まいにちポップス(My Niche Pops)

令和初日から毎日、1000日連続で1000曲(せんきょく)を選曲(せんきょく)しました。。。古今東西のポップ・ソングのエピソード、洋楽和訳、マニアックなネタ、勝手な推理、などで紹介しています。キャッチーでメロディアスなポップスは今の時代では”ニッチ”なものになってしまったのかなあとも思いますが、このブログを読んでくださる方の音楽鑑賞生活に少しでもお役に立てればと願っています。みなさんからの追加情報や曲にまつわる思い出などコメントも絶賛募集中です!text by 堀克巳(VOZ Records)

「青春の影」チューリップ(1974)

 おはようございます。

 今日はチューリップの「青春の影」です。

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「今日まで、四十一年間欠かさずにコンサートで歌っている曲ですが、当初はアルバムの片隅にあるような歌としてつくったんです。

 じわじわと人の心にしみて、スタンダード・ナンバーになればいいなあ。そんな思いもありましたが、まさかこんなに長く歌うことになろうとは・・・」

 (2014年5月21日付中日新聞夕刊「この道」(24))

 

「当時、TULIPにバラッド曲は歓迎されていなかったので、アルバムの片隅にあるような曲を創ったつもりだったのに。この曲でTULIPにも幅ができたのかもしれない。」

(「財津和夫ワークス」〜40周年を記念して〜」ライナーノーツ)

 

 この曲を書いた財津和夫本人もこれだけのスタンダードになるとは予想もしなかったようです。

 チューリップはバラッド曲は歓迎されていなかったというのは、2枚目のシングルだったバラッド「一人の部屋」が全く売れず、その次の「心の旅」が大ヒットして、そういう路線を求められていた、ということかもしれません。

 

 ”チューリップ”というバンド名は、ビートルズが作ったレコード会社”アップル”みたいな言葉を探していくうちに、思い当たったものだそうで、特に初期は音楽的にもひたすらビートルズみたいなものをやろうとしていたバンドだったようです。

 

 この「青春の影」も、ポール・マッカートニーのバラードのようなコード感や雰囲気がありますし、歌詞はビートルズの「The Long And Winding Road」をモチーフにしたと言われています。

 

 当時僕もラジオで耳にした記憶はありますが、決してヒットしたわけではありませんでした。

 それが時間とともに、じわじわと人気を集めていきます。

 1992年に缶コーヒーのCMで使われたり、彼らの「サボテンの花」を一躍大ヒットさせたTVドラマ「ひとつ屋根の下」「ひとつ屋根の下2」でも使われていました。

 そして21世紀に入ると、まるで堰(せき)を切ったかのように様々なCM、ドラマで使われる、スタンダード曲になっていきます。

 

 「心の旅」と「虹とスニーカーの頃」はヒット曲にするために苦労して書いたものだったようですが、「青春の影」はまったく違ったようです。

 

 それでは、もうひとつのロングセラーであった「サボテンの花」はどうだったんでしょう。

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「カントリーソング風な曲創りを試みた、チューリップの曲の中では冒険した曲だと思う」

 (「財津和夫ワークス」〜40周年を記念して〜」ライナーノーツ)

 

 また、彼は自分の曲の中には想像したものと実体験から生まれたものがあって、ヒットしたものは大抵、実体験から触発されたものだと語っていて、その例として「心の旅」と「サボテンの花」を挙げています。

  特に「サボテンの花」は実体験としてダイレクトに書いたものだったようです。一人暮らしを始めた部屋の中で着想したものなのは間違いないようですが、1994年のインタビューでは実際に付き合っていた女性が部屋を出て行った後の光景だと語り、2003年のインタビューでは一人暮らしの侘しい光景から膨らませたものだと語っています。

 

 ただし歌詞に出てくる<洗いかけの洗濯物 シャボンの泡がゆれてた>という実際の情景が、最初のきっかけだったのは間違いないようです。

 

「デビュー当時は、どちらかというと詩はどうでもよくて、ただひたすらリズムを優先して曲を作っていたのです。そのあとに、言葉がリズムに乗るようにしか作っていなかったのです」

 (「ペンとカメラのへたのよこず記」財津和夫

 そこから、詩もちゃんとしようということになり、彼の試行錯誤が続いたようですが、それでも、言葉自体ではなく、情景、映像から歌詞を作ったのは実に彼らしいことだと思います。

 

 それから、彼の場合松田聖子に提供した曲も重要ですよね。

 松田聖子が大きく飛躍した最大の貢献者はやはり松本隆だと思いますが、作曲面では財津和夫が流れを変えたように思います。彼によって、その後の大瀧詠一ユーミン細野晴臣といった面々へとつながる流れができたのじゃないでしょうか。

 また、財津の方が松本隆より先に、松田聖子に関わっているんですよね。財津作曲の「チェリーブラッサム」、「夏の扉」ときて、松本=財津による「白いパラソル」につながるわけです。

 

 ユーミンはかつて財津との対談でこんなことを言っています

「感性なんかで近いところあるかもしれませんね。ホラ、松田聖子ちゃんのに財津さんが書いた曲を聞くと、大滝(詠一)さんとかいろんな人も書いているけど、財津さん以外の人は、明らかに私とカラーが違うような気がするの」

   (「財津和夫のこころのものさし」)

 なんか、すごくわかるような気がします。二人が松田聖子に書いた曲のタッチには、近い空気感がありますね。理詰めで作っていないというか、感覚的というか。

 

 あらためて聴き直してみると、やっぱりこの曲すごいですね。「白いパラソル」。いくら時が経っても劣化せず、変わらぬ空気感を持ち続けているように思えます。

 プロデューサーの若松宗雄氏曰く、当初、地味だと関係者の評判はよくなかったそうですが、

「財津さんが「冒頭の♪お願いよ~のメロディがしっかりしているから、絶対大丈夫だよ」と」

   (GINZA COLUMN  20 Oct 2020)

