まいにちポップス(My Niche Pops)

令和初日から毎日、1000日連続で1000曲(せんきょく)を選曲(せんきょく)しました。。。古今東西のポップ・ソングのエピソード、洋楽和訳、マニアックなネタ、勝手な推理、などで紹介しています。キャッチーでメロディアスなポップスは今の時代では”ニッチ”なものになってしまったのかなあとも思いますが、このブログを読んでくださる方の音楽鑑賞生活に少しでもお役に立てればと願っています。みなさんからの追加情報や曲にまつわる思い出などコメントも絶賛募集中です!text by 堀克巳(VOZ Records)

「ロンリー・ガイ(You Oughta Know By Now)」レイ・ケネディ(1980)

 おはようございます。

 今日はレイ・ケネディの「ロンリー・ガイ」です。

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Here I mesmerized
Livin' in a world of broken dreams
Loneliness, no finesse
Everywhere I turn it always seems
So why do I pretend
That I'm never comin' back again
I know that it's not true
I'm comin' home to you

You oughta know by now

Here I am
Waitin' at the end of time for you
Ain't no fun
Never knowin' really what to do
All alone am I
Lookin' out into an empty sky
The dreams I see for us
Turn into sex and lust

You oughta know by now
You oughta know by now
I'll never let you down
Whenever you're not around
I'm sayin'
You oughta know by now
I'll never let you down

Here I am
Sittin' on the road without a friend
Can't get it up
So I'm gettin' down tonight again
All alone am I
Waitin' for the days just to go by
Woman,can't you see?
Please be there for me

You oughta know by now
You oughta know by now
I'll never let you down
Whenever you're not around
I'm sayin'
You oughta know by now

You oughta know by now
You oughta know by now
There ain't no love to be found
Whenever you're not around

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ここで僕は心奪われ
破れた夢の世界に生きている
ひとりぼっちで、なすすべもない
どこに行ってもそう思えるんだ
なぜ僕はそんなふりをするんだろう
もう二度と戻ってこないなんて
それが真実じゃないことはわかっている
僕は君のもとに帰ってくる

君ははもうわかっているはずさ

ここにいて
時の終わりに君を待っている
楽しくもなく
どうしたらいいのかわからない
ひとりぼっちの僕は
空っぽの空を見上げ
僕が見た二人の夢は
それはセックスと欲望に変わる

君はもうわかっているはずだ
君はもうわかっているはずだ
僕は決して君を失望させない
君がいないときはいつも
僕は言うんだ
君はもうわかっているはずだ
僕は君を絶対失望させないと

ここで僕は
道に座っている 友達もいないまま
元気も出せない
だから、今夜もまた落ち込むのさ
ひとりぼっちの僕は
日々がただ過ぎていくを待ちながら
ねえ、わからないのかい?
どうか僕のそばにいて

君はもうわかっているはずだ
君はもうわかっているはずだ
僕は決して君を失望させない
君がいないときはいつも
僕は言うんだ
君はもうわかっているはずだ


君はもうわかっているはずだ
君はもうわかっているはずだ
愛なんて見つからないと
君がそばにいない時はいつだって

         (拙訳)

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 ある年齢以上のポップス・ファンはよく記憶していると思いますが、当時、”パクリ騒動”で思いがけず注目され、日本でもヒットした曲でした。

 

 その騒動の元になったのが八神純子の「パープルタウン」。日本航空JALPAK「I LOVE NEWYORKキャンペーン」CMソングで使われ、オリコン2位、当時の人気TV番組「ザ・ベストテン」では2週連続1位という大ヒット曲でした。

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 これが「ロンリー・ガイ」とそっくりだということで訴訟騒ぎになったわけです。あらためて聴いてみると、酷似しているのはアレンジですよね。歌に関しては”アイ・ラヴ・ユー・モア・アンド・モア〜”というフレーズが”You Oughta Know By Now”というキー・フレーズとほぼ一緒というところが痛かったですね。今思えば。

 ここが違っていたら、別曲として全然成立したような。あくまでも、個人的な意見ですが、、。サビがメジャーになる展開なんて、実に日本人好みで、実に巧みなソングライティングだと思いますし。

 洋楽は一つのパターンで押し切るものが多いですが、日本人は変化のある展開を欲しがる傾向が強い、この2曲を比べるとそれがよくわかります。

 

 この曲のアレンジは僕の好きな大村雅朗さんですが、この当時は筒美京平さんにしろ林哲司さんにしろ、洋楽の元ネタにかなり近いアレンジをやっていたので、時流としてそのあたりのジャッジがちょっとゆるくなっていたのかもしれませんね。

 最終的には「パープルタウン」の共作者として、「ロンリー・ガイ」の作家陣がクレジットされることと「パープルタウン」の曲名を『パープルタウン 〜You Oughta Know By Now〜』に変更することで決着したようです。

 

 

  レイ・ケネディは1946年にフィラデルフィアに生まれました。9歳のときにサックスを始め、アカペラ・グループで歌も歌っていましたが、1960年には人気TV番組「アメリカン・バンドスタンド」のレギュラー・ダンサーもやっていたそうです。

 

 1963年にジョン&レイというデュオでアトランティック・レコードでレコーディングしましたが発売されなかったようで、初めてのシングルは1965年、なんとそれにはフィラデルフィア・ソウルの生みの親ケニー・ギャンブルがからんでいました。彼がまだ無名だった頃に作者に名を連ねた「Number 5 Gemini」という曲でした。

 

 彼はサックス奏者としても優秀だったようで、バリトン・サックス奏者ジェリー・マリガンのオーディションに受かって彼のステージでテナー・サックスを吹いたり、他にもディジー・ガレスピー、J.J.ジョンソンなどの大物とジャズ・サックス奏者として演奏してまわっていた時代があったようです。

 

 しかし歌に専念する決意をした彼はニューヨークに渡り、「グループ・セラピー」というサイケデリック・ブルース・ロック・バンドに加入します。

  彼らのファースト・アルバムはジミヘンの「フォクシー・レイディ」で幕を開けます。

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 かなりの歌いっぷりですね。彼らは2枚のアルバムを残して解散してしまいますが、1970年に彼はソロ・アーティストとして正式にデビューすることになります。

「She's a Lady」

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  その後、1972~1973年に彼はA&Mレコードで、エリー・グリニッチと組んでロネッツ「ビー・マイ・ベイビー」やクリスタルズの「ダ・ドゥ・ロン・ロン」などを書いたジェフ・バリーのプロデュースでシングルを二枚録音していますが、一枚フランスでリリースされただけで、アメリカではプロモ盤しかないようです。

