていますが、一人で完成させることができなかったため、ハーラインともう一人ポール・J・スミスという作曲家が加わって作り上げています。

 

 この「白雪姫」での見事なサポートが認められたのでしょうか。その次回作「ピノキオ」の音楽ではハーラインが起用され、スミスの協力も多少あったようですが、ほぼ一人でやりきっています。

 

 考えてみると、「星に願いを」は覚えやすいメロディーが得意なチャーチルの方が作りそうな感じもしますが、どのようにしてハーラインが書いたのか興味はありますが、残念ながら、そういう記事を見つけることはできませんでした、、。

 

  さて、「ピノキオ」は映画としては「白雪姫」ほどのヒットにはなりませんでしたが、「星に願いを」の評価は高く、アカデミー賞の最優秀歌曲賞を受賞しました。これはディズニーとしては初めての受賞だったそうです。そして、ご存知の通り、今ではディズニー映画のオープニングで使われる、ディズニーをまさに象徴する曲となっています。

 

  参考:Utah Historical Quarterly, Volume 85, Number 2, 2017 by Utah State History

 

 最後に500以上あるこの曲のカバーからいくつかご紹介します。

 

 1960年のディオン&ザ・ベルモンツ。ブライアン・ウィルソンのフェイヴァリットで、この曲から「サーファー・ガール」を思いついた、なんて話もあります。

 クリフ・エドワーズが間奏においていたパートを、こちらは冒頭に持ってきていますね。

www.youtube.com

  1991年のビリー・ジョエル。様々なアーティストがディズニー・ソングをカバーしたアルバム「Simply Mad About the Mouse」。ビリーも、同じニューヨーカーの先輩ディオンのヴァージョンが好きだったのでしょうか、冒頭を同じパターンで始めています。

www.youtube.com

  

”When a star is born   They possess a gift or two〜”から始まるカバーは、僕の知っているところでは他にジョニー・マティスやニール・ダイアモンドなんかもそうでした。

 

 最後は2011年リリースのアルバム「In The Key of Disny」ブライアン・ウィルソンのカバーで。

 

 今年も本当に長くてマニアックなブログにお付き合いいただき、ほんとうにありがとうございました!!

 みなさま、ぜひ大好きな音楽とともに良いお年をお迎えください。

www.youtube.com

 

 

 

 

 

f:id:KatsumiHori:20211229183139j:plain

 

 

「セレブレーション(Celebration)」クール&ザ・ギャング(1980)

 おはようございます。

 今日はクール&ザ・ギャングの「セレブレーション」です。

www.youtube.com

*************************************************************************

Yahoo! (This is your celebration)
Yahoo! (This is your celebration)
Celebrate good times, come on (Let's celebrate)
Celebrate good times, come on (Let's celebrate)


There's a party goin' on right here
A celebration to last throughout the years
So bring your good times and your laughter too
We gonna celebrate your party with you
Come on now


(Celebration) Let's all celebrate and have a good time
(Celebration) We gon' celebrate and have a good time


It's time to come together
It's up to you, what's your pleasure?
(Everyone around the world come on)


Yahoo! It's a celebration
Yahoo!

 

Celebrate good times, come on (It's a celebration)
Celebrate good times, come on (Let's celebrate)


There's a party goin' on right here
A dedication to last throughout the years
So bring your good times and your laughter too
We gonna celebrate and party with you
Come on now


(Celebration) Let's all celebrate and have a good time, yeah-yeah
(Celebration) We gon' celebrate and have a good time


It's time to come together
It's up to you, what's your pleasure?
(Everyone around the world come on)


Yahoo! It's a celebration
Yahoo! It's a celebration


Celebrate good times, come on (Let's celebrate, come on now)
Celebrate good times, come on (Let's celebrate)

 

We're gonna have a good time tonight
Let's celebrate, it's all right
We're gonna have a good time tonight
Let's celebrate, it's all right, baby
We're gonna have a good time tonight (Celebration)
Let's celebrate, it's all right
We're gonna have a good time tonight (Celebration)
Let's celebrate, it's all right


Yahoo!  Yahoo!