 そう言ったこともあって、彼は押し切ってリリースしたそうです。

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「魔法の黄色い靴」チューリップ(1972)

 おはようございます。

 今日はチューリップの「魔法の黄色い靴」です。

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 「魔法の黄色い靴」は財津和夫率いるチューリップのデビュー・シングルでした。

僕が知ったのは発売された4、5年後だったのですが、あらためて1972年当時の曲と並べて聴いてみると、これは相当画期的な曲だっんじゃないかと思います。

 

 「謎の財津和夫」という本の中に、1972年当時の「ライト・ミュージック」という音楽誌に載っていた彼らへの論評が転載されていて

 例えば、フォークシンガーの中川五郎はこう語っています。

 

「レコードを聞いていて、思わず”バッドヒンガア”なるイギリスのグループを思い浮かべたりしてしまったチューリップというグループ。

 このバンドの詞が、とてもおもしろいのです。どういう風におもしろいかといえば、ちょっと説明しにくいのですが、メッセージ派フォーク一すじに気ばってきたぼくにしてみれば、詞を、リズムやアクセント中心に、つまり、音として捉えているチューリップの歌に、とまどってしまうのです。

 でも、そこがなんともいえずおもしろいのです」

 

 バッドフィンガーを”バッドヒンガア”と表記されているところがなかなか味わい深いですが、メッセージ・フォーク全盛の時代は、皆歌詞を先に書いてそれにメロディをつけていたのに、チューリップは詞曲一緒か、メロディが先に作られた感じがして面白いということなんですね。

 

 また、その後編曲家として一時代を築く瀬尾一三のコメントも、同じように転載されています。

 彼は「魔法の黄色い靴」の前に作られた自主制作シングル「私の小さな人生」のディレクションをしていたようです。

「その時感じたのは、ボーカルの特異性、リード・ヴォーカルの財津和夫君の、今までの日本人にはめずらしい、新しい日本語言葉の本当の意味で、新しい日本語といっていいでしょうの発声方法」

「日本語が、まるで楽器の一部のように音になって聞こえ、発声が英語的ニュアンスを持っているのです」

 

 僕が熱心に音楽を聴き始めた1970年代終わりから1980年代にかけては、ニューミュージックが流行し、それが今で言うシティポップへと音楽的な洗練が進んでいた時代で、歌詞は”意味”より”サウンド”としての意義の方が高いものでした。

 

 そういう歌詞に日本で誰よりも早くアプローチし形にしたのが、チューリップであり、財津和夫だったのかもしれません。

 

 瀬尾はまた「魔法の黄色い靴」のレコーディングを見に行って、このような感想を述べています。

「曲の展開がよりポール・マッカートニー的になった、というより、エミット・ローズ、バッド・フィンガー的になったといった方がいいかもしれません。彼らも含めて、チューリップは、小'ポール'ちゃんなのです」

 

 チューリップを単にビートルズの影響を受けたバンドと単純にくくってしまうのではなく、ポール・マッカートニーの影響を受けたバッド・フィンガー、エミット・ローズと横並びにするほうが、確かに見えてくるものは多くなる気はします。

 

 瀬尾の”小ポール”という言い方は的を得ていたようで、財津はそれから2年後のインタビューでこう答えています。

「ええ、ポールとぼくらは兄弟なんです。でもポールは兄さん」(ライト・ミュージック1974年11月)

 

  また、財津はこの「魔法の黄色い靴」についてこうコメントしています。

 

「この曲は何かが降ってきたように出来た。今でも、そうやって創ったか、はっきりしない。ただ「ジェネシス」のあのミュージックビデオを観たことにインスパイアされた様な気がしている。あのイギリス的な世界に!」

(「財津和夫ワークス」〜40周年を記念して〜」ライナーノーツ)

 

 ビートルズでもバッドフィンガーでもなくジェネシスだったんですね。どの曲かはわかりませんが、時代的にはアルバム『怪奇骨董音楽箱Nursery Cryme』(1971)の頃だったのでしょう。

 

 ただ、チューリップの瀬尾の言う”小ポール”、バッド・フィンガー的なムードは次のシングル「一人の部屋」でも強く感じられます。

 ヒットしませんでしたが、のちの「青春の影」にもつながるようないい曲だと思います。

 

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 それから、財津は歌詞の「音」についてやはりこだわりがあったようで、1979年の大ヒット「虹とスニーカーの頃」についてこう語っています。

「特に歌詞の「あ段」の連続性が気に入っているー「わ'が'ま'ま'は'」「若か'っ'た'」」

(「財津和夫ワークス」〜40周年を記念して〜」ライナーノーツ)

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 狙って「あ」の母音が続く言葉を選んでいるんですね。

考えてみると、チューリップ最大のヒット「心の旅」の冒頭も「あ'ーだ'か'ら'」と「あ」の母音の連続で始まっています。


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 日本語の歌詞において「あ」の母音の使い方ってすごく大事なんですよね。

 以前、若手の作曲家を育成する仕事を長くやっていたこともあって、興味があって調べたことがあるんですけど、大ヒットした曲の歌い出しやサビの歌い始めの母音は「あ」が圧倒的に多いんです。

いにち、まいにち」(およげ!たいやきくん)、「たしが ささげた」(女のみち)、「とえば君がいるだけで」(君がいるだけで)、「いにはあいで」(Say Yes)「てしない闇の向こうに」(Tomorrow Never Knows)、「の日あの時あの場所で」(ラブ・ストーリーは突然に)、、、といったように。

 

 「あ」って母音の中で、発声するとき一番自然に出て、力も入れやすいんですよね。ボキャブラリー自体もきっと多いんだとは思いますが。「あ」の母音で歌い始めた方が、自然でかつ強く伝わりやすいように思えます。

 「心の旅」も「虹とスニーカーの頃」も、財津はヒットを狙うために苦労して書いたと語っていますので、「あ」の母音の連続で曲を始めるというのは、ヒットさせるためのテクニックのひとつとして、使ったんだろうと想像できます。

 

