おはようございます。
今日は矢沢永吉の「Misty」です。
この人のキャラは日本人なら、みなさんよくご存知だと思いますが、僕の彼に対する思いは昔から一貫していて、”どうして、こういうキャラなのに、こんなに洗練されたメロディが書けるんだろう?”ということなんです。
ロックンローラーを標榜しながら、これほどメロウなレパートリーも数多く持っているのは彼くらいでしょう。
彼の有名な自伝「成り上がり」には、自分が買ったレコードについてこう語っています。
「オレ、28年間も人間やってて、ミュージシャンもそうとう長いことやってて、金払ってレコード買ったの何枚あると思う?レコード屋行って、買ったの。
4枚。ビートルズの『ラバー・ソウル』、パリー・ホワイトの『愛のテーマ』、ナタリー・コールのなんとか。
ナタリー・コールのは、1曲だけ好きなのがあって、それを持参しなきゃならないラジオ番組があってね、で、買ったの。ほんとは、シングル盤があれば、それでよかった
あと1枚は、井上陽水の『氷の世界』。なんで150万枚売れるのか研究してみようと思って。わからなかったけどね、結局は・・・」
4枚しかレコード買ったことなくて、あれだけの曲を書けるの?と当時僕はびっくりしたわけですが、あらためて読んでみると、数は少ないけど、すごいメロディアスなものですね。しかも、バリバリのロックはないんです。ビートルズもロックンロールをやっていた初期のものからも当然大きく影響を受けたんでしょうけど、買ったのが「ラバー・ソウル」というのがポイントのような気がします。
ナタリー・コールは何の曲かは不明ですが、当時耳にする機会が多かったのはこれじゃないでしょうか。東京音楽祭でグランプリもとっていますし。
また、「成り上がり」には
とも書いてありました。
矢沢永吉という人間的なエネルギーを燃焼させるには、ロックンロールが一番フィットしたのでしょうが、一人のリスナーとしては、洗練されたコード感やメロディにすごく反応する耳を持った人なのかもしれませんね。
彼が小林武史との対談(エコレゾウェッブ)で、彼のパブリックイメージと音楽性のギャップについて語ったものがありました。
「自分がそんなつもりもなく、蒔いた種かもしれないけれど。「あれ?」って、壁にぶつかった。
その壁は「ちょっと待ってよ、なんでいつも『成りあがり』の本を強調される矢沢永吉?」「夜汽車に乗って来た矢沢永吉?」「言いたいことを唾を飛ば しながら、上に行きたいとしかいわない矢沢永吉?」「違う! 俺は確かに言ってたけれど、それよりももっと俺のメロディーを、音楽を聴いて欲しいんだよ! 俺は、こんなにいいコード進行の曲を書いているんだよ!」と言いたいんだけれど、もう、そんなの二の次。なんでこうなっちゃったのかな、と思ったときは ありました」
”こんないいコード進行の曲”。本人もそういうこだわりは強くあったんですね。
特に響きの良いギターのコードの流れを探ってゆく、そのあたりが彼のソングライティングの肝のような気がします。
彼が最も音楽的に洋楽寄りに洗練されていったのが、1980年代前半、彼がワーナーミュージックに在籍していた時期でした。
本格的なアメリカ進出を狙ったんですね。
第一弾「抱かれたい、もう一度 -LOVE THAT WAS LOST-」。作曲は本人、作詞とアレンジ、プロデュースはドゥービー・ブラザーズのボビー・ラカインドと、リトル・フィートのポール・バレア。
第2弾アルバムからのシングル「ROCKIN' MY HEART」。ドゥービー・ブラザースのジョン・マクフィーの作、プロデュース。1983年2月19日付ビルボード誌の「Top Single Picks」の10曲に選ばれたそうです。
この当時は、アメリカ進出を狙いながら、日本向けのアルバムも作っていて、すごいペースだったと記憶しています。
この「Misty」は「ROCKIN' MY HEART」が収録されたアルバム『YAZAWA It's Just Rock'n Roll』リリースからわずか7ヶ月で発売された、日本向けのアルバム『I am a Model』からのシングルです。
「時間よ止まれ」や「YES MY LOVE」のほうが名曲だと思いながら、個人的に妙に惹かれてしまう曲でした。「Misty」と同じ頃に発売されたサザンの「EMANON」というシングルも妙に好きで、自分の好みってマイナーなのかな?などと当時思っていたのですが、近年のシティポップのガイドブックには「Misty」も「EMANON」も選ばれていて、自分がただオーソドックスなシティポップ・リスナーだったことに気づかされました。
さて、この時期彼は、ハワイに住居を置いて生活していました。日本と、アメリカ進出の拠点であるLAとの中間地点にあることと、東京の家がファンに知られ、夜中に家の前でしょっちゅう騒がれてとても住めなくなったからだったと言われています。
結果的にアメリカ進出は成功したとはいえませんでしたが、当時まさにアメリカのマーケットと格闘しているころインタビューを見つけました。
攻撃精神があふれているね、というインタビュアーの問いに、攻撃って言葉は正しくないと彼は言い、
「今、オレがやることは、アメリカにまじることよ。まじって入りこむことよ」
そして、どうやったら、マジれるんだろう、という問いに
「カンタンです。アメリカ合衆国に税金を払えばいいんです。ここからまじることが始まります。結果的に勝てばいいんだったら、まじってから、内面からいったほうがいいんだよな。それが、トヨタ、ニッサンのやり方なんですよ。現地に工場造ってね」
(写楽 1983年5月号)
そして、一人で実際に生活して、たくさんのパーティに呼ばれて顔だして、という地道なことを繰り返していたようです。
ただ、レコード会社のパワーでど〜ん!だけじゃなく、まず、自ら生活してアメリカに税金を払うという最も原点のところから始めているんですね。
今でこそ、海外に移住して拠点を移すアーティストは珍しくないですが、この当時で芸能人長者番付で常にトップクラスにいる人が、こういう行動を起こしたことはありませんでした。
彼は、普通はできない”まったく当たり前で正しいこと”を実行してしまうすごさがあるように思います。
アメリカ進出は成功しませんでしたが、その後も、ライヴ・ツアーにはジョン・マクフィーをはじめとする海外のミュージシャンを数多く起用し続けているところは、彼なりのこだわりや気概のようなものがあるのかもしれません。
最後は1982年の「YES MY LOVE」。コカコーラのCMソングでしたね。