Celebrate good times, come on (Let's celebrate)
Celebrate good times, come on (It's a celebration)
Celebrate good times, come on (Let's celebrate)
Celebrate good times, come on (Come on and celebrate tonight)
(Baby everything's gonna be alright, let's celebrate)
Celebrate good times, come on
Celebrate good times, come on (Let's have a great time, celebrate)
Celebrate good times, come on

********************************************************************

ヤッホー!(これは君のお祝いさ)
ヤッホー!(これは君のお祝いさ)
楽しい時間を祝おう、さあ(盛り上がろう)
楽しい時間を祝おう、さあ(盛り上がろう)


パーティーをやってるよ、今ここで
何年も続くお祝いさ
だから、君も楽しい時間と笑いを持ってきてくれ
僕らは、君のパーティーを一緒にやるつもりなんだ
さあ、今すぐ


(セレブレーション) みんな一緒に盛り上がって、楽しもう
(セレブレーション)僕らはお祝いして、楽しむのさ


一緒に集まろう
それは君次第、何をやって楽しみたい?
(世界中のみんな、カモン!)


ヤッホー !お祝いだ
ヤッホー !

 

楽しい時間を祝おう、さあ(お祝いだ)
楽しい時間を祝おう、さあ(盛り上がろう)


パーティーをやってるよ、今ここで
何年も続くお祝いさ
だから、君も楽しい時間と笑いを持ってきてくれ
僕らは盛り上がって、君とパーティーをやるのさ
さあ、今すぐ

 

(セレブレーション) みんな一緒に祝って、楽しもう
(セレブレーション)僕らはお祝いして、楽しむのさ


一緒に集まろう
それは君次第、何をやって楽しみたい?
(世界中のみんな、カモン!)


ヤッホー !お祝いだ
ヤッホー !


楽しい時間を祝おう、さあ(盛り上がろう、さあ今すぐ)
楽しい時間を祝おう、さあ(盛り上がろう)


今夜は楽しく過ごそう
盛り上がろう、大丈夫さ
今夜は楽しく過ごそう
お祭り気分で 問題なしさ、ベイビー
今夜は楽しく過ごそう (セレブレーション)
盛り上がろう、大丈夫さ
今夜は楽しく過ごそう (セレブレーション)
お祭り気分で、問題なしさ


ヤッホー!ヤッホー!


楽しく過ごして盛り上がろう、さあ(盛り上がろう)
楽しく過ごして盛り上がろう、さあ(盛り上がろう)
楽しく過ごして盛り上がろう、さあ(盛り上がろう)
楽しく過ごして盛り上がろう、さあ (さあ、今夜を楽しもう)
(♪ベイビー すべてうまくいくさ、盛り上がろうぜ)
楽しく過ごして盛り上がろう、さあ
楽しく過ごして盛り上がろう、さあ(さあ楽しんで、盛り上がろう)
楽しく過ごして盛り上がろう、さあ

           (拙訳)

*********************************************************************

 最初から最後までひたすら盛り上がろうと煽ってくるだけです(笑。

 最近は、考えに考えつくしたような、歌詞の比重が大きい曲が多い気がして、たまにこういう”ノリ”で一気に押し切る音楽を聴いて心のバランスをとりたくなってしまいます(苦笑。

 

    クール&ザ・ギャングは、1964年にニュージャージー州ジャージーシティでロバート "クール "ベルとロナルド・ベルの兄弟を中心に結成されたR&B/ファンクバンドです。