「魔法の黄色い靴」が発売された1972年6月には大瀧詠一がやはりビートルズ調の「空飛ぶくじら」をリリースしています。「はっぴいえんど」では大好きなポップスをやれなかった大瀧は、1971年末にリリースした初のソロ・シングル「恋の汽車ポッポ」からポップスへのアプローチを始めていました。

 

 J-POPのルーツをまっすぐ遡っていくと、大瀧や財津がスタートを切ったこの時代に行きつくんじゃないか、というのが今のところの僕の考えではあります。

 

 最後はこの曲のライヴ動画を。お客さんがずっと一緒に歌ってます。女性人気がすごかったんですね。

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「Make-up Shadow」井上陽水(1993)

 おはようございます。

 今日は井上陽水の「Make-up Shadow」です。

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  井上陽水には名曲がたくさんあるのに、どうしてか、この曲が僕は昔から妙に好きなんですよね。

 1993年のテレビドラマ『素晴らしきかな人生』の主題歌でした。浅野温子織田裕二が出演していましたっけ。

 サブスクで彼の人気曲をチェックしてみると、「少年時代」と「夏の終わりのハーモニー」が2トップで、その次がこの曲か「夢の中へ」という感じでしたので、相当な支持されていて、なんだ、みんな好きだったんだ、と思いました。

 

 しかし、考えてみると、「夏の終わりのハーモニー」の作曲は玉置浩二、「少年時代」は平井夏美川原伸司)との共作、この「Make-up Shadow」は佐藤準ペンネームは彩目映)と、人気曲の作曲は意外にも本人以外が関わっている、という共通点があることに気づきます。

 彼のレパートリーは自身が作詞作曲の両方をやっているものが圧倒的に多いですからなおさらです。

 

 作曲の仕方について、彼は昔こう語っていました。

「おれの曲の作り方というのは、だいたい自分の声でうたいながらつくっていくんだよ。もちろんギターは弾くんだけどさ、ギターをティンティンティンと弾いて、うん、このメロディだというふうにやるんじゃなくて、ララララーとうたいながら声でメロディをさがしていく。それで、これこれ、この感じだよというふうに決めていくわけ。それからそのメロディに合わせて歌詞をつける。最初からずっとそのやり方だね」

 (「満月 空に満月」海老沢泰久

 

 単純に旋律を探すというよりも、歌メロを探す、に近いんですね。彼のほどの魅惑的な声の持ち主であれば、深く納得できるところでもあります。

 

 たとえば「少年時代」は、陽水が自分でギターを弾くのじゃなく、川原の弾くピアノに合わせて歌いながら出て来たメロディをもとに、二人で15分ほどで作り上げたといいます。

 

 かなり感覚的に自分の歌声から曲を作るわけですから、調子の波もあってなかなか曲ができない時期もあったようで、特に「いっそセレナーデ」の少し前は大スランプで、知人からビーイング長戸大幸を紹介されて作曲してもらったのが、「悲しき恋人」というシングルだったという話も以前のこのブログでご紹介しました。

 

 この「Make-up Shadow」のときもスランプだったかどうかはわかりませんが、作曲した佐藤準はこう回想しています(佐藤準は前年に陽水のセルフ・カバー・アルバム「ガイドのいない夜」にアレンジャーとして参加していました)。

 

「あれはね、実はある女性アーティストに書いた曲だったんですよ。で、その曲をレコーディングしてる時に、ひょいと井上陽水さんが突然現れて、「この曲ちょうだい」って(笑)。」

「『キーもそのままでいい』って言うんだよね。もともと女性用に書いた曲だから、男性が歌うにはキーが低いんだけど、オケも録ってあったものをそのまま使って。それで陽水さんが歌ったのを聴いた時にすごくハマっててびっくりしました。あの曲はそもそもボツ曲候補でしたから、陽水さんが拾ってくれなかったら、この世に出ていなかったかもしれなくて。そういう偶然ってこういう仕事してる人はみんな、何かしら経験しているんじゃないですか?」

(「ニッポンの編曲家 歌謡曲/ニューミュージック時代を支えたアレンジャーたち」)

 

 陽水本人がその場で聴いて、これは自分にぴったりだと判断を下したわけですね。

彼は”歌手井上陽水”を客観的にプロデュースする感覚があったのかもしれませんね。

 ちなみにこの曲の次のシングルは筒美京平作曲の「カナディアン・アコーディオン」(佐藤準 編曲)でした。

 

 「Make-up Shadow」を陽水らしくしているのは、歌声だけじゃなく、彼独特の謎めいて意味不明(?)なのに、妙に心惹かれてしまう歌詞も大きなポイントでしょう。

 

 

 ビートルズに大きな影響を受けた彼は、当初の意識はあくまでもメロディ優先で、歌詞について自分のスタイルを見つけたのは後になってからで、ボブ・ディランの「女の如く(Just Like a Woman)」を聴いた時のことだったそうです。

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 Nobody feels any pain "だれも苦しみを感じない”というわけの分からない、でもインパクトのあることを言って、最後の四行で言いたいことを言うと、それが映える。逆に最初が説明っぽくなるとつまらなくなる、ということに気づいたといいます。

 

 もうひとつ、韻を踏む効果にも彼は気づきます。

「日本語で韻を踏むというのは、言葉の性質上むずかしいんだけどさ。でも、韻を踏もうとすると韻の方が優先して、かえって詞が面白いことになるんだよ。ストーリーより、Takes,makes,aches,breaksなんてことばっかり考えているわけだからさ、それに引きずられて言葉がどんどんあっちに行ったりこっちに行ったりして、全体がとんでもない流れになる。つまり、ストーリーに忠実にしたがってると想像の域を出ないけど、韻を優先すると想像の域を出ちゃうわけよ。どうしてこんなとこでそんなことをいうわけ?というような言葉が出てくる。それが面白いわけよ

