あけましておめでとうございます。
新年第一回目はマナの「 YELLOW MAGIC CARNIVAL」です。
この曲は細野晴臣の作詞作曲したもので、彼がいたバンド<ティン・パン・アレイ>のアルバム「キャラメル・ママ」に収録されていました。
眼(マナコ)が大きいから、という理由でつけられたあだ名がそのまま芸名になったMANNA(マナ)は、”知る人ぞ知る”というシンガーではありますが、日本のポップス史の重要人物を惹きつける存在でした。
まず、彼女が出会ったのが佐野元春です。
1973年の12月、彼女は立教高校のクリスマス・パーティーで佐野に出会い、彼のバンド「バックレイン元春セクション」のメンバーになります。
「多分ね、兄が佐野くんに私を紹介したんだと思うわ。『妹も音楽をやってるんだ』とか言って。そのとき私は立教女学院の中三で、コンテストに応募したりしてたの。それで、佐野くんとパーティの席で話が弾んじゃって、彼が『いまバンドやってるんだけど、キーボードがいないんだ。君やらない?』って言うのよ。それで、私はコードを押さえる程度にしか弾けないって言ったら、『それで十分さ!』とか言われちゃって、そのバンドにキーボード奏者として参加することになるの」
(「路上のイノセンス」下村誠)
翌年10月、ヤマハのポプコンの本選で敗れたことでバンドは解散してしまいました。
その後彼女は”ドロッピング・パイ”(のちに佐野元春&ザ・ハートランドのメンバーになる里村美和、小野田清文も参加)というバンドで、ヤマハ主催のコンテスト”East West"に出場します。
賞は取れなかっかたのですが、彼女のボーカルに興味を持ったのが"East West "の審査員だった、ティン・パン・アレイの林立夫でした。
そして、そこから細野晴臣とつながります。
1977年に細野は「イエロー・マジック・カーニバル」をドラマーの林と新たにレコーディングする構想があり、そのシンガーとしてマナをイメージしていたといいます。
林はこう語っています。
「彼女はぼくが審査員をしたヤマハのアマチュア・バンド・コンテスト、イーストウエストに出場していて、声が太くてキンキンしてない、ぼくらの好きそうな一九五〇年代風の声の持ち主だった。細野さんもそこからイメージが湧いたんじゃないかと思いますよ」
(「細野晴臣と彼らの時代」)
彼女の声から「イエロー・マジック・カーニバル」の再録という考えが浮かんだんじゃないかということですね。
細野は林とマナと三人で新たなバンドを組み、細野が移籍することになっていた,新しくできるレコード会社、アルファ・レコードに一緒に連れてゆく計画でしたが(マナ本人はその計画を知らなかったそうです)、独自の道を歩みたいと考えていた林から断られ、このプロジェクトは立ち消えになってしまいました。
(細野は林と佐藤博と「ファイアークラッカー」を演奏するという構想もあったそうですが、こちらも林の不参加でなくなってしまっていました)
アルファレコードの発足記念レセプションで新たなプロジェクトを発表する予定だった細野は、「イエロー・マジック・カーニバル」が頓挫したことで、発表できることは何もありませんでしたが、その時に突然浮かんだのが”イエロー・マジック・オーケストラ”というバンド名だったそうです。
「なにか発表しなきゃという状況でひねり出したんですね、名前だけ。それでイエロー・マジック・オーケストラを一年後にやると言ったんです。頭の中にあったメンバーは全員NGだったから、誰とやるかは決まってなかった。なにをやるかも決まってない。でもうっすらっと、それまでやってきたエキゾティック・サウンドとディスコ・ミュージックを掛けあわせれば、変なものができるんじゃないかと。そんな想いはありましたけどね」
(「細野晴臣と彼らの時代」)
「イエロー・マジック・カーニバル」のプロジェクトなくしてYMOのアイディアはなく、MANNA(マナ)なくして「イエロー・マジック・カーニバル」のプロジェクトはなかったわけですから、マナはYMOの誕生に、期せずして大きな役割を果たしたことになりますね。
その後、ティン・パン・アレイのコーラスや彼らが演奏したCM歌っていたそうですが、1979年にEPICレコードからデビューが決まります。
それまで、彼女は浜口庫之助のもとで1年間レッスンしていたそうです。
そんなわけで彼女のデビュー・アルバム「CHABAKO TRICK」には浜口の曲が3曲収録されています。
アルバムのプロデューサーは林立夫で、アレンジは今井裕、レコーディングはロスアンジェルスのA&Mスタジオで行われました。
そのアルバムからに収録されシングルになったのがこの「YELLO MAGIC CARNIVAL」でした。
林は細野作品でこの曲が一番好きだったそうですから、自分が原因で一度頓挫したプロジェクトをしっかりカタチにしようという思いはあったのかもしれません。
ちなみに、冒頭で紹介したのがシングル・ヴァージョンで、シングルにする際に新たに作り直したようです。アルバム・ヴァージョンは今井裕が編曲を手がけましたが、シングルのアレンジは鈴木茂で、フィリー・ソウル風のストリングスから当時大流行していた「ホワット・ア・フール・ビリーヴス」パターンのリフに入るという、ぐっとAOR、シティポップ寄りのアレンジになっています。
ちなみにこちらがアルバム・ヴァージョン。
彼女はEPIC時代に二枚のアルバムとシングル四枚を残していますが、彼女に一番曲を書いていたのが筒美京平でした。彼も、彼女の声質に大変に興味を持っていたそうです。それにしても短い期間に、浜口庫之助、筒美京平、細野晴臣、佐野元春という突出した才能とコラボしたわけですから、彼女も何か”持っていた”んでしょうね。
筒美京平作品の中から1曲。作詞がユーミン(呉田軽穂)の「さよならのポラロイド」というのもありますが、筒美ワールド全開で、シングルにもなった「TOKIO通信」を。
その後、彼女はブレッド&バターの岩沢幸矢と結婚しますが、歌手活動もしばらく続けて「ドラゴンボール」のエンディング・テーマや「ひらけ!ポンキッキ」のオープニング・テーマなども歌っていたようです。
最後は「夜のヒットスタジオ」出演時の映像を。