 これだけ長いキャリアがありますから、時代によってそのスタイルはかなり違っていました。

  レコード・デビューは1969年、シングルはバンド名の「Kool& The Gang」という曲でした。

www.youtube.com

 スタートはインストのファンク・バンドだったんですね。もともとはソウルジャズのバンドだったそうですが、観客がファンクで盛り上がるのでそちらにシフトしていったようです。バンド名はthe Jazziacs、the Soul Town Band、the New Dimensionsと変遷し、最終的にKool& The Gangになりました。

 

 彼らがブレイクしたのは1973年リリースのアルバム「Wild and Peaceful」。「Funky Stuff」(全米29位)、「Jungle Boogie」(全米4位)、「Hollywood Swinging」(全米6位)の3曲のヒットが生まれました。

www.youtube.com

 1975年には90年代の日本のクラブシーンでも人気のあった「サマー・マッドネス」(全米35位)をリリースしています

www.youtube.com

 その後、彼らは低迷期に入ります。当時大流行していたディスコなどのポップな洗練されたスタイルノン学が時代の中心になっていき、彼らのストリート感のある泥臭いファンク・サウンドが合わなくなり、同じくその頃人気のあったフュージョンやアース、ウィンド&ファイアーなどのテイストを取り入れていくうちに、個性がなくなっていた、、僕にはそんな風に見えました(普通に聴く分には全然楽しめる音楽なんですが、、)。

 

  どん底時代の彼らはレコード店でインストア・イベントをやったそうですが、客は女の子一人、しかもその女の子から「クール&ザ・ギャングは古い!」と言われたことで、バンドの改革をしようと決心したそうです。

 

 そして、彼らは二つの大きな改革をすることで、低迷期を抜け出すことに成功します。

 一つはメイン・ヴォーカリストを迎え入れること。女性コーラスを入れたり、メンバーが歌うなど、インストから”歌モノ”に徐々にシフトしてきた彼らでしたが、ここで正式にフロントマンを入れたのです。そのヴォーカリストがジェームス・"J.T."・テイラーでした。

 もう一つは、彼らはデビュー作以外はずっとセルフ・プロデュースでやって来ましたが、このタイミングで初めて外部のプロデューサーを招きました。

 それがエウミール・デオダート。ブラジルからアメリカに渡り、ジャズ/フュージョンで成功していたアーティストです。

 彼の手腕により、クール&ザ・ギャングはポップで洗練された、何より時代にフィットしたサウンドを手に入れることができたのです。

 

「Ladies Night」1979年全米8位 R&B1位

www.youtube.com

 「Too Hot」1980年代全米5位。鍵盤の音がまさにデオダート。

www.youtube.com

 

 そしてこの勢いに乗って、リリースされた次のアルバム「セレブレイト」からのファースト・シングルで、彼らにとって唯一の全米1位になったのがこの「セレブレーション」でした。

 

 この曲を書いたメンバーのロナルド・ベルはイスラム教徒でホテルで経典を読んでいると、神様が人間を創造するときに天使を呼び集めると、天使たちが神様に、あなたを祝福し、賛美します、と言ったというところに感銘を受けます。

 人類の起源には、セレブレーションがあるのだと。彼は、それを歌にしようと思いついたのだそうです。

 彼はこう語っています。

 

「実際は、人類のために書かれた曲なんだ」

 (SONGWRITER UNIVERSE   June 13, 2016)

 

  また、音楽的な面ではロナルドはこう語っています。

「僕たちがポップミュージックに焦点を当てたとき、ジャズのコードをいくつか使わないようにしたんだ。「セレブレーション」を書いているとき、実はプリンスの曲やドナ・サマーやそういった音楽を聴いていて、それにインスパイアされたんだ」

 (SONGWRITER UNIVERSE   June 13, 2016)

 

 テーマは宗教的で崇高なものでありながら、音楽的には最先端のダンスミュージックにアプローチする、このマッチングがとてもうまくいったわけですね。

 これはE,W&Fの「ブギー・ワンダーランド」や「レッツ・グルーヴ」などとも共通するような気がします。

 この時代に作られた、単に快楽的なパーティ・ディスコ・ソングの多くが風化していく中で、この曲が今なお人気なのも、そのあたりに秘訣があるのかもしれません。

 