 それに気づいてから、おれはそんなことばっかりしてる。だから逆引き辞典なんかよく使うよ。どうしてもこういう響きの言葉を使いたいところが出てくると、逆引き辞典で調べて、こんな言葉しかないのかと思っても、まあいいかとそれを使っちゃう。そこらへんが、おれの歌がどうしてそんなへんな言葉が出てくるのといわれるところなんだけどね」

 (「満月 空に満月」海老沢泰久

 

 僕は海外のソングライターたちが曲を作る現場を何度も見たことがあります。たいていはダンス・ミュージックで、トラックを作る人と歌いながらメロディと歌詞を考える人という分業になるわけですが、メロディと歌詞を考える人のうち実に多くの割合で、インターネットで”同じ韻の言葉”を検索できるサイトを使っていました。欧米のポップ・ミュージックでは韻を踏むことは常識というか<大前提>なんですね。歌詞の辻褄(つじつま)よりも、メロディ、リズムとのマッチングという音楽的な要素を欧米では最優先するわけです。

 

 それに比べて、日本語の場合は、曲の中に入れられる語数が少なく、発語が明快なので、韻を優先すると、妙にそこだけが目立っちゃうという特性があります。

 ただ、確かに彼のように、韻は踏んでいても歌詞の内容と関係のない言葉をあえていれると、その面白さ、不思議さの方に聴く方はつられてしまう、という新たな効果が生まれるわけですね。しかし、それにはかなりのセンスがなければ、ただのデタラメになってしまうはずなので、そこが彼の凄いところでもあるのでしょう。

 まあ、あれだけの歌声で歌われるとどんな歌詞でも説得力を持って聴こえてしまいますが、、、。

 

 最後に彼の曲をもう一つ、「いっそセレナーデ」を。これもやっぱり名曲ですね。

レコーディングで彼が何度も歌った中で、出だしの”あまい口づけ〜”が抜群によかったテイクがあったそうで、そこだけはそのテイクを使っているそうです。確かに、歌い出しでこれほどつかまれる曲はなかなかないですよね。

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GOLDEN BEST

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「ROSÉCOLOR」中山美穂(1989)

 おはようございます。

 今日は中山美穂の「ROSÉCOLOR(ロゼカラー)」です。

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 1980年代中頃から1990年代前半にかけての中山美穂の楽曲は魅力的なものが多かったと記憶しています。

 筒美京平小室哲哉大村雅朗船山基紀といった人たちとのポップなユーロビート路線の後を継いだ角松敏生は最初の「CATCH ME」でこそユーロ・ビートでしたが、その次の「YOU'RE MY ONLY SHININ' STAR」ではメロウなR&Bへとチェンジしました。

 

 彼女やWinkの和製ユーロビートは、なぜか今のシティポップ・ブームの中心人物の一人、韓国のNight Tempoがリミックスして人気が再燃していますが、本来の意味でのシティポップと共鳴しているのは「YOU'RE MY ONLY SHININ' STAR」以降の曲じゃないかと僕は思っています。

 

 そして、僕が注目したいのが、角松の後を継いだCindy(シンディ)という女性シンガー・ソングライター

 彼女は作詞の康珍化と組んで1988年に「人魚姫 mermaid」、「Witches」と2枚のシングルを手がけます。

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 当時、大ブレイクしていたジャム&ルイスなどに代表される”打ち込みR&B”、”デジタル・ファンク”をとり入れています。

 「人魚姫 mermaid」のアレンジを手がけたのは、ROD ANTOON。

 彼は同じ1988年にリリースされた久保田利伸の傑作アルバム「Such A Funky Thang!」を久保田本人と共同でプロデュースし、全曲でキーボードとドラムの打ち込みをやっているキーパーソンです。

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 彼はキャメオやレイクサイドといったファンク・グループのアルバムにプレイヤーとして参加していた人で、どういう経緯で日本に来たのかは不明ですが、その後、シング・ライク・トーキングのプロデュースも手がけていますので、J-R&Bの礎を作った重要人物の一人であるのは間違いないでしょう。

 

 「Witches」のアレンジは鳥山雄司。日本屈指のスーパー・ギタリストの一人で、昨今はシティポップ・ブームで彼のカッティングが注目されています。アレンジャーとしても松田聖子シャ乱Qから最近では上白石萌音なども手がけていますが、僕は1980年代後半から90年代前半の日本の”打ち込みR&B”のパイオニアの一人としても注目しています。

  同じ1988年に彼がアレンジした曲で、僕がものすごく好きなものがありますのでぜひ聴いてみてください。

 

  MINNIE 「LIKE A RAINBOW」。シティポップ・ブームでちゃんと再評価されるべき曲だと僕は思います。

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 そして、「Witches」に続いて、作詞:康珍化、作曲:Cindy、編曲:鳥山雄司で作られたのがこの「ROSÉCOLOR」でした。

 中山美穂の人気の絶頂期で、化粧品のCMソングとはいえ、こんなにメロウな曲がオリコン1位になるとは、と僕は正直驚きました。

 

 作曲したCindyは本名を山本真祐美といって、シンガーとして1984年にシングル「Chance On Love」でデビュー。TVアニメ「うる星やつら」の主題歌でした。スティーヴィー・ワンダーに師事したというプロフィールが、当時の”売り文句”だったようです。

 それと同時にコーラスの仕事も始め、佐藤博鳥山雄司松任谷由実「Da・Di・Da」、アン・ルイス、秋元薫、崎谷健次郎安藤まさひろ櫻井哲夫といったアーティストの作品に参加しています。

 また、1986年から1989年まで山下達郎のコンサートツアーやレコーディングでもコーラスをつとめ、「On The Street Corner2」やライヴ・アルバム「JOY」のクレジットに彼女の名前を見つけることができます。

 

 1986年には初のソロ・アルバム「Love Life」をリリース。スティーヴィー・ワンダーがアレンジ、プロデュースで2曲参加し、そのうち1曲は曲も書いていました。

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 そして、少しブランクが空いて1990年にセカンド・アルバム『ANGEL TOUCH』、1991年にサード『Don't Be Afraid』をリリース、この2枚が昨今再評価されています。

