まいにちポップス(My Niche Pops)

令和初日から毎日、1000日連続で1000曲(せんきょく)を選曲(せんきょく)しました。。。古今東西のポップ・ソングのエピソード、洋楽和訳、マニアックなネタ、勝手な推理、などで紹介しています。キャッチーでメロディアスなポップスは今の時代では”ニッチ”なものになってしまったのかなあとも思いますが、このブログを読んでくださる方の音楽鑑賞生活に少しでもお役に立てればと願っています。みなさんからの追加情報や曲にまつわる思い出などコメントも絶賛募集中です!text by 堀克巳(VOZ Records)

「真夜中のドア」松原みき(1979)

 おはようございます。

 今日は松原みきの「真夜中のドア」を。


松原みき 真夜中のドア STAY WITH ME

 

 ちなみに、その後リリースされたアルバム「Pocket Park」に入っているヴァージョンは、イントロのコーラスを本人が歌っていません。ちょっとしたところだと思われるかもしれないのですが、かなり印象が違うんですよね。僕は本人がコーラスをやっているヴァージョンしか(!)聴かないですw。


松原みき - 真夜中のドア ~Stay With Me (1980)

 

   昨今CITY POPに注目が集まっていますが、CITY POPやAORというものは、都会人が作って田舎者が聴いて楽しむものだ、という認識が僕にはあります。かくいう僕が新潟出身の田舎者で、都会に幻想のような憧れを持ちながら、CITY POPやAORに夢中になったからなんですが。。

 

 角松敏生はこの時代をまさに的確に言い表しています。

 「都市生活者のライフ・スタイルと、それに憧れる地方出身者の視点が混交して、7色の光を放った時期があった、ということ」

   (レコードコレクターズ増刊 シティ・ポップ 1973-2019)

 

 CITY POPの再評価に伴って監修された本や雑誌によく目を通しますが、正直言って不満に思うことが多いです。それは”都市生活者のライフ・スタイルに憧れる地方出身者の視点”が欠落していることがほとんどだからです。

 多くは、はっぴいえんどシュガーベイブのライヴを見たことがあるような”マニアックな都会人”が主導して書いている印象があります。

 

 都会への憧れや妄想があった人とない人では、CITY POP観がかなり違うと思うんですよね。

 

 1970年代後半というのは、商業文化が洗練され”都会化”されていくというのが一番の特徴だったように思います。その先頭を切っていたのが音楽でした。そしてあらゆるメディアが東京やNYやLAの”幻想”を掻き立て、煽っていったわけです。

 

 それに、無防備に感化された地方出身者の妄想がバイアスとなって、あたかも”黄金の粉”となって、その曲を一段と輝かせる、というシステムの上に成り立っていたのがCITY POPです。だいたいCITY POPというネーミング自体が、都会人にしてみたらかなり小っ恥ずかしいものでしょうから、はなから都会人のための音楽じゃないように思います。

 東京人でもCITY POPを聴く人はもちろんいたでしょうけど、僕の実感としては音楽センスにこだわる人はニューウェイヴとか、もうちょっと尖っていたり、マニアックなものを聴いていたように思います。

 演る側は東京人、聴く側は地方出身者、というのが基本的なCITY POPの図式だったと僕は解釈しています。

 

 そして、昨今沸き起こっている海外のリスナーや若者の間で起きているCITY POPの再評価の話になりますが、そういう時代背景なんてものは遥か彼方に消えてしまい、ほぼそのサウンドで評価されているわけです。

 そして、知らない時代や国の音楽として、”レトロな未来”として聴かれているわけです。

 

 そこで僕は、リアルタイムではメイン・リスナーでありながら、昨今の再評価ムーヴメントからは完全に外されることになってしまった地方出身者のひとりとして、CITY POPについて書きたいなと思ったわけです。

  

 前置きがやたら長くなりましたが、何を言いたかったというと、この「真夜中のドア」という曲は、僕にとって数あるCITY POPの中でも格別に都会への憧れをかきたてたものだった、ということです。