  最後はこの曲のライヴ映像を。「Showtime at the Apollo」というTV番組のようです。

www.youtube.com

 

f:id:KatsumiHori:20211220182850j:plain

 

「イタリアン・レストランで (Scenes from an Italian Restaurant) 」ビリー・ジョエル(1977)

 おはようございます。

 今日はビリー・ジョエルの「イタリアン・レストランにて」です。

www.youtube.com

**********************************************************************

A bottle of white, a bottle of red
Perhaps a bottle of rosé instead
We'll get a table near the street
In our old familiar place
You and I, face to face, mmm
A bottle of red, a bottle of white
It all depends upon your appetite
I'll meet you any time you want
In our Italian restaurant


Things are okay with me these days
Got a good job, got a good office
Got a new wife, got a new life
And the family is fine
Oh, lost touch long ago
You lost weight, I did not know
You could ever look so nice
After so much time


You remember those days
Hanging out at the Village Green?
Engineer boots, leather jackets
And tight blue jeans
Oh, you drop a dime in the box
Play the song about New Orleans
Cold beer, hot lights
My sweet romantic teenage nights

 

Brenda and Eddie were the popular steadies
And the king and the queen of the prom
Riding around with the car top down
And the radio on
Nobody looked any finer
Or was more of a hit at the Parkway Diner
We never knew we could want
More than that out of life
Surely Brenda and Eddie
Would always know how to survive


Brenda and Eddie were still going steady
In the summer of '75
When they decided their marriage
Should be at the end of July
Everyone said they were crazy
"Brenda you know that you're much too lazy
And Eddie could never afford
To live that kind of life."
Oh but there we were waving
Brenda and Eddie goodbye

 

Well, they got an apartment
With deep pile carpets
And a couple of paintings from Sears
A big waterbed that they
Bought with the bread
They had saved for a couple of years
They started to fight
When the money got tight
And they just didn't count on the tears


Well, they lived for a while in a very nice style
But it's always the same in the end
They got a divorce as a matter of course
And they parted the closest of friends
Then the king and the queen
Went back to the green
But you can never go back there again


Brenda and Eddie had had it already
By the summer of '75
From the high to the low
To the end of the show
For the rest of their lives
They couldn't go back to the Greasers
The best they could do
Was pick up their pieces
We always knew they would
Both find a way to get by
And that's all I heard about Brenda and Eddie
Can't tell you more 'cause I told you already
And here we are waving
Brenda and Eddie goodbye


Bottle of red, bottle of white
Whatever kind of mood you're in tonight
I'll meet you anytime you want
In our Italian restaurant

**********************************************************************

ボトルの白ワイン、赤ワイン
代わりにロゼがいいかな
通りに近いテーブルにしよう
昔なじみの店の
君と僕、向かい合って、
ボトルの赤、ボトルの白
それは君の食欲次第さ
いつでも君が好きなときに会おうよ
僕らの好きなイタリアン・レストランで


最近、僕はいい感じなんだ
いい仕事に いいオフィス
新しい奥さんもいて、新しい人生が始まったのさ
家族も元気だよ
ああ、本当に久しぶり
君はやせたね  知らなかったよ
君は今もとても素敵さ
長い時間がたっても

 

あの頃を覚えているかな
ビレッジグリーンでぶらぶらしただろ?
エンジニア・ブーツに、レザー・ジャケット
それにタイトなブルージーンズ
ああ、ジュークボックスに10セント入れて
ニュー・オリンズの曲をかけて
冷えたビール、照明は熱くて
僕の甘くロマンチックな10代の夜さ

 