 A&Mジェフ・バリーということは、この頃彼はLAにいたようですね。そして、ブライアン・ウィルソンとも交流があったようで、ビーチ・ボーイズの曲を共作しているんです。

 「Sail On Sailor」1973年に全米79位、1975年に再度チャートインし49位

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 最初にブライアンとレイとスリー・ドッグ・ナイトのダニー・ハットンの三人でスリー・ドッグ・ナイト用に書いて完成しなかったものを、のちにブライアンとヴァン・ダイク・パークスで完成させたようです。レイは最初の歌詞を書いたと言われています。

 また、彼は1973年にベック、ボガート&アピスのデビューアルバムに「Why Should I Care」という曲を提供し、1974年には、ポール・ウィリアムズが音楽を手がけ出演した映画「ファントム・オブ・パラダイス」で2曲、シンガーとして参加しています。

 

 そして1976年にはカーマイン・アピス、バリー・ゴールドバーグ、マイク・ブルームフィールド、リック・グレッチと「KGB」というブルース・ロック・バンドを結成し、シングルとして「セイル・オン・セイラー」をカバーしています。

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 また1977年〜78年には作家として、ジョン・ウェイトが在籍していたベイビーズの2大ヒット曲「愛の出発(Isn't It Time)」(77年全米13位)「ときめきの彼方へ(Everytime I Think of You)」(78年全米13位)の両方を、ドアーズ後期のベーシストでデイヴ・メイソンなどの曲も書いているジャック・コンラッドと一緒に書いています。

「愛の出発」

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 彼が10年ぶりにソロアルバムを作ることになったのは、このベイビーズのヒットというのが大きかったと思われます。

 レーベルはコロンビア・レコード内に作られた、E,W&Fのモーリス・ホワイトがハンドリングしていたARC。この時期、モーリスから大変信頼されていたデヴィッド・フォスターがプロデューサーになり、ジェフ・ポーカロスティーヴ・ルカサー、ビル・チャンプリンなどおなじみのメンバーが集まっています。

 「セイル・オン・セイラー」や「愛の出発」のセルフ・カバーも収められていました。

 ハスキーで声量のある彼は、泥臭いブルース・ロックをずっとメインに歌ってきましたが、ベイビーズに提供したようなメロディアスなハードロック・サウンドを自ら歌うことで新境地を開拓しようとしたわけです。

 残念ながらアメリカではヒットしませんでしたが、日本では八神純子がらみでスマッシュ・ヒットになりました。

 

 その後、1983年の映画「地獄の7人」のサントラで2曲歌っていましたが、それ以降レコーディングしていたデータは見つかりませんでしたが、1984年にはなんとマイケル・シェンカー・グループのヴォーカルとして「スーパー・ロック・フェスティバル84」というイベントで来日していたようです。

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 この時の彼はメタル・ファンにはボロクソに言われたようです。AOR野郎が畑違いのメタルに来やがって、みたいな論調の文章は今でもネットで数多く見受けられます。

 確かにメタルは彼の畑違いでしたが、実はAORも畑違いで、本来ブルースロックの人だったんですけどね、、。声量のあるヴォーカリストはなんでも歌おうとする傾向はありますけど、何でもかんでも仕事を受けちゃ、ね、と僕は思います。

 

 

 さて、その後、彼は作家としては1995年にフリートウッド・マックのアルバム「Time」の「These Strange Times」という曲を共作しています。

 そして、彼は2014年に亡くなってしまったようです。作家としてはそれなりの成果をあげましたが、シンガーとしては力量がありながら、決定打は打つことはできなかったんですね。日本だけは「ロンリー・ガイ」で記憶されていることになりましたが、、。

 

 しかし、ディジー・ガレスピージェリー・マリガン、ケニー・ギャンブル、カーマイン・アピス、マイク・ブルームフィールド、ブライアン・ウィルソンジェフ・バリーデヴィッド・フォスター、そしてマイケル・シェンカー、、こんなに幅広いジャンルの偉人たちと共演した人は他にはいないでしょう。

 面白い人生だったな、と思えたんじゃないでしょうか。もちろん、彼の本心は分かりませんが。

 

 最後は、アルバム「ロンリー・ガイ」から名バラード「マイ・エヴァー・ラスティング・ラヴ」とそれを少し変えてカバーしたビル・チャンプリンの「トゥナイト・トゥナイト」を続けて。

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「僕のラヴ・ソング(LOVE YOU LIKE I NEVER LOVED BEFORE )」ジョン・オバニオン(1981)

 おはようございます。

 今日はジョン・オバニオンの「僕のラヴ・ソング」です。

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Heard a promise in the wind
Then I saw you walkin' in
Tell me, baby, where ya been so long
Waited all my life to feel this strong

I love you like I never loved before
And every day I love you so much more
I'm feeling like I've never felt so sure
Love you like I never loved before

Lonely days and lonely nights
Finally gone and out of sight (thanks to you)
I'll do everything within my power
To make your life get sweeter hour by hour

I love you like I never loved before
And every day I love you so much more
I'm feeling like I've never felt so sure
Love you like I never loved before

I'll do everything within my power
To make your life get sweeter hour by hour

I love you like I never loved before
And every day I love you so much more
I'm feeling like I've never felt so sure
Love you like I never loved before

I love you like I never loved before
(No, I never) No, I never (never loved before)
I love you like I never loved before
(No, I never) No, I never, never loved like this before
I love you like I never loved before
(No, I never) No, I never, no, I never
I love you like I never loved before

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風の中で約束が聞こえて
そのあと、君が歩いてくるのが見えた
教えておくれ、ベイビー、こんなに長い間どこにいたのか
こんなに強く思いながら、ずっと待っていたんだ

今までにないくらい君を愛している
そして、毎日、君をもっと愛するんだ
今までにないくらい確かな気持ちを感じている
今までにないくらい君を愛している

孤独な日々、寂しい夜
やっと消えて見えなくなった(君のおかげで)
僕の力でやれることは何だってやるよ
君の人生が時とともに甘くなってゆくように


今までにないくらい君を愛している
そして、毎日、君をもっと愛するんだ
今までにないくらい確かな気持ちを感じている
今までにないくらい君を愛している

僕の力でやれることは何だってやるよ
君の人生が時とともに甘くなってゆくように
そして、毎日、僕は君をもっと愛するんだ
今までにないくらい君を愛している

今までに感じたことのない気持ちで
今までにないくらい君を愛している

今までにないくらい君を愛している
そうさ、今までにないくらい君を愛している
そうさ、今までにないくらい君を愛している
そうさ、今までにないくらい君を愛している

 (拙訳)

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 ジョン・オバニオンはアメリカではワン・ヒット・ワンダー(一発屋)で終わりましたが、日本ではAORファンに人気が高く、それにプラスして大型タイアップもあったおかげでで、1980年代の洋楽ファンには馴染みのある存在でしょう。