 

   当時はオリコン最高28位10万枚超えくらいの中ヒットだったようですが、「夜のヒットスタジオ」にも複数回出演していますし、売り上げ以上に”影響力の強かった”CITY POPだったと僕は考えます。

 

 ただ都会的過ぎて、洋楽的過ぎて、地方出身者に完全にアピールするまでには至らなかったのでしょう。「ルビーの指環」や「ドラマティック・レイン」といった地方にもアピールするような歌謡性はなかったですし。

 

 この曲の作曲、編曲は林哲司。この曲の数ヶ月前に、竹内まりやの「SEPTEMBER」

オリコン39位)の作編曲を手がけていて、まさに頭角を現してきた時期でした。

 

 しかし、「SEPTEMBER」と「真夜中のドア」では作り方は全く違ったと林は語っています。

”ポップスを歌うべくした歌声”の竹内にはいかにもシングル曲というような分かりやすい曲を、松原みきの場合は「もう本当に、洋楽を書いていいと言われて作った」そうです。

「メロディはわかりやすくて唄いやすいけれど、それを包むアレンジによって新しさを感じさせる、ということをアレンジャー時代に認識しましたが、『SEPTEMBER』はまさにその典型。もう一つの『真夜中のドア』は洋楽っぽいメロディでも日本語がはまるとまた新たな作風の日本の曲になるというロジックですよね」

                    (「昭和歌謡職業作曲家ガイド」)

 

 彼の好きなデヴィッド・フォスターへのオマージュとして書かれたそうで、アレンジはデヴィッドが手がけた、キャロル・ベイヤー・セイガーの「It's the falling in Love」

という曲を下敷きにしています。


It's The Falling In Love

 翌年にはマイケルが「オフ・ザ・ウォール」でこの曲をカバーしていますね。


Michael Jackson - It's the Falling in Love (Audio)

 

 いわゆる”元ネタ”というわけで確かにアレンジは”まんま”なところもありますが、かといってそれが「真夜中のドア」という作品の素晴らしさをなんら損ねるものじゃない、というのが僕の意見です。

 それより、こんな”モロ洋楽”な曲を、日本のメジャーな市場で勝負してそれなりに売れた時代があったことに今となっては驚かされます。

 

 松原みきは、もともと渡辺プロダクションのスター候補生だったらしく、アイドルでありながらシンガーとして打ち出すイメージでデビューした人です。

 ちょうど、竹内まりやがアイドル的に売り出されていた時期ですから、”アイドル×アーティスト”というのが当時の音楽シーンの狙い目のひとつだったのかもしれません。

 ただし、彼女は母親がジャズ・シンガーだったこともあり、すでに音楽的な素養がかなりあって決して”アイドル”の枠には収まらなかったようです。

 当時、彼女のバックでギターを弾いていた伊藤銀次はこう語っています。

 

「音源をもらって聴いたら、本当にびっくりした。「えっ、これがアイドルかよ?」って感じで、当時の最先端のウエスト・コースト・スタイルで、しかもちゃんと日本語の歌詞で。シュガー・ベイブみたいなポップスなんですよ。もうアイドルがこういう音楽をやる時代が来たのかと思って、驚いて。僕が考えていたより、ずっと早かった」

                 (伊藤銀次自伝 MY LIFE、POP LIFE)

 

 

 彼は彼女の出演する音楽番組でもバックで演奏していたそうです。

 

 「夜のヒットスタジオ」で見た彼女の姿は、いまだに強く印象に残っています。

 都会的なアイドルであり、アーティストである、こういう存在は、彼女以外結局現れなかったわけですが。


Miki Matsubara - 真夜中のドア~Stay With Me

  

 

 

popups.hatenablog.com

popups.hatenablog.com

popups.hatenablog.com

popups.hatenablog.com

popups.hatenablog.com

popups.hatenablog.com