ブレンダとエディーはみんな知ってるカップルだった
プロムのキングとクイーンさ
車の幌を下して走り回っていたよ
ラジオを鳴らして
誰よりもイカしてた
パークウェイ・ダイナーの人気者だった
人生でそれ以上のことは望めるなんて
僕らには思えなかった
間違いなくブレンダとエディーは
うまく生きる方法を知っていたのさ


ブレンダとエディはまだ付き合っていた
1975年の夏
7月の終わりに、二人が結婚を決めたとき
誰もが二人はクレイジーだと言った
"ブレンダ......君はあまりにもいい加減すぎる
エディーにはそんな生活ができる余裕はないよ”
だけど、僕たちは
ブレンダとエディーに手を振ることになったんだ

 

彼らはふかふかのカーペットを敷いた
アパートを手に入れ
シアーズで買ったいくつかの絵画と
大きなウォーターベッドを
数年かけて貯めた金で買ったんだ
二人がお金に困ると、喧嘩が始まった
そして、彼らにはもう涙もあてにできなかったんだ


彼らはしばらくは、とてもいいスタイルで暮らしていた
でも、最後はいつだって同じ
当然の結果として、彼らは離婚して
最も親しい友だちとも疎遠になった
そしてキングとクイーンは田舎に帰ったのさ
だけど、もう二度とあの日々に戻ることはできない


ブレンダとエディーは
75年の夏までに全て味わったのさ
絶頂からどん底へ ショーの終わりまで
彼らの残りの人生
グリースできめてた仲間たちに戻ることはできなかった。
彼らができることは、自分たちのかけらを拾い集めること
僕たちがいつだってわかっていたように
二人ともなんとかやってゆく方法を見つけたんだ
ブレンダとエディーについて僕が知っているのはそれだけ
全部話したから、これ以上言うことはない
そして、ここで
ブレンダとエディーに別れの手を振るのさ


ボトルの赤、ボトルの白
今夜、君の気分に合わせればいい
いつでも好きなときに会おうよ
僕らの好きなイタリアンレストランで

                 (拙訳)

<PR>

「イタリアン・レストランで」の楽譜はこちら

**********************************************************************

 ネタ元を忘れてしまいましたが(すみません!)、ビリー・ジョエルが自分の作ったものの中で好きな曲としてあげ、ローリングストーン誌が選ぶ史上最高の500曲にもランクインするなど、発表された時以上に評価が高まってきているのが、この「イタリアン・レストランで」です。

 

 組曲の形式をとりながら、最後まで飽きさせることなく楽しめる、いかにも彼の創作の才能が一気に花開いていった時代を象徴するような曲だと僕は思います。

 

「あの歌には、誰もが知っている、いわば典型的なカップルが登場するんですが、永遠の疑問をあえて取り上げてみたかったんです。あの似合いのカップルのカップルに何が起こったのか。あまりに早く絶頂期を迎えてしまうとね、要するに高校時代に頂点に立ってしまうと、まず間違いなく早い段階でつまずいてしまうんです。当初はタイトルも『ブレンダとエディのバラード』だったんですが、もう少し見栄えのいい設定にしようって思ったんですよ」

 (「イノセントマン ビリー・ジョエル100時間インタヴューズ」)

 

「僕はビートルズの「アビーロード」のB面がいつだって大好きなんだ。あの素晴らしい曲の流れはジョージ・マーティンの手腕によるものだ。”イタリアン・レストランで”はかなり影響を受けているよ」

 (「ストレンジャー」30周年記念盤 DVD「The Making of The Stranger」)

 

 彼が「ブレンダとエディのバラード」を書いている同じ時期に別の曲を思いつきます。

「久しぶりに会ったカップルをテーマにした別の断片的なストーリーを思いついたんです。赤ワイン、そして白ワイン。それだけなんだけど、古いイタリアン・レストランが舞台なんです。それがいつの間にかつながっていって」

(「イノセントマン ビリー・ジョエル100時間インタヴューズ」)

 

