まいにちポップス(My Niche Pops)

令和初日から毎日、1000日連続で1000曲(せんきょく)を選曲(せんきょく)しました。。。古今東西のポップ・ソングのエピソード、洋楽和訳、マニアックなネタ、勝手な推理、などで紹介しています。キャッチーでメロディアスなポップスは今の時代では”ニッチ”なものになってしまったのかなあとも思いますが、このブログを読んでくださる方の音楽鑑賞生活に少しでもお役に立てればと願っています。みなさんからの追加情報や曲にまつわる思い出などコメントも絶賛募集中です!text by 堀克巳(VOZ Records)

「風をあつめて」はっぴいえんど(1971)

 おはようございます。

 今日は、はっぴいえんどの「風をあつめて」です。


【高音質】はっぴいえんど 風をあつめて

 

 僕が中学生の頃、細野晴臣YMO大瀧詠一は「A LONG VACATION」、松本隆は歌謡曲の作詞家、鈴木茂は編曲家として最初に認知してそういった作品から先に入ったので、さかのぼって「はっぴいえんど」の曲を聴いた時には、正直古臭く思えたものです。

 ロックにはじめて日本語の歌詞を載せるために、あえて古めかしい言葉を探し選んでいたなどとはつゆ知らず、ただただ歌詞もストレートに古臭いと思ったわけです。

 1980年代前半ですから、邦楽も洋楽志向全開で英語もどき(?)の歌詞が溢れていた時代ですからなおさらです。

 なのでしっかり聴いたのは、1990年代半ばくらいになってからでした。その頃は、はっぴいえんどといえば基本的に大瀧詠一の作った曲全般の評価が高くて、細野の作品では「風をあつめて」と「夏なんです」がよく名前があがっていたように記憶しています。

 そしてそれから、また20数年たったいまでは、「風をあつめて」がはっぴいえんどの最も有名な曲になっているようです。今もCMでカバーされていますし(窪田正孝)、サブスクのサイトを見ても、この曲だけ再生回数が抜きん出ています。

 

  「はっぴいえんどは細野さんのバンドだ」と大瀧が語っているのを読んだことがありますが、実際に細野がバッファロー・スプリングフィールドというバンドをキーワードに構想したものでした。そしてそれに最初に共鳴したのが松本隆小坂忠です。しかし、小坂忠はミュージカル「ヘアー」のオーディションに合格したため、そのプロジェクトから離れることになります。

 大瀧詠一は、細野とサイモン&ガーファンクルの「59番街橋の歌」の歌詞からとった”ランプポスト”という名前のフォーク・トリオを組んでいたことがありましたが、熱心なポップス・マニアであり当時はビー・ジーズやアソシエーションのファンだった大瀧を、細野は新バンドには誘っていませんでした。

 しかし、あるとき大瀧はバッファロー・スプリングフィールドを聴いていい曲だと思ったので、細野に「バッファローがわかった」と連絡を入れます。タイミングは小坂が離脱した直後という絶妙なタイミングだったようです。


Buffalo Springfield - For What It's Worth 1967

 この頃のことで、大瀧が亡くなった後に細野がラジオ番組で語ったエピソードがあります。

 大瀧がまだバッファロー・スプリングフィールドの良さをわかっていなかった時だったようですが、細野が欲しがっていた彼らの「ラスト・タイム・アラウンド」というアルバムを新宿のレコード屋(帝都無線)で見つけた彼は、細野の家に電話してレコード見つけて、他の人が買わないように俺が見張っているから早く来るようにと、言ったそうです。

 そして、細野が車で到着すると、本当に大瀧がずっと見張っていたといいます。そのとき大瀧本人にとっては全く興味のなかったレコードだったのに、です。

 僕を兄貴みたいに思っていてくれたんじゃないかなあ、とその番組で細野は語っています。

 また、細野が初めて大瀧と会う時に、彼を試すようにわざと自分の部屋にヤング・ブラッズの「ゲット・トゥゲザー」のシングルを置いておくと、大瀧が部屋に入って開口一番「おっゲット・トゥゲザー」だ、と言ったというエピソードもファンには大変有名です。

 日本のポップス史上における二大巨匠ともいういうべき二人の原点には、一枚のレコードがいかに特別なものなのか、という思いがあるということに、何かぐっとくるものを感じます。

 

 さて、話は戻しますが、はっぴえんど結成後オリジナル楽曲を作ることになり、そこで能力を発揮したのが大瀧のほうでした。

 