 

 どちらかというと裏方出身や地味目のキャラが多い、AOR系のアーティストとしては異色の”イケメン”だったということも特筆できると思います。

 

 彼は1947年にインディアナ州ココモ出身に生まれ、13歳の頃には演劇と”Hog Honda & the Chain Guards”という地元のバンドの活動を始め、15歳ですでにラジオ番組のホストをつとめていたそうです。

 そして、20歳から地元のTVで「ジョン・オバニオン・ショー」という番組を持っていたそうですから、ローカルでは有名人だったようです。

 

 YouTubeには「ジョン・オバニオン・ショー」の映像がいくつかあがっています。その中からダイアナ・ロスの「タッチ・ミー・イン・ザ・モーニング」を歌っているものを。

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 映像は 1974年で「僕のラヴ・ソング」の7年前ですが、すでにベテランっぽい雰囲気がありますね。ただ、この時で彼はすでに27歳になっていたわけですが。ちなみに、同じ年に彼はベル・レコードから「When Jeremiah Can Be With Me」というシングルを吹き込んでいますが、記録に残っているのがプロモ盤だけなので、流通はしなかったのかもしれません。

 また、この頃彼はジャズ・トランペッターのドク・セバリンセンに認められ、彼のバンド”Today's Children”のシンガーになっています。ドクは人気TV番組「ジョニー・カーソンズ・トゥナイト・ショー」の専属バンドもやっていて、それをきっかけにジョニー・カーソンがジョンをたいへん気に入って、一年に5回も番組に出演させたそうです。

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 無名のシンガーが大人気TV番組に5回も出演したわけですから、そこでデビューの話もありそうなものですが、オールド・スタイルのジャズ・ヴォーカリストというのがネックになったのかもしれません。

 

  彼がようやくチャンスを掴んだのは、80年代にスタートしたTVのオーディション番組「スター・サーチ」に参加し勝ったことでした。そして番組の音楽プロデューサーだったジョーイ・カルボーンとジョーイの古くからの仲間で、ブロンディの「コール・ミー」など数多くのレコーディングに参加していた人気セッション・ギタリストだったリッチー・ジィトーが彼のプロデュースをすることになったのです。

 (アルバム「僕のラヴ・ソング」の金澤寿和さんのライナーによると、イングランド・ダン&ジョン・フォード・コーリーなどのマネージャーだったスーザン・ジェセフという女性が彼らを引き合わせたとのことです)

 

 1978年にワーナーから「Something About Love」というシングルを作っています(のちに、日本のアルバムのボーナス・トラックになっています)が、こちらもプロモ盤のみでほとんど流通しなかったようです。ただ、これがノーザン・ソウル調で、ダリル・ホールっぽいニュアンスもあるなかなかの作品でした。

 そして1980年には、クライヴ・デイヴィスのアリスタ・レコードから「Ocean Of Love」というシングルをリリースしています。

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 この「Ocean Of Love」ですが、ジョーイ・カルボーン&リッチー・ジィトー、コンビが手がけて日本のソニーのTVCMソングで大ヒットした「オーバーナイト・サクセス」のテリー・デザリオが、アルバム「オーバーナイト・サクセス」(1984)の中でカバーしています。

   また、彼はとにかくチャンスが欲しかったのでしょうか、この年彼は役者としてチャールズ・ブロンソンの映画「ボーダーライン」に出演しています。

 

 そして、アリスタでも成功しなかった、ジョン、ジョーイ、リッチーのトリオが、ようやくヒットにこぎつけた曲が、エレクトラと契約してリリースしたこの「僕のラヴ・ソング」だったのです(全米24位)。

 この時すでにジョンは34歳だったわけですが、それまでのジャズ、ポピュラー・ヴォーカリストのスタイルを捨て、当時人気だったTOTOに代表されるようなハード・ポップなロック・スタイルに挑んだことがよかったのかもしれません。

 

 そして、1982年に彼は東京音楽祭に参加するために、ジョーイ、リッチーとともに来日します。そして「君だけのバラード(I Don't Want To Loose Your Love)」で見事グランプリを獲得します。

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 そして、この来日を大きなチャンスにつなげたのがジョーイ・カルボーンでした。日本に愛着を感じ、日本のマーケットに興味を持った彼は帰国後、ビートルズを来日させたプロモーターとして知られ、洋楽専門の音楽出版社を運営していた永島 達司氏に、日本の音楽の仕事をしたいとアプローチした結果、得た仕事が薬師丸ひろ子が主演した角川映画里見八犬伝」の映画音楽でした。

 そして、その主題歌をジョン・オバニオンに歌わせ、ヒットしたのが「里見八犬伝( I Don't Want This Night To End)」でした(オリコン14位)。

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 しかし、その後、彼のリリースは途絶えてしまいます。

役者としては活動していたようで、1990年には「The Judas Project」というインディペンデント映画で主演をつとめています。

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 久しぶりに彼の歌を聴くことができたのが、1995年のアルバム「Hearts」でした。

これは、「風のシルエット」、「ハート悲しく」、「アイム・ノット・イン・ラヴ」や「愛ある別れ」などAOR系の名曲をジャズやボサノヴァ・アレンジで歌ったものでした。

 

 彼もまた、昨日このブログに登場したジョン・ヴァレンティと同じく、フランク・シナトラに憧れ歌い始めた人のようで、「ジョン・オバニオン・ショー」の映像を見ても、「僕のラヴ・ソング」よりもこちらの方が、彼本来のスタイルであったことがわかります。

 彼は2007年のツアー中にニューオリンズでひき逃げ事故に遭い、その後遺症のために亡くなってしまったそうです。

 その才能とキャリアに対して、残された作品があまりに少ないのが残念ではありますが、「HEARTS」のような、彼本来の持ち味を発揮できた作品を残せたことはせめてもの救いだと思えます。

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「アイ・ウォント・チェンジ(I Won't Change)」ジョン・ヴァレンティ(1981)

 おはようございます。

 今日はジョン・ヴァレンティの「アイ・ウォント・チェンジ」です。

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I won't change, I won't change,
I won't change my mind.
I won't change, I won't change,
I won't change my mind.

I won't change,
I won't change my mind.
I will love you, baby,
till the end of time.
Even if this whole world crumbles,
I won't change my mind.

All the things, honey, we've been through,
over ups and downs, it's been me and you.
I don't care what people say,
our love's here to stay.

Sometimes this world gets movin' so fast,
I know you can't help but wonder
if my feelings for you can last.
Well, don't you worry, baby,
my love for you's like thunder.