 もともと別の曲だったのを、「アビーロード」のB面のようにつなげていくことで、この曲が出来上がっていったわけです。

 

   そして物語は彼自身が生まれ育った場所を背景に描かれています。

”They couldn't go back to the Greasers”という歌詞の「The Greasers」とは、髪をグリースでオールバックにして、レザージャケットにタイトなブルージーンズでキメていた労働者階級の若者のスタイル。1950年代から60年代前半にかけてNYなど都会を中心に流行したサブカルチャーのことでした。ビリー・ジョエルがその一派だったかどうかはわかりませんんが、身近な存在だったのでしょう。

 ちなみに「The Greasers」が出てくる有名な映画としてはフランシス・フォード・コッポラ監督の1983年の「アウトサイダー」の主人公たちがそうでした。マット・ディロントム・クルーズパトリック・スウェイジロブ・ロウエミリオ・エステベスとか今考えるとすごいメンツが集まっていましたね。

 

 それから、この「イタリアン・レストランで」は、ビリーが実在するレストランを想定して書いたそうで、ニューヨークのカーネギー・ホールの向かいにあった「Fontana di Trevi」(”トレビの泉”のことですね)という店だったそうです。

 今はそこにはないそうなので、移転したのかもしれません。ちなみに、冒頭で紹介したこの曲のMVではレストランの名前が「CACCIATRE'S」になっていますが、これはビリー・ジョエルの「ムーヴィン・アウト」で”サージェント・オリアリー”が働いていた店の名前ですね。

 

 ビリー・ジョエルのライヴ動画を最後に。1983年の「 Live from Long Island」から。

www.youtube.com

 

popups.hatenablog.com

popups.hatenablog.com

f:id:KatsumiHori:20211227111228j:plain

追記:日記ブログはじめました。よかったらのぞいてみて下さい

voz.hatenablog.com

「夕映えの恋人たち ( I Can't Make You Love Me)」ボニー・レイット(1991)

 おはようございます。

 今日はボニー・レイットの「 I Can't Make You Love Me」です。

www.youtube.com

*************************************************************

Turn down the lights
Turn down the bed
Turn down these voices inside my head
Lay down with me
Tell me no lies
Just hold me close
Don't patronize
Don't patronize me


'Cause I can't make you love me if you don't
You can't make your heart feel something it won't
Here in the dark in these final hours
I will lay down my heart and I'll feel the power
But you won't, no you won't
'Cause I can't make you love me if you don't


I'll close my eyes
Then I won't see
The love you don't feel when you're holding me
Morning will come
And I'll do what's right
Just give me 'til then to give up this fight
And I’ll give up this fight

 

'Cause I can't make you love me if you don't
You can't make your heart feel something it won't
Here in the dark in these final hours
I will lay down my heart and I'll feel the power
But you won't, no you won't
'Cause I can't make you love me if you don't

*************************************************************

照明を落として
ベッドカバーを外して
頭の中の声を小さくして
私と一緒に寝て
嘘はつかないで
ただ抱きしめて
バカにしないで
心にもないことは言わないで


だって、あなたが私を愛するようにはできないわ
あなたにその気がないのなら
ありえないことを心が感じることはできない
暗闇の中、この最後の時間に
私が心をさらけ出したら、力が湧いてくるでしょう
だけど、あなたはそうじゃない、そうじゃないの
だって、あなたが私を愛するようにはできないわ
あなたにその気がないのなら


目を閉じる
そして、見ないようにするの
私を抱いているときも、あなたが感じることのない愛を
朝が来るわ
そしたら、私は正しいことをするの
今はただこのまま、この葛藤が終わるまで
そうしたら、私はあきらめるわ、この戦いを


だって、あなたが私を愛するようにはできないわ
あなたにその気がないのなら
ありえないことを心が感じることはできない
暗闇の中、この最後の時間に
私が心をさらけ出したら、力が湧いてくるでしょう
だけど、あなたはそうじゃない、そうじゃないの
だって、あなたが私を愛するようにはできないわ
あなたにその気がないのなら