 大瀧は自分の好きなアメリカン・ポップスを封印し、バッファローのメンバーのスティーヴン・スティルスの曲や歌い方を研究していたそうです。

 

 バッファロー・スプリングフィールドはメンバー全員が曲を書けて歌えたので、はっぴいえんども作った人が歌うというルールを作っていました。

 しかし、細野は声が低く声域も狭い自分が歌うという制約の中で、それに見合ったものが作れなかったのです。しかも、作った曲もディレクターからダメ出しされたりと、すっかり引いてしまい、ファーストアルバム「はっぴいえんど」は大瀧の曲を核にして出来上がります。

 そのときに、細野の作品で彼の意向で収録を見送られた「手紙」という曲がありました。


Happy End - Tegami (Kaze wo Atsumete Rehearsal Take) [手紙 (「風をあつめて」リハーサル・テイク)] (1970)

 細野本人が「悩みの塊」、バンドっぽい声を出そうとして無理して、(声が)高いんだよ」と語っていますが、この曲の歌詞に「風をあつめて」というのが出てきます。

 細野はこう言っています。

「”風をあつめて”は、これは捨てられない言葉ですね。誰も考えたことがなかったですね」

 (NHK-BS『名盤ドキュメント はっぴいえんど「風街ろまん」(1971)~“日本語ロックの金字塔”はどう生まれたのか?~』)

 

 そして、松本は「風をあつめて」という言葉を生かし、新しく歌詞を書き下ろします。それを受け取った細野は

「説明なんかいらなかったですね。同じ風景を見ていた。東京の風が吹いている世界観というのは非常に音楽的に思いました」

 (NHK-BS『名盤ドキュメント はっぴいえんど「風街ろまん」(1971)~“日本語ロックの金字塔”はどう生まれたのか?~』)

 

 東京で生まれ育った細野と松本は、東京オリンピック(1964)にともなう大規模な都市開発によって、東京の懐かしい原風景を奪われてしまったという共通の経験を持っています。

 その記憶にだけにある街の風景をパノラマのようにたくさん集めると、ひとつの巨大な架空の街ができる、それを松本は「風街」と呼び、アルバム名を「風街ろまん」としました。

 そして「風街」を最も象徴する曲になったのが、この「風をあつめて」でした。

 

 しかしレコーディングの当日までメロディが書けなかった細野は、当日メンバーはドラマーの松本にだけ声をかけていました。

 そして、コード進行だけ決まっていたので、ドラムは松本、それ以外のパートは全部細野が演奏しました。そしてスタジオの廊下の”壁に向かって立膝でアコギを弾きながら”このメロディーを作り出したそうです。

 

 問題の歌唱について、彼はこういう解決方法を見出します。

 「そんな時にジェイムス・テイラーを聴いたんだ。聴きこんでゆくうちに、すごく波長があって、好きになった。考えてみると、音域とか歌いまわしとか、すごく似ているんだ。そうか、こういう歌い方があったのか、と気がついて、マネしてみた。そしたら、うまく歌えるようになった。2枚目のアルバム(風街ろまん)の直前で、やっと歌えるようになったわけ。それで、長いスランプを脱したんだ」

 (細野晴臣「レコード・プロデューサーはスーパーマンをめざす」)

 

 苦しんでやっと見つけた自分の歌唱方法に、しっくり見合うメロディが「風をあつめて」になったわけですね。

 

 「手紙」という曲と「風をあつめて」の大きな違いは、細野が歌い手としての自分の個性をつかんでいたかどうか、だったのかもしれません。

 

 そして、この曲をスタンダードにした大きな要因のひとつは、やはり「風をあつめて」という清新なフレーズでしょう。

 作詞した松本隆は「風をあつめて」という言葉についてこう語っています。

「”風に吹かれて”っていうとさ、すごく受け身になっちゃうじゃない?集めるっていうのはものすごく能動的なこと。もうこのまま空中を飛べるんじゃないかみたいな瞬間がふっとくる、とってもみんなが憧れていることじゃないかな」

 (NHK-BS『名盤ドキュメント はっぴいえんど「風街ろまん」(1971))

 

 ガツガツいくようなアグレッシヴさじゃなく、憧れるような能動というのは、ポップスというジャンルとは”相性ばっちりの理想の組み合わせ”だと僕は思います。

 

 

 (参考:「細野晴臣と彼らの時代」門間雄介)

 

 

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