I won't change,
I won't change my mind.
I will love you, baby,
till the end of time.
Even if this whole world crumbles,
I won't change my mind.

All the things, honey, we've been through,
I've been up and down and all around you.
I don't care what people say,
I won't change my mind.

Don't you know now, babe.

Both of us see lovers foldin' each day,
what makes us think we can make it?
There's a bond between us they can't see.
No matter how they try,
nobody's gonna break it.

'Cause I won't change,
I won't change my mind.
I'm gonna love you, baby,
till the end of time.
Even if this whole world crumbles,
I won't change my mind.

Ooh, ooh, baby.
I don't care what people say,
'cause I won't change my mind.

I won't change, I won't change,
I won't change my mind, baby, I...
I won't change, I won't change,
I won't change my mind, baby, I...

I won't change, I won't change,
I won't change my mind if you'll be mine.
I won't change, I won't change,
I won't change my mind.

I won't change, I won't change...
(I've been up and I've been down)
(and I've been all around now, baby).
...I won't change my mind.

I won't change, I won't change,
I won't change my mind.
(And I can't change my mind).

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変わらない、変わらない
僕の気持ちは変わらない
変わらない、変わらない
僕の気持ちは変わらない

変わらない
僕の気持ちは変わらない
君を愛するよ、ベイビー
永遠に
たとえこの世界が崩れ落ちても
僕の気持ちは変わらない

いろんなことを、ハニー、僕らは経験してきた
いい時も悪い時も乗り越えてきた、それが僕と君なんだ
人が何と言おうと構わない
僕たちの愛はここにあるのさ

時々、この世界はとても速く動いてしまう
僕の気持ちが続くかどうか、
君が疑問に思ってしまうのはわかる
心配しなくていいんだ、ベイビー
君への愛は雷のようなものさ

変わらない
僕の気持ちは変わらない
君を愛するよ、ベイビー。
永遠に
たとえこの世界が崩れ落ちても
僕の心は変わらない

いろんなことを、ハニー、僕らは経験してきた
僕は浮き沈みはあってもずっときみのそばにいた
人が何と言おうと構わない
僕の心は変わらない

わからないのかい、ベイビー

二人とも、恋人たちが日に日に壊れていくのを見ているんだ。
何をもってして自分たちが成功すると思うのだろう?
僕には彼らには見えない絆があるんだ
どんなことをやろうとしても
誰もそれを壊すことはできない

だって僕は変わらない
僕の気持ちは変わらない
君を愛し続けるよ、ベイビー
永遠に
たとえ、この世界が崩れ落ちても
僕の気持ちは変わらないよ

人が何と言おうと気にしない
僕の心は変わらないから

変わらない、変わらない
僕の気持ちは変わらない
変わらない、変わらない
僕の気持ちは変わらない、、、

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 当時AORの話題のニュー・アティストとして、FMや音楽誌でもかなり紹介されていた記憶があるのですが、この曲が入ったアルバムが発売されたのは日本だけだったようです。

 アメリカでは先行でリリースされたシングルの売れ行きが思わしくなかったのか、アルバムは急遽お蔵入りしてしまったのだそうです。

 

 ジョン・ヴァレンティはシカゴ出身のシンガーソングライター。1951年生まれで、本名はジョン・リヴィニ(John LiVigni)、シチリア人の家系だったようで、父は警察官、母は専業主婦で、5人の兄弟姉妹がいたそうです。

 

 彼に最も影響を与えたのがフランク・シナトラ。そしてマーヴィン・ゲイレイ・チャールズの影響も大きかったようです。

 8歳のとき、ジョンはドラムを始めま、9歳の頃お小遣いでマイクを買って、テレビで見た憧れの歌手の真似をしていましたが、周りからの評判が良く、歌手を目指すようになったようです。14歳でセミプロのバンドにドラマー・シンガーとして参加し、シカゴのクラブで演奏していました。

「1960年代、人々はソウルやリズム・アンド・ブルースのレパートリーを求めていたんだ。それは僕が育った音楽であり、僕のルーツであり、その後の僕のキャリアの指針となった」

 のちにTV番組「アメリカン・バンドスタンド」に出演した際、彼はこう語っていました。

 

 1968年に彼は”The Outfit”というバンドを結成し、イリノイ州のあちこちでライブを行い、最終的にはデトロイトでもライヴを行います。そして、1972年にモータウンの目に留まり、白人のバンドながら彼らに契約を申し出ました。

 そのときバンドは”パズル”という名前で、1973年から74年にレコードをリリースしています。

 同郷の先輩”シカゴ”のようなブラス・ロックの要素もありながら、ソウル・ファンク色もあるバンドでした。彼はヴォーカルとドラムを担当していました。

 

「Mary Mary」

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 パズル解散後、彼は本名のジョン・リヴィニ(John LiVigni)名義で1974年に2枚シングルをリリースしています。そのうち1曲はスティーヴ・ウィンウッドのいたスペンサー・デイヴィス・グループの代表曲「ギミ・サム・ラヴィン」でした。

 

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 彼が白人ソウル・シンガーとして、かなりの歌い手だったことがうかがえます。

 

そして1976年にアリオラレコードと契約しロサンゼルスに拠点を移し、芸名をジョン・ヴァレンティに変え、会心の作品をリリースします。

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 彼の歌声はスティーヴィー・ワンダーに似ていると言われることがよくあったそうですが、この曲などはまさにそうでしょう。

 1976年の「Anything You Want」。全米チャート最高37位、ソウル・チャートでは最高10位まで上がった、彼唯一のヒット曲です。

 

 そして、この曲と同名のアルバムもリリースしました。エド・グリーンジム・ゴードン、ディーン・パークス、ジェイ・グレイドンといった凄腕のミュージシャンが集まり、ブルー・アイド・ソウルの隠れた傑作とも呼べる充実した内容になりましたが、セールス的には成功しませんでした。

 同時期に、やはりブルー・アイド・ソウルのスタイルを打ち出したボズ・スキャッグスホール&オーツは花開いたわけですが、、。

 

 ちなみに、パズルからこのファースト・アルバムまではボブ・カレンがプロデュースしています。彼はRCAのスタッフA&Rだった人で古くはヤングブラッズの「ゲット・トゥゲザー」のスーパーバイザーをつとめ、70年代は様々なレーベルでプロデューサーをやっていて、70年代後半はシルヴァーズも手がけています。

 

   そして、ジョンの5年ぶりの復活作となったのが、この「アイ・ウォント・チェンジ」も収録されている「女はドラマティック」。原題は「I Won't Change」。しかし、アルバムのオープニングの「Who Will Be」という曲にも「女はドラマティック」という邦題がつけられるというややこしい事態になっていました(このパターン、たまにありましたよね。。。)。