「ANGEL TOUCH」は鳥山、ROD ANTOONに加え、”東北新幹線”の鳴海寛がアレンジャーをつとめ、山下達郎もコーラスとギターで参加しています。

 特に鳴海がアレンジした「私達を信じていて」はシティ・ポップ・ブームで特に海外から大人気の曲になっていて、YouTubeでは500万回近く再生されていたり、アニメの映像と合わせたFuture Funk的な動画もたくさん見受けられます。

 その反響もあって、日本でもシティポップ・コンピレーションの定番になりつつあります。

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 彼女の作曲やボーカルのセンスは、尾崎亜美から連なる、そして具島直子に繋がるようなピュアなメロウネスをすごく感じます。

 そして、当時の最新のR&Bサウンドに取り組んだパイオニアとしても貴重な存在でした。

 彼女は残念なことに2001年に癌で亡くなってしまったとのことですが、もっともっと再評価されるべき人だと僕は思っています。

 

 サード・アルバム『Don't Be Afraid』には、鳥山、鳴海に加え、当時のアーバンR&Bの歌姫ミキ・ハワードの作品で知られるLemel HumesやJim Calabreseがアレンジをつとめています。僕は当時、アニタ・ベイカー、レジーナ・ベルミキ・ハワードなど好んで聴いていたのですが『Don't Be Afraid』は知りませんでした。

 それが不覚に思えるほどの出来の作品で、その中には「ROSÉCOLOR」のセルフ・カバー(アレンジは鳴海)も入っていますので、最後にそれをぜひ聴いてください。

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「いつまでも変わらぬ愛を」織田哲郎(1992)

 おはようございます。

 今日は織田哲郎の「いつまでも変わらぬ愛を」です。

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 ネットをチェックしていく中で、”ビーイングは日本のモータウンで、ベリー・ゴーディ長戸大幸スモーキー・ロビンソン織田哲郎”だと評していた人がいたようで、なるほど、と思いました。

 確かにベリー・ゴーディも初期は曲を書いていたしな、などと思いつつも、長戸大幸は作編曲の仕事をたくさん手がけていて、音楽の作り手としての素養はゴーディよりもはるかにあったでしょうから、正確には、ベリー・ゴーディ=長戸、スモーキー・ロビンソン=長戸&織田、ホランド=ドジャー=ホランド=織田、じゃないか、と僕は思ったのですが、そんなことはどうでもいいですかね(苦笑。

 

 ともかく、織田哲郎は日本の音楽史上、筒美京平小室哲哉の次にセールスをあげている作曲家ですから、少し踏み込んで調べてみたいなと思いました。

 

 

   1978年、長戸発案の覆面ディスコ・バンド、スピニッヂ・パワーのボーカリストもやっていた織田は、長戸の実弟である長戸秀介、ギターの北島健二の3人で”WHY”というバンドでデビューを果たします。

 

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 ちなみに、長門と織田が出会ったのは、北島健二を通してだったようで、北島が舘ひろしのバックでギターを弾いていて、当時舘の曲を書いていた長門と知り合い、織田と引き合わせたのだそうです。

 

  WHYはシングル2枚、アルバム1枚だけを残して解散しますが、その後彼は、1980年に”織田哲郎 & 9th IMAGE”を結成します。

 メンバーは、北島健二のほか、のちに浜省のバンドのサックス奏者になる古村敏比古やのちにBOØWYのベースになる松井常松、のちにバービー・ボーイズのドラマーになる小沼俊昭といった面々が揃っていました。

 

 ”織田哲郎 & 9th IMAGE”は、実は、佐野元春浜田省吾とほぼ同じ時期に、ブルース・スプリングスティーンっぽいスタイルを取り入れていたバンドなんですね。こういうスタイルは、1980年代半ばに尾崎豊中村あゆみなどによって大ブームになりましたが、そのパイオニアの一人が実は織田哲郎だったのです。

 

 今もCDも配信もされていない「色あせた街」。同時代の佐野元春「アンジェリーナ」や浜省「終わりなき疾走」よりもスプリングスティーンに近いアプローチをしていると思います。

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 しかし、このバンドもうまくいかず程なくして解散してしまいます。

 

 そして2年ほど低迷期と呼べるような時期を過ごした後、1983年にソロデビューし、以降、1990年代前半までコンスタントにソロ作品をリリースしていきます。

 

 そして、1985年のTUBEの「シーズン・イン・ザ・サン」の大ヒット以降、彼は作家として売れっ子になっていきます。

 他のアーティストの曲に数多くの曲を提供しながら、自身の作品も精力的に作っていきましたが、ソロ作品の方はなかなかヒットに恵まれませんでした。

 

 当時はTVやラジオのレギュラーもやっていたそうで、そんな超多忙な日々の中で燃え尽きたのか、彼は一度音楽を辞める決意をし、実際一年近く仕事をしない時期があったそうです。そのあと、長戸から来たのが「おどるポンポコリン」でした。

 

「B.B.クィーンズのプロデュースやアイディア、戦略はすべて大幸さんが考えたものです。その大幸さんから依頼があって「ちびまる子ちゃん」用に当初2曲作っているんです。『おどるポンポコリン』と『ゆめいっぱい』という2曲を番組のオープニング用とエンディング用とセットで作曲・編曲し、オケの制作も担当することになりました。両極端な曲想だったけど、どちらもオケが出来上がるまでそれほど時間も掛からなかったし、楽しんであっという間に出来ました。」

 (アスペクト 織田哲郎ロングインタビュー 2007.8.29)

 

 そして、それをきかっけに音楽に再び真剣に取り組むなかで生み出されたのが、彼のソロ・アーティストとしての初の大ヒット曲である「いつでも変わらぬ愛を」でした。

 

「音楽によって救われる人が世の中にいて、自分の作る音楽が人の悲しみを癒したり、誰かの心を励ましたり、苦しみをやわらげることに少しでも繋がるのであれば、それはとても意味のあることだし、もしそれが俺に出来るのであれば、音楽は作り続けるべきだと考えた。だからこの曲は「これからもう一度しっかりと音楽を届け続けます」という決意表明みたいなものです」