           (拙訳)

*************************************************************

 

 今ではスタンダードと呼んでもいいくらい、たくさんのアーティストからカバーされているこの曲は、ナッシュビルをベースに活動しているカントリー・ミュージックのソングライター、マイク・リードとアレン・シャンブリンによって書かれたものです。

 

 マイク・リードはNFLのプロ・フットボール選手として活躍し、その後ソングライターに転身したという異色のキャリアの持ち主で、シンガーとしてもカントリーチャート1位のヒットを出しています。

 

  この曲のインスピレーションはある新聞記事だったそうです。

マイク・リード:地元のお偉い政治家の裏の仕事をしている男が密造酒で酔っ払って、奥さんだったか恋人の車を銃で撃ちまくったという記事だったのを覚えている。それで、その記事の中に実際にそのフレーズがあったんだ。彼は裁判官にこう言ったんだよ。"もし女があんたを愛していないなら、あんたは彼女を...あんたは彼女を愛させることはできないということを俺は学んだ "とね。アイデアはそこから生まれたんだ」

(STEREO GUM   OCTOBER 27, 2016)

 

 ちなみに、アレン・シャンブリンのほうは、新聞記事は妻から離婚を迫られ裁判所に連れて行かれた男の話で、その言葉は男が言ったものだったと記憶しているようです。

 

 悲痛な失恋の歌としては、まったく想定していなかったんですね。

 

「リード:僕たちは、自分たちが何をやっているのかちゃんと分かっている「プロのソングライター」のつもりだったから、あの曲はアップテンポのブルーグラス・ソングとして書いたんだ。(笑)。

 シャンブリン:いかにもブルーグラスらしい、アップテンポで、弾むようなメロディだったね」

(STEREO GUM   OCTOBER 27, 2016)

 

 しかし、二人の曲作りはなかなか思うように進まず、何度も投げ出したようです。

 ある日、リードがまったく関係ない曲をピアノで弾いているときに”Don't patronize"という言葉がひらめき、"patronize”は”見下ろす”というような意味の言葉ですが、歌にはあまり使われないものでした。しかし、そこからイメージが広がって曲ができてゆく中で、投げ出したままになっていた”I Can't Make You Love Me”の歌詞が、うまくハマったといいます。

 

そして、シャンブリンはこう回想しています。

 「ある日、マイクの家に遊びに行ったんだ。彼の作曲部屋は地下にあったんだけど、彼は”2階に来てくれ、ある曲を弾いてあげたいんだ”と言ったんだ。2階には美しいグランドピアノがあって、彼はそのピアノで「I Can't Make You Love Me」のメロディだけを弾き始めたんだ。僕はその音楽を聴いているだけで、鳥肌がたったよ。彼はそれが何のためのものなのか、教えてくれなかったけど、それから、もう一度弾き始めると、新しいメロディーの上に、僕たちがすでに書いていたサビの歌詞を歌い始めたんだ。僕は、ただただびっくりしたよ」

(STEREO GUM   OCTOBER 27, 2016)

 

 曲は出来上がりましたが、リードは今度は何ヶ月もの間デモを作らなかったそうです。その曲を歌うのに自分が十分にエモーショナルになるのを待ち続けたのだそうです。そして、ようやく作られたデモはリードがピアノだけで歌われていて素晴らしいものだったとシャンブリンは語っています。

 

  リードはこの曲を歌って欲しいのは、ベット・ミドラーリンダ・ロンシュタット、そしてボニー・レイットの三人だとシャンブリンに話したそうです。

  そして、以前にリードの歌を取り上げたことがあり、親交もあったボニー・レイットにデモを送ることにしました。

 レイットはこう語っています。

 