 当時僕がラジオでよく耳にしたのが、この「Who Will Be」のほうの「女はドラマティック」でした。

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 このアルバム、当時流行していたAORのさまざまなパターンを、とてもうまく取り入れた”ウェルメイド”な作品でした。

  プロデュースはスモーキー・ロビンソンの「Being With You」やロバート・ジョン「Sad Eyes」で知られるジョージ・トービン。トービンのアシスタントでもあったギタリスト/アレンジャーのマイク・ピシリロが共同でアレンジをし、マネージャーでもあったゲイリー・ゴーツマンの作詞でこの「アイ・ウォント・チェンジ」、「女はドラマティック」などの主要曲を作曲しています。

 また、ベースで「Risin' To The Top」のケニ・バーク、バック・コーラスではダーレン・ラヴ、エドナ・ライト姉妹も参加しています。

 

  *ちょっと脱線してしまいますが、せっかくですからケニー・バークの「Risin' To The Top」もきいてもらいましょうか。

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 しかし、冒頭でお話しした通り、アルバムはお蔵入りしていまい、ジョン・ヴァレンティのアーティスト生命はほぼ立たれてしまいました。

 

 彼ほどの力量を持つシンガーでも挫折してしまうとは、このビジネスの難しさをあらためて思い知らされます。(また、そんな彼を評価した日本の音楽ファンの耳の良さを誇らしく思います)

 

 そして彼は、同じ時期、西海岸のラジオ・スターだった”シャナ”さんと恋に落ち結婚し、アーティスト業から足を洗い、家族をメインにする人生を選んだそうです。

 そして彼はハイファイ・スピーカーのキャビネットの設計や特許、風景画家、そして教師などをやっていたそうです。

 そして闘病生活の果てに残念なことに昨年初めに亡くなっています。

 

 彼が亡くなった後、たぶん息子さんだと思いますが、ジョンのフェイスブックを立ち上げています。

 2012年に、彼は友人のジョン・スピニゾーラと「It Wouldn't Be Christmas」というクリスマス・ソングを作っていました。

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 彼は”白いスティーヴィー”でもありましたが、シナトラが最大のアイドルでしたから、ソフトな”クルーナー”っぽい歌い方も身についていたんですね。

 

 これは彼のフェイスブックに行かないと見れないですが、たぶん息子さんと作ったトラックに合わせて「雨にぬれても」を歌っている動画があって、ものすごくいいんですよね。大昔に引退したとは思えない、とてもいいヴォーカルで見ていてなんかウルウルしてしまいました。彼がクルーナー・ボイスでスタンダードを歌うアルバムをぜひ聴いてみたかったなあ、と思ってしまいました。

 

https://www.facebook.com/JohnValentiMusic/

 

 

 

 

 アメリカでは成功せず、日本人が再評価したAOR系シンガーソングライターの一人、

フランク・ウェーバー

popups.hatenablog.com

 

 「女はドラマティック」と同じ年にヒットしたAORチューン。

popups.hatenablog.com

 

 

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「LADY PINK PANTHER」鈴木茂(1976)

 おはようございます。

 今日は鈴木茂の「LADY PINK PANTHER」です。

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 シティポップの舞台が都会からリゾートへ移ってゆく先駆けとなった作品

 

 

  はっぴいえんど解散後、単身LAで向こうのミュージシャンと渡り合いながら作ったファースト・ソロ「バンドワゴン」の次のアルバム「LAGOON」のオープニングを飾っていたのがこの「LADY PINK PANTHER」でした。

 

「そろそろバブルの足音も聞こえ始めて、世は贅沢な時代に突入していく。そんなときにライフ・スタイルだけでなく音楽でも注目されたのがトロピカル・リゾート路線。細野さんはとっくにその世界だったし、高中正義くんがトロピカルな路線のアルバム『セイシェルズ』でソロ・デビューしたのもこの頃だったね。

 

 ぼくもセカンド・アルバムの構想を練り始めたんだけど、またアメリカに行って一からやるのは精神的にも肉体的にもきついなあと思っていたところだった。ちょうどボサノヴァとかポール・サイモンとか、ソフトな音楽ばかり聴いていたので、このアルバムはハワイで録音することにした。用意していた曲も南国っぽいのが多かったしね」

  (「自伝 鈴木茂のワインディング・ロード」)

 

 はっぴいえんどシュガーベイブを起源とする街の音楽”シティ・ポップ”は1976年あたりに”夏の海”という、”第2の拠点”を見出します。その動きの先端にいた一人が鈴木茂でした。

 また、シティ・ポップではありませんが、細野晴臣の「泰安洋行」「トロピカル・ダンディ」という”トロピカル路線”が、期せずしてそれを先導するかたちになった、というのも興味深いところです。

 

 さて、この「LADY PINK PANTHER」には、彼の最も気心の知れたリズム隊、細野晴臣(ベース)と林立夫(ドラム)に、パーカッションの浜口 茂外也、ミッキー吉野の後にゴールデンカップスに在籍したことがあり、ティン・パン・アレイの「キャラメルママ」にも参加したジョン山崎、ブレッド&バター岩沢幸矢、そしてアメリカからジャズ・ピアニスト、マーク・レヴィンが参加しています。

 

 このハワイ・レコーディングの夏っぽいアルバムというのは、世の中のムードと、本人のムードが一致したことで生まれたようですが、シティ・ポップという視点で見直した時に、南佳孝の「忘れられた夏」とともに、「LAGOON」は ”街から海へ”という舞台の移動を先駆けた作品になっています。

 

 そして、シティポップの原点とされる”はっぴいえんど”のメンバーでソロ活動をした三人(細野、大瀧、鈴木)の中で、その動きが現在の視点でシティ・ポップ最もとクロスしているようのが彼のように思えます。

 この翌年に彼が当時の音楽シーンの流れを大きく変えた原田真二の「てぃーんずぶるーす」のアレンジを手がけたということもとても重要だと僕は思います。

(また、日本のシティポップ・ファンにとっての金字塔である大瀧詠一の「A LONG VACATION」が海外のファンからはシティポップじゃなくオールディーズだという見方もあるらしく、そのあたりは個人的にすごく興味深く思えました)

 

 最後に「LAGOON」からもう1曲。「時の流れに」あたりのポール・サイモンっぽさが強く感じられる「デビル・ゲーム」を。

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「バンドワゴン」収録の名曲

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 鈴木茂アレンジ、時代を変えた1曲

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「渚のラブレター」沢田研二(1981)