 (アスペクト 織田哲郎ロングインタビュー 2007.8.29)

 

 その翌年、彼が作曲したZARD「負けないで」揺れる想い」、中山美穂WANDS世界中の誰よりきっと」、DEENの「このまま君だけを奪い去りたい」といった、曲名をサビで印象強く伝えるという”ビーイング・スタイル”の先駆けになった曲だったことに気づきます。

 

 そして、オープニングのサックスに、彼がデビュー当初に打ち出したスプリングスティーン・スタイルへのオマージュを少し感じてしまいます。

 

 さて、織田哲郎はネット・インタビューが割と多くあって、彼のベースとなった音楽についても興味深い発言がいくつかありました。

 

「一番聴いたのはサイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」(1970年)というアルバムで、どの部分でどの楽器が出てくるということまで、記憶しています。結局それがアレンジ能力に繋がってくるわけです。こういうところでこういう音がこうやって出てくると、興奮するよねって、何百回何千回聴いてるものが実体験として、脳に叩き込まれている。そうやって同じものを聴き続けるってこと、例えば野球でいう、素振りとか基本のフォームを作るというような部分は、やっぱり重要だと思います」

             (SPICE インタビュー 2019.10.11)

 

「実は小学生の頃から自殺願望があったんですよ。高知の寮で、いよいよ本当に自殺を決行しよう、と思って刃物とラジカセを持って屋上に上がった。好きな音楽聴きながら死のうと思って。その時選んだのはの「Your Song」や「ロケットマン」という曲が入ったベストアルバムのようなカセットテープだった。そのギリギリの精神状態のなかで聴いたエルトン・ジョン、これがその後の俺を変えた…。その時音楽が全部光に変換されて、俺の頭の中をものすごい勢いで洗い流していったんです。涙が止まらなくなった」

 

 (アスペクト 織田哲郎ロングインタビュー 2007.5.30)

 

 「明日に架ける橋」、エルトン・ジョンのベスト。音楽的なクオリティと大衆性の両方の意味で最高峰の作品ですね。ポップスのソング・ライターの糧としては究極のものでしょう。それが、強く刻まれているわけですね。

 

 織田哲郎は”王道”、いたって”正統派”のソングライターなんでしょう。そして、捻りや屈折があまり感じられないから、ポップス・マニアの話題にはあまり上がらないのかな、とも思います。

 

 しかし、洋楽のポップスを、日本語の発音や語感にぴったりなフォームにしっかり変換させた才能はもっと評価されてもいいなと思います。それには、相当”音楽的な体力”が必要なことなのだと思うんです。

 

 彼の曲からは、”簡潔な言い回しの文章を、太字の読みやすいフォントですっきりしたレイアウトで送られてくるメール”のようなを印象を受けます。

 ただ、普通、それを音楽でやると、並みの才能では、ただただ淡白で凡庸なものになりかねないような気がします。

 音楽の普遍性にふれるような優れた質のインプットと、様々な試行錯誤をして鍛えられたアウトプットの技術の両面がないと難しいんじゃないかと思います。

 

 でも当時、僕は正直、ビーイングのポップスを”誰でも作れそうなものじゃん”となめていたところがあったんですね。

 

 今は、シンプルでわかりやすく、かつ大衆にちゃんとウケるもの、というものこそ難しい、ちょっとやそっとじゃ作れるものじゃない、ことがよくわかります。

 

 そこには、日本語のポップスというものの本質を突いたものもあるような気がします。

 誰でも歌いやすい、というビーイングのスタイルは、当時のカラオケ・ブームとの相性がバッチリだったわけですが、それも当然計算していたのでしょう。

 

 

 詞曲の才能だけでなく、声量のある個性的な歌声も持ち、ルックスも決して悪くない彼が、アーティストでなく、作曲家で成功したのは、彼のキャラクター、気質によるものだったのかもしれません。

「俺は、昔からクラスの人気者になるよりも、職人的にコツコツとモノつくりすることが好きだったんだと思います。高校時代にバンドを組んだときもボーカルには興味がなくて、ギターを弾いて曲作りに専念したいと考えていました。俺にとって、人に曲を提供するのは単純に楽しめる仕事なんですよ。ターゲットを想定しながら作っていく過程は、ゲームみたいな要素もありますから。単にヒットするだけじゃなく、歌手やアーティストの存在を大きくする作品を書くことが理想ですね」

(「J・POP名曲事典300曲」富澤一誠

 

 最後は、彼の作品からZARD「負けないで」を。

 ちなみに、ZARD長戸大幸が買ったベンツのランプに書いてあった「HAZARD」の文字がかっいいと思ったのがきっかけでつけられたものなのだそうです。

 曲はもともと織田が自分用に書いたもので、そのサビに「負けないで」というフレーズをZARD坂井泉水)本人が見事にはめたことで、この曲がヒットしたのだと織田は語っています。

 ちなみに、当時ビーイングの方針で、作曲家はアーティストに直接会えなかったようで、織田はZARDに多くの曲を書きながらも本人には2度しか会ったことがなかったそうで、それにはちょっと驚かされます。

 

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「いつまでも変わらぬ愛を」の楽譜はこちら

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「シーズン・イン・ザ・サン」TUBE(1986)

 おはようございます。

 どんどん冬に向かっているこの時期に、季節外れですみません!今日はTUBEの「シーズン・イン・ザ・サン」です。

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 日本のポップス史を語るのに、やっぱりビーイングは避けて通れないですよね。しかし、その総師である長戸大幸に関する情報は本当に少ないです。まだ地味な街だった代官山の不動産をたくさん持って、彼がおしゃれな街に開発していったなんていう話も聞いたこともあります。一体何者なんでしょうね?