「ミュージシャンのコミュニティを通じて、(マイクが)素晴らしいシンガーでソングライターだということを聞いていたわ、それで彼のソロ・アルバムを手に入れて、最初の曲(『Nick Of Time』の「Too Soon To Tell」)をやったの。私たちは『Nick Of Time』の後に友達になったんだけど、彼とアレンが最初に『I Can't Make You Love Me』を送ってくれて、彼自身のデモを聴いてノックアウトされてしまったわ、彼の歌い方のファンだったから」

 (STEREO GUM   OCTOBER 27, 2016)

 

 ボニー・レイットは1971年にデビューして以来、音楽的な評価こそ高かったものの、商業的には成功したことはなく、1989年(彼女が40歳の時)にリリースしたアルバム「ニック・オブ・タイム(Nick Of Time)」でようやく大成功(全米1位。グラミー賞では年間最優秀アルバムなど3部門獲得)したという遅咲きのアーティストです。

 その「Nick Of Time」で彼女はアラン・リードの作品を1曲取り上げていたのです。

www.youtube.com

 そして、この「I Can't Make You Love Me」の入ったアルバム「ラック・オブ・ザ・ドロウ(Luck of the Draw)』は「ニック・オブ・タイム」以上のヒットになり、現在に至るまで彼女のアルバムの中で最も売れたものになっています。

 

「I Can't Make You Love Me」もシングルとして全米18位とヒットしていますが、スタンダードとなった今の感覚からすると、ちょっと控えめな感じがしなくもないですね。

 

 ボニー・レイットのヴァージョンで、彼女の歌声の次に、印象深く耳に入って来るのはピアノじゃないでしょうか。これは、ブルース・ホーンズビーの演奏です。この人らしいリリカルな音色というのが、実に曲とマッチしていますよね。

 

 ホーンズビーはこう語っています。

「長年にわたって多くのレコードに参加してきたけど、他のアーティストのために演奏したレコードの中で、おそらく僕が最も誇りに思うレコードになると思う」

 (STEREO GUM   OCTOBER 27, 2016)

 

 ちなみにホーンズビー本人が演奏したものも探してみたら、ありました。彼らしいピアノをより堪能できるものになっています。

www.youtube.com

 

 

  さて、この曲のカバーは200を超えていますが、一番最初のものは作者のマイク・リードのセルフ・カバーでなんです。

www.youtube.com

 シンプルな編成で、ボニー・レイットがノックアウトされたデモの雰囲気を再現しようとしたのかもしれませんね。

 

 プリンス、アデル、など錚々たるアーティストがカバーしていますが、その中からこの曲がスタンダードになるのに重要な役割を果たしたものを2つ紹介して終わりたいと思います。

 

 まずはジョージ・マイケル。1997年に「Older」と両A面扱いでリリースされ全英3位になっています。動画は1996年のアンプラグド・ライヴの模様です。何か酷な言い方のように聞こえるかもしれないですが(僕的には賛辞として言うのですが)、”孤独で愛されていない歌”が史上最も似合う男性シンガーは彼じゃないかと思えるんです。特に後年の彼の全身からどうしようもなく漂ってくる孤独感は、なんとも表現できないものでした。。。

www.youtube.com

 

 そしてジャスティン・ヴァーノンのプロジェクト”ボン・イヴェール”の2011年のカバー。動画再生は5000万回を超え、これを見てこの曲をカバーしようと思ったアーティストも多いそうです。悲しく切々とした歌いっぷりは、この曲のカバーでも屈指のものですが、エンディングでボニー・レイットの代表曲「ニック・オブ・タイム」につなげ、 "I found love , love in the nick of time ”(ギリギリで私は愛を見つけた)と歌うことで微かな希望を与えてくれる、という構成になっています。

www.youtube.com

 

「夕映の恋人たち」が収録された彼女の代表作。

Luck of the Draw

Luck of the Draw

Amazon

 

f:id:KatsumiHori:20211226115745j:plain