 おはようございます。

 今日は沢田研二の「渚のラブレター」です。

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レコーディング音源の動画は貼り付けられなかったので、こちらから

https://youtu.be/ZYdVLI4xNb8

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 矢沢永吉ももちろんすごいんですけど、僕が個人的に思う、日本最高のロック・ヴォーカリストはこの人です。リアルタイムで彼をTVで見て”魔法にかけられてしまった”人は、少なくなかったでしょう。

 シングルごとにコンセプトをがらっと変え、それに合わせたコスチュームやメイクでも毎回びっくりさせてくれる。40年も経った今振り返ってみても、こんなアーティストは日本では結局彼ただ一人しかいなかったですね。

 彼の場合そういったヴィジュアル面に話題がいきがちだと思いますが、彼の場合何より歌声そのものが素晴らしいのだと思います。例えばこの「渚のラブレター」のサビの高音の声の響き方は、繊細で美しい生地のような不思議なつややかさを感じます。

 

 しかし、今回は作曲家としてのジュリーに焦点を合わせてみたいと思っています。

彼自身で作曲したもので、初めてヒットしてのはこの曲でした。

 

「コバルトの季節の中で」(1976)オリコン7位。作詞は演出家の久世光彦

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  この曲だけで、彼が優れた作曲家であることがわかるように思います。ちなみに、この曲の入ったアルバム「チャコール・グレイの肖像」は全曲彼が作曲を手がけています。

 翌年の「勝手にしやがれ」の大ヒット以降、ビジュアル戦略が本格的に始まり、彼はシンガーに徹していきます。曲作りをできる時間もなかったでしょう。

 再び彼が自作曲をリリースし始めたのは、1980年代に入ってから。「酒場でDABADA」や「おまえがパラダイス」のB面に入れた後、伊藤銀次が全曲アレンジしたアルバム「G.S.I LOVE YOU」の表題曲とオープニング曲を書いています。

 ちなみに、「G.S.I LOVE YOU」はブレイク以前の佐野元春が参加し、のちに彼自身がセルフ・カバーをする「彼女はデリケート」「I'm In Blue」「Vanity Factory」が収録されています。

 そして、「G.S.I LOVE YOU」の流れで、次のシングルに決まったのがこの「渚のラブレター」でした。

 アレンジは伊藤銀次で、それまで沢田研二のバックバンドだった、吉田建西平彰、柴山和彦に加え、新たにムーンライダーズのギタリストの白井良明と、この当時、山下達郎のバックやプリズムでドラムをやっていた青山純というメンバーでレコーディングされたそうです。

 プロデューサーの木崎賢治と加瀬邦彦は、当時人気が出ていたのパンク、ニューウェイヴの過激さを沢田研二の楽曲に

「”渚のラブレター”はもともとカンツォーネみたいなメロディの曲だったので、これをイギリスっぽく料理するのはなかなか難しいなと思ったんですけど。良明君のエイドリアン・ブリューロバート・フリップに通じる色が入ると良いミスマッチで、メロディの良さも残しつつとんがってて。そのときもやっぱり木崎さんと加瀬さんのオーダーは「過激」でしたから、間奏は歌のメロディをロバート・フリップ的な音色で、フレージングはエルモア・ジェイムスで弾いてくれって良明くんにお願いして。普通のスタジオ・ミュージシャンだったら訳がわかんなくて弾けないと思うんですけど、良明君は「了解!」って、いとも簡単に弾いちゃった。素晴らしかったですよ」

 (伊藤銀次 自伝 MY LIFE,POP LIFE)

 

 確かに、曲調は1960年代のポップスの感じがありますが、アレンジ、特にギターの音がものすごく尖っていますね。

 それから、この曲のデモテープは沢田研二には少し高く、キーを一音下げてアレンジしなければいけなかったのを、伊藤が忘れてそのままのキーでアレンジしてしまったのだそうです。

 しかし、沢田は快く歌ったそうです。

佐野元春の「彼女はデリケート」などを歌ううちに、高音が出るようになったのではないかと伊藤は推測しています)

 

「”渚のラブレター”は高音に物凄く伸びがあって、聴いててめちゃくちゃ気持ちがいい曲ですよね。あの曲はアレンジの力はささやかなもので、沢田さんの艶のある、綺麗な高音の魅力でヒットしたんだと思います」

 (伊藤銀次 自伝 MY LIFE,POP LIFE)

 ミスがかえって、沢田の声の魅力を引き出す結果になったんですね。不思議なものです。

 その後、「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」、「麗人」と3曲続けて自作曲をシングルにしヒットさせた後、三浦百恵が作詞したアン・ルイスの「ラ・セゾン」も手がけ、作曲家沢田研二はこの時期にピークを迎えるわけです。

 

 これは完全に僕の推測でしかないですが、70年代には歌謡曲人脈のシステムで制作していた彼が、伊藤銀次佐野元春白井良明といった違うフィールドのミュージシャンと交流したことで、本来持っていた彼の作曲家の才能が化学反応を起こしたのではないか、そんな風に思えます。

 

 最後は「渚のラブレター」と並ぶ傑作「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」を。

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「Misty」矢沢永吉(1983)

 おはようございます。

 今日は矢沢永吉の「Misty」です。

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  この人のキャラは日本人なら、みなさんよくご存知だと思いますが、僕の彼に対する思いは昔から一貫していて、”どうして、こういうキャラなのに、こんなに洗練されたメロディが書けるんだろう?”ということなんです。

 ロックンローラーを標榜しながら、これほどメロウなレパートリーも数多く持っているのは彼くらいでしょう。

 

 彼の有名な自伝「成り上がり」には、自分が買ったレコードについてこう語っています。

「オレ、28年間も人間やってて、ミュージシャンもそうとう長いことやってて、金払ってレコード買ったの何枚あると思う?レコード屋行って、買ったの。
4枚。ビートルズの『ラバー・ソウル』、パリー・ホワイトの『愛のテーマ』、ナタリー・コールのなんとか。

ナタリー・コールのは、1曲だけ好きなのがあって、それを持参しなきゃならないラジオ番組があってね、で、買ったの。ほんとは、シングル盤があれば、それでよかった

あと1枚は、井上陽水の『氷の世界』。なんで150万枚売れるのか研究してみようと思って。わからなかったけどね、結局は・・・」

 

 4枚しかレコード買ったことなくて、あれだけの曲を書けるの?と当時僕はびっくりしたわけですが、あらためて読んでみると、数は少ないけど、すごいメロディアスなものですね。しかも、バリバリのロックはないんです。ビートルズもロックンロールをやっていた初期のものからも当然大きく影響を受けたんでしょうけど、買ったのが「ラバー・ソウル」というのがポイントのような気がします。

 