 

 1980年代を代表する作詞家の売野雅勇の自伝「砂の果実」に興味深いエピソードがあります。

 チェッカーズの「涙のリクエスト」がTV「ザ・ベストテン」で1位になると同時くらいに、長戸から売野に取材してほしい電話がかかってきて、ホテルで「涙のリクエスト」の歌詞が作られたプロセスを細かく訊かれ、撮影までされたというのです。

 そして、別れ際に長門は売野に

「ぼくは、誰よりも、この歌を知っているんだよ。作者よりもね」

           (売野雅勇「砂の果実)

 と言ったそうですから、その自信ちょっと怖いくらいですね。でもそう言い切れるくらいに、徹底的に分析したのでしょう。

 

 その取材の用途はなんだったのかは「砂の果実」には書いてありませんでしたが、映像は記録用だと長門は語っていたそうなので、たぶんヒット曲の取材動画を自身でアーカイヴしていたんじゃないかと僕は想像しました。

 

 売野は、チェッカーズを「一番冷静に、分析的に、そして貪欲に、観察していた”のは長戸だったと言っています。

 「いまから振り返ってみると、長戸さんは、必死で第二の、第三のチェッカーズを作ろうと、研究を続けていたのではないかと思う」

 

 チェッカーズに限らず、彼は、日本で一番ヒット曲を研究し分析していた人だったんじゃないか、と思います。そして、そうやって蓄積させた”ヒットのセオリー”を体系化して一気に実践していったのがビーイングだった、ぼくはそう捉えています。

 

 さて「昭和歌謡職業作家ガイド」という本に、彼の簡単なプロフィールが紹介されていました。

  彼のキャリアのスタートはアーティストで、1972年に「赤と黒」という3人組フォーク・グループのボーカル、ソングライターとしてデビューしています。

 発売したのはブラック・レコードといって、いずみたくがオーガナイズし、アートワークは全て和田誠が手がけるという、かなりコンセプチュアルなレーベルだったようです。長戸は”ゴロー&長戸大幸”というユニット名でもリリースしていたようで、赤と黒とともに曲はサブスクで聴くことができます。

 

 その後彼は音楽をやめ京都でブティックをやっていたそうですが、吉田拓郎の「こうきしん'73」という曲に衝撃を受け、全てを捨てて東京に向かったそうです。

 

  吉田拓郎に会いたくて、彼が起こしたフォーライフ・レコードの第一回新人オーディションに、拓郎の物真似の曲で応募したところ、面白がられて最終に残り、いきなりリリースが決まったが直前で取りやめたことがあったとのちに彼は語っています。(それから、少しして、デビューしたのが原田真二でした)

 

 しかし、それがどんなものだったのかはわかりませんが、”物真似”でオーディションで勝つというのは、並大抵のものじゃないですね。誰よりも”吉田拓郎”の本質を分析しつかんでいたはずです。すでに、ここで彼の特質が発揮されていたということじゃないでしょうか。

 

 そして、彼はその頃から作曲家へシフトし、最初期の作品と言われているのが、関西の名ドラマー、井上茂率いるフュージョン・バンド”シーチャン・ブラザーズ”の「愛の翼」と「ソニック・ブーム」。インストなんですね。「世界の空軍」という映画のために書かれたもののようです。

 「ソニック・ブーム」のイントロがボズ・スキャッグス「ロウ・ダウン」タッチなのに、ニヤッとしてしまいます。

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 これとだいたい同じ時期に舘ひろしに「朝まで踊ろう」という曲を書いています。

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 1980年に長戸が作曲してヒットした三原順子「セクシー・ナイト」は女性版「朝まで踊ろう」とも呼べるもので、舘ひろし三原じゅん子、その後手がけた沖田浩之も含めて、”不良歌謡ロック”ともいうべきスタイルが彼の初期の十八番のひとつだったようです。

 この流れは1990年代に、相川七瀬によってアップデートされることになります。

 

 もう一つ、彼の初期の音楽の柱となったのがディスコでした。

スピニッヂ・パワー”という国籍不明の匿名ディスコ・グループを組み、漫画「ポパイ」のテーマソングをディスコ・アレンジした「ポパイ・ザ・セーラーマン」がオリコン21位のヒットになります。

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 スピニッヂ・パワーはその後、織田哲郎が2代目ボーカル兼ソングライターとして参加、7枚目になる最後のシングル「HOT SUMMER RAIN」ではBOØWY結成前の氷室京介がボーカルを務め、サウンドもディスコじゃなく歌謡ロックのスタイルになっています。

 それから、彼はダニー・ロングというペンネームでも活動し、1981年にはこの曲がテレビで話題になりました。

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  1984年には、当時全く曲が書けなくなった井上陽水が、知人を介して紹介してもらったのが長戸で、彼に書いてもらったのが「悲しき恋人」という曲でした。長戸は”パインジュースの缶”というペンネームになっています。

 陽水っぽさと、売れ線の歌謡感のバランスが絶妙にとれていて、分析、研究から曲を生み出す長戸の才能がはっきりと現れている曲です。

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 そして、1985年に長戸が世に送り出したのがTUBEでした。

 ここで僕は気づきました。売野が推測していた、長戸が作ろうとしていた”第二の、第三のチェッカーズ”とはTUBEだったのか、と。

 当時僕は、いや僕に限らず世間も大半はきっと、当初TUBEを、”サザンの二番煎じ”(すみません!)としてとらえていたんじゃないかと思いますが、そうじゃなくて、彼らの本質は”ポスト・チェッカーズ”というべきボーイ・バンドで、チェッカーズとの違いを出すために”夏”のイメージを打ち出したんじゃないでしょうか。

 確かにTUBEの最初の2枚のシングル「ベストセラー・サマー」と「センチメンタルに首ったけ」は”オールディーズ歌謡”という雰囲気で、チェッカーズとの共通点も感じます。

 しかし、その印象をガラッと変えたのが次の「シーズン・イン・ザ・サン」でした。

 

 このときにビールのCMのタイアップが決まっていて、すでに撮影された映像に合わせて曲を作ることになっていたそうです。

 長戸が作曲を依頼したのは、織田哲郎でした。

 当時のディレクターはこう回想しています。

「長戸さんと織田さんのすごいところは、映像からイメージされる曲を考えるのではなく、映像に出てくる女性の動きに合わせた曲にしようと考え、彼女の口の動きからテンポを割り出したことです。テンポとリズム感がどうも16ビートのようだから、それで曲を作っていこうということになりました」

          (「J・POP名曲事典300曲」富澤一誠

 

 また長戸本人はこう語っています。

「同じ音楽もやっぱり「頭上がりサビ下がり」「頭上がりサビ上がり」「頭下がりサビ下がり」とか、だいたい5年に1回、変わるんですよ。例えば、「あー、わたしの恋は~♪」って上がりメロディでヒットしていた松田聖子が2年半後くらいには、「風立ちぬ~、今はもう秋♪」って下がるんですよね。大半の人は、上がり流行りをそのままやっているんで、2年半後には落ちるんです」

 

「TUBEを作った時、チェッカーズの「涙のリクエスト~、最後のリクエスト~♪」ってだんだん上がっていっていたのに合わせて「ベストセラー・サマー」ってやったんだけど、ちょっと遅かった。それで「よし、下がりメロディだ」っていうことで、織田哲郎と作ったのが「ストップ・ザ・シーズン・イン・ザ・サ~ン、心潤してくれ~♪」

(フェイス25周年記念webサイトスペシャル対談企画 長戸大幸×平澤創)

 

 TUBEのデビューは、やっぱりチェッカーズを参考にしていたんですね。そして、リズムもメロディもかなり考えられて作られていたのです。

 

 この曲はTUBEの大ヒット曲だけじゃなく、90年代のビーイング・ブームの立役者、織田哲郎にとっても初めてのヒットでもありました。

 

 シンガーとして声量のある織田が作ったダイナミックなメロディと、やはり声量のある前田の歌声がすごくマッチしていたというのも、この曲を聴いて僕が感じるところです。

 

 最後は織田哲郎自身のボーカルで。渚のオールスターズ1988年リリースの『Nagisa no Cassette VOL.2』に収録されていました。

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「愛しのロージー」松尾清憲(1984)

 おはようございます。

 今日は、”日本製のUKポップ(変な言い方ですが)の金字塔”、松尾清憲の「愛しのロージー」です。

 

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 かなり久しぶりに聴きましたが、あ〜ポップスっていいなあって、気分が上がりました。それにしても、この曲の作詞は秋元康だったんですね。。

 さて、松尾清憲はロイ・ウッドとかデヴィッド・ペイトン(パイロット)などのUKポップスの鬼才たちと同様の”匂い”のする貴重な日本人だと僕は思っています。

 

 ただ、彼の活動は実に多岐にわたっていて、全貌がつかみづらいように思えます。なので、今日は駆け足で、ほんとにざっくりとですが、彼の足跡を追ってみたいと思います。

 

 彼のデビューは1980年。シネマというバンドで、ムーン・ライダーズの鈴木慶一のプロデュースでアルバム「MOTION PICTURE」(1981)を一枚リリースしています。こんな感じの曲をやっていました。


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シネマは1981年に解散してしまい、バンドのドラマーだった鈴木さえ子鈴木慶一のプロデュースで1983年に一足早くソロデビューしています。

 そして、その翌年松尾はこの「愛しのロージー」でソロ・デビューを果たしますが、プロデュースはムーンライダーズ白井良明が担当しています。

 

「人柄や相性というのもあるのでしょうが、慶一さんの次に親しくなったのが白井さんでした。ギタリストとしての観点からもすごいミュージシャンだなと思っていたので、白井さんが僕のソロのプロデューサーという話は、ある意味、自然な流れでもありましたね」

 (「ニュー・ベスト・オブ・松尾清憲:甘くてほろ苦い音楽生活のすべて」)

 

 これが「愛しのロージー」の場合は特に功を奏しているように思えます。なにより、クイーンのブライアン・メイを楽しく模したようなギターが実に効いていますからね。

 

 「愛しのロージー」に飛びついた僕は、その後、セカンド・アルバム、サード・アルバムとUKポップス色が褪せていったので、個人的には正直テンションが下がっていったのをおぼえています(勝手な反応なんですが、、)。

 とはいえ、彼のキャッチーなメロディーを描く才能は衰え知らずで、サードアルバム「NO THANK YOU」からは「サニー・シャイニー・モーニング」がTVアニメ「めぞん一刻」の主題歌として人気になりました。

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 その後、彼はソロ活動を中断し、バンドを結成します。

 もう一人のポップス職人、杉真理と意気投合して結成した”BOX”はかなりダイレクトにビートルズへのオマージュを表現したグループですが、二人の組み合わせはレノン(松尾)=マッカートニー(杉)という佇まいでしたが、僕はロイ・ウッド=ジェフ・リンの組み合わせに近い感じをうけました。

 

「Temptation Girl」(1988)

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 そして、1999年には松尾、杉の他に、チューリップのドラマー、上田雅利や、ポール・マッカートニー”直系”のシンガー・ソングライター、伊豆田洋之などが加わり、ピカデリー・サーカスを結成しています。

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  2000年以降はソロ活動を再開、それに加えてシネマの再結成、BOXのサード・アルバムなど精力的にリリースを行なっています。

 

 また職業作家としても長く活動し、実にたくさんの曲を提供しています。作曲家としては鈴木雅之の「恋人」が有名ですね。

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 でも実は僕は彼の書く歌詞が好きでした。彼の歌詞に目をつけて発注した甲斐よしひろは素晴らしいと思います。

 甲斐バンド「レイニー・ドライヴ」

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 最後は「愛しのロージー」のカバーを。元AKB48のオープニング・メンバーでその後ソロ活動をはじめ、シティ・ポップなどにもアプローチし、ポップ・マニアにアピールしてきた星野みちる。2015年に松尾清憲とコラボ・シングルをリリースしていて、そのB面に収録されていました。

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