まいにちポップス(My Niche Pops)

令和初日から毎日、1000日連続で1000曲(せんきょく)を選曲(せんきょく)しました。。。(現在は不定期で更新中)古今東西のポップ・ソングのエピソード、和訳、マニアックなネタ、勝手な推理、などで紹介しています。キャッチーでメロディアスなポップスは今の時代では”ニッチ(NIche)”なものになってしまったのかもしれませんが、みなさんの毎日の音楽鑑賞生活に少しでもお役に立てればうれしいです。みなさんからの追加情報や曲にまつわる思い出なども絶賛募集中です!text by 堀克巳(VOZ Records)

「魔法の黄色い靴」チューリップ(1972)

 おはようございます。

 今日はチューリップの「魔法の黄色い靴」です。

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 「魔法の黄色い靴」は財津和夫率いるチューリップのデビュー・シングルでした。

僕が知ったのは発売された4、5年後だったのですが、あらためて1972年当時の曲と並べて聴いてみると、これは相当画期的な曲だっんじゃないかと思います。

 

 「謎の財津和夫」という本の中に、1972年当時の「ライト・ミュージック」という音楽誌に載っていた彼らへの論評が転載されていて

 例えば、フォークシンガーの中川五郎はこう語っています。

 

「レコードを聞いていて、思わず”バッドヒンガア”なるイギリスのグループを思い浮かべたりしてしまったチューリップというグループ。

 このバンドの詞が、とてもおもしろいのです。どういう風におもしろいかといえば、ちょっと説明しにくいのですが、メッセージ派フォーク一すじに気ばってきたぼくにしてみれば、詞を、リズムやアクセント中心に、つまり、音として捉えているチューリップの歌に、とまどってしまうのです。

 でも、そこがなんともいえずおもしろいのです」

 

 バッドフィンガーを”バッドヒンガア”と表記されているところがなかなか味わい深いですが、メッセージ・フォーク全盛の時代は、皆歌詞を先に書いてそれにメロディをつけていたのに、チューリップは詞曲一緒か、メロディが先に作られた感じがして面白いということなんですね。

 

 また、その後編曲家として一時代を築く瀬尾一三のコメントも、同じように転載されています。

 彼は「魔法の黄色い靴」の前に作られた自主制作シングル「私の小さな人生」のディレクションをしていたようです。

「その時感じたのは、ボーカルの特異性、リード・ヴォーカルの財津和夫君の、今までの日本人にはめずらしい、新しい日本語言葉の本当の意味で、新しい日本語といっていいでしょうの発声方法