 ナタリー・コールは何の曲かは不明ですが、当時耳にする機会が多かったのはこれじゃないでしょうか。東京音楽祭でグランプリもとっていますし。

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 また、「成り上がり」には

「オレ、バート・バカラックとか、フランシス・レイとか好き」

  とも書いてありました。

 

 矢沢永吉という人間的なエネルギーを燃焼させるには、ロックンロールが一番フィットしたのでしょうが、一人のリスナーとしては、洗練されたコード感やメロディにすごく反応する耳を持った人なのかもしれませんね。

 

 彼が小林武史との対談(エコレゾウェッブ)で、彼のパブリックイメージと音楽性のギャップについて語ったものがありました。

「自分がそんなつもりもなく、蒔いた種かもしれないけれど。「あれ?」って、壁にぶつかった。
その壁は「ちょっと待ってよ、なんでいつも『成りあがり』の本を強調される矢沢永吉?」「夜汽車に乗って来た矢沢永吉?」「言いたいことを唾を飛ば しながら、上に行きたいとしかいわない矢沢永吉?」「違う! 俺は確かに言ってたけれど、それよりももっと俺のメロディーを、音楽を聴いて欲しいんだよ!  俺は、こんなにいいコード進行の曲を書いているんだよ!」と言いたいんだけれど、もう、そんなの二の次。なんでこうなっちゃったのかな、と思ったときは ありました」

 

 ”こんないいコード進行の曲”。本人もそういうこだわりは強くあったんですね。

 特に響きの良いギターのコードの流れを探ってゆく、そのあたりが彼のソングライティングの肝のような気がします。

 

 彼が最も音楽的に洋楽寄りに洗練されていったのが、1980年代前半、彼がワーナーミュージックに在籍していた時期でした。

 本格的なアメリカ進出を狙ったんですね。

 

 第一弾「抱かれたい、もう一度 -LOVE THAT WAS LOST-」。作曲は本人、作詞とアレンジ、プロデュースはドゥービー・ブラザーズのボビー・ラカインドと、リトル・フィートポール・バレア

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 第2弾アルバムからのシングル「ROCKIN' MY HEART」。ドゥービー・ブラザースのジョン・マクフィーの作、プロデュース。1983年2月19日付ビルボード誌の「Top Single Picks」の10曲に選ばれたそうです。

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 この当時は、アメリカ進出を狙いながら、日本向けのアルバムも作っていて、すごいペースだったと記憶しています。

 

 この「Misty」は「ROCKIN' MY HEART」が収録されたアルバム『YAZAWA It's Just Rock'n Roll』リリースからわずか7ヶ月で発売された、日本向けのアルバム『I am a Model』からのシングルです。

 「時間よ止まれ」や「YES MY LOVE」のほうが名曲だと思いながら、個人的に妙に惹かれてしまう曲でした。「Misty」と同じ頃に発売されたサザンの「EMANON」というシングルも妙に好きで、自分の好みってマイナーなのかな?などと当時思っていたのですが、近年のシティポップのガイドブックには「Misty」も「EMANON」も選ばれていて、自分がただオーソドックスなシティポップ・リスナーだったことに気づかされました。

 

 さて、この時期彼は、ハワイに住居を置いて生活していました。日本と、アメリカ進出の拠点であるLAとの中間地点にあることと、東京の家がファンに知られ、夜中に家の前でしょっちゅう騒がれてとても住めなくなったからだったと言われています。

 

 結果的にアメリカ進出は成功したとはいえませんでしたが、当時まさにアメリカのマーケットと格闘しているころインタビューを見つけました。

 

 攻撃精神があふれているね、というインタビュアーの問いに、攻撃って言葉は正しくないと彼は言い、

「今、オレがやることは、アメリカにまじることよ。まじって入りこむことよ」

 そして、どうやったら、マジれるんだろう、という問いに

「カンタンです。アメリカ合衆国に税金を払えばいいんです。ここからまじることが始まります。結果的に勝てばいいんだったら、まじってから、内面からいったほうがいいんだよな。それが、トヨタニッサンのやり方なんですよ。現地に工場造ってね」

 (写楽  1983年5月号)

 

 そして、一人で実際に生活して、たくさんのパーティに呼ばれて顔だして、という地道なことを繰り返していたようです。

 

 ただ、レコード会社のパワーでど〜ん!だけじゃなく、まず、自ら生活してアメリカに税金を払うという最も原点のところから始めているんですね。

 今でこそ、海外に移住して拠点を移すアーティストは珍しくないですが、この当時で芸能人長者番付で常にトップクラスにいる人が、こういう行動を起こしたことはありませんでした。

 彼は、普通はできない”まったく当たり前で正しいこと”を実行してしまうすごさがあるように思います。

 

 アメリカ進出は成功しませんでしたが、その後も、ライヴ・ツアーにはジョン・マクフィーをはじめとする海外のミュージシャンを数多く起用し続けているところは、彼なりのこだわりや気概のようなものがあるのかもしれません。

 

 最後は1982年の「YES MY LOVE」。コカコーラのCMソングでしたね。

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「涙のリメンバー(A NIGHT TO REMEMBER)」シャラマー(1982)

  おはようございます。

 今日はシャラマーの「ナイト・トゥ・リメンバー」です。

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When you love someone, it's natural, not demanding
And that's one thing I'm proud to say I found in you
I'm so glad we reached an understanding
Now I know my heart is safe with you


So now my love to you, baby, I surrender

Get ready tonight
Gonna make this a night to remember
Get ready (Oh, baby) tonight
Gonna make this a night to remember

Celebrations in the heart 'cause we're united
And there's nothing in this world to come between me and you
We're together and it keeps me so excited
To think of what the power of love can do
And I'm filled with a love that's, oh, so tender

Get ready (Baby) tonight (Girl)
I'm gonna make this a night to remember
Get ready (Get ready) tonight
I'm gonna make this a night to remember


Make this a night to remember
Get ready tonight
Gonna make this a night to remember
Get ready (Get ready) tonight
Gonna make this a night to remember

 

Get ready (Baby) tonight (Darling)
Gonna make this a night to remember
Get ready (Darling) tonight (Baby)
Gonna make this a night to remember


This night you won't forget
Gonna make this a night to remember
‘Cause your love I won't regret
Gonna make this a night to remember

 

Get ready (Baby) tonight (Darling)
Gonna make this a night to remember
Get ready (It won't be like the past) tonight (I will make it last)
Gonna make this a night to remember

Tonight
Make this a night to remember
Tonight
Make this a night to remember

 

Let's make a toast to those who helped make this occasion
They turn their back on love
And that's what drove you straight to me
Now to you, I make a lasting dedication
I'll show you all that love and life can be
And each day that I live I will deliver

 

Get ready (This night you won't forget) tonight
Gonna make this a night to remember
Get ready (‘Cause your love I won't regret) tonight
Gonna make this a night to remember
Get ready (Baby) tonight (Darling)

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誰かを愛するとき、それは自然なこと、無理やりじゃない
それをあなたに見出すことができたと
私は誇りを持って言うわ
手を差し伸べ、理解し合えたことがとてもうれしい
私の心はあなたと一緒なら安全だとわかってる
だから今、この愛をあなたに、ベイビー、捧げるわ

準備して、今夜
忘れられない夜にしよう
準備して、今夜
忘れられない夜にしよう

心の中でお祝いしよう、だって二人はつながっているから
君と僕の間を邪魔するものはなにひとつないんだ
僕たちは一緒、だから心はずっと高ぶっている
愛の力で何ができるのか考えると
僕は愛に満たされる、とてもやさしく

準備して、今夜
思い出に残る夜にしよう
準備して、今夜
思い出に残る夜にしよう
思い出に残る夜にするの
準備して、今夜
思い出に残る夜にしよう
準備して、今夜
思い出に残る夜にしよう

準備して、今夜
思い出に残る夜にしよう
準備して、今夜
思い出に残る夜にしよう

この夜を 君は忘れないさ
思い出に残る夜にしよう
だって、君の愛を後悔なんてしないさ
思い出に残る夜にしよう

準備して、今夜
忘れることのできない夜にしよう
準備して (前とは違う) 今夜(ずっと続けてみせる)
思い出に残る夜にしよう

今夜は
思い出に残る夜にしよう
今夜は
思い出に残る夜にしよう

この機会を作らせてくれた人たちに乾杯しよう
彼らは愛に背を向けている
だからが君は僕の元へまっすぐ来てくれた
今、君に、永遠に僕のすべてを捧げるよ
僕は君にこの愛のすべてと
人生がどうなるのか見せてあげるよ
そして、僕が生きているその日ごとに、君に届けよう

準備して、今夜
思い出に残る夜にしよう
準備して、今夜
思い出に残る夜にしよう
忘れることのできない夜にしよう

 (拙訳)

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 シャラマーは、テレビのR&B番組「ソウル・トレイン」のブッキング・エージェントだったディック・グリフィーが結成したグループです。

 

 グリフィーは「ソウル・トレイン」の生みの親であるドン・コーネリアスと”ソウル・トレイン・レコード”を1975年に設立し、1977年にはセッション・シンガーを集めモータウンのヒット曲をディスコ風にメドレーにした「Uptown Festival」という曲をシャラマーの名義でリリースし、全米25位のヒットにしています。

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 ヒットに味をしめたグリフィーはシャラマーを継続させるために、「ソウル・トレイン」を通じて、ダンサーだったジョディ・ワトリー、ジェフリー・ダニエルズにソウル・トレイン・レコードの最初の契約アーティストだったヴォーカル・グループ”ソウル・トレイン・ギャング”のメンバーだったジェラルド・ブラウンという三人を集めます。

 ドン・コーネリアスがソウル・トレイン・レコードを撤廃することにしたため、グリフィーは 1977年末に法的手続きを経てソウル・トレイン・レコードを”ソーラー・レコード”に改変しました。ソーラー(Solar)は、”Sound of Los Angeles Records”の略称です。

 

 そして、1979年にシャラマーはジェラルド・ブラウンの代わりに加入したハワード・ヒューイットをメイン・ヴォーカルにした「セカンド・タイム・アラウンド」を大ヒットさせます。(全米8位、R&B1位)。アメリカでの彼らの最大のヒットはこの曲です。

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  シャラマーをブレイクさせた最大の貢献者は、プロデューサーのレオン・シルヴァーズIIIでした。彼はシルヴァーズというファミリー・グループのメンバーで、この頃ソーラーの専属プロデューサー、A&Rになるとともにグループを脱退しています。

 シルヴァーズの代表作「ブギー・フィーバー」(1975年全米1位)

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  レオン・シルヴァーズIIIのポップでダンサブルな曲を生み出す才能が開花したことで、ウィスパーズ、ミッドナイト・スター、自身もメンバーとして参加したダイナスティといったグループを手がけたことで、ソーラー・レコード自体も発展していったのです。

  そして、この「涙のリメンバー」とこの曲の入ったアルバム「Friends」はレオンの最高傑作の一つと言ってもいいように思います。

 「涙のリメンバー」を書いたのは、レオンの一つ下の妹チャーメイン・シルヴァーズ、ダイナスティのメンバー、ニドラ・ビアード、レオンの会社と作家契約をしていたソングライター、ダナ・マイヤーズの三人。

  この曲で彼らはイギリスで全英5位とブレイクします。「Friends」からはもう2曲、イギリスでトップ10ヒットが生まれ、アメリカ以上の成功を収めています。

 そして、1984年には映画「フットルース」の挿入歌「ダンシング・イン・ザ・シーツ」で全米17位になっています。

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 この曲を書き、プロデュースしたのはビル・ウルファー。AORマニアには人気の人で、グリフィーがソーラーの大人向けレーベルとして発足させた”Constellation Records”からアルバムを出しています。

 

 1986年にハワード・ヒューイットがソロ活動のために脱退したことがきかっけになり、グループを低迷していき、それぞれがソロで活動するようになりましたが、ソロで最大の成功をおさめたのはジョディ・ワトリーでした。

 (ちなみに、ジェフリーはマイケル・ジャクソンにムーン・ウォークを教えたそうで、「Bad」や「スムース・クリミナル」などの振付師として有名になっていました)

 全米2位。「Looking For A New Love」

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 1996年には、ソーラーのレーベルメイトだったベイビーフェイスが彼らの「For The Lover In You」をカバーし、そこに三人が久しぶりに集まりました。

 

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  1999年に、ハワードとジェフリーはジョディの枠を開けたままシャラマーを再活動させますが、ジョディは再び加わる意思がなかったため、2001年にディック・グリフィーの娘キャロリンをメンバーに入れて活動を続けています。

 ジョディのほうは長い間、シャラマーのレパートリーは封印していたようですが、2013年から解禁し、長い裁判の結果2018年にシャラマーという名義の正式な所有者になったようです。

 そして、彼女自身もメンバーを新たに集めてシャラマーを組み、ライヴもやったようですが、彼女の本来の目的は、昔の彼女の写真をハワードとジェフリーのシャラマーが勝手に使いプロモーションしていたことをやめさせることだったようです。

 

 現在ネットを見る限りジョディの方のシャラマーはほとんど活動しておらず、ハワードとジェフリーのほうは現在も精力的に活動を続けているようです。

 

 

「涙のリメンバー」収録のアルバム。12インチ・リミックスもボーナストラックで収録。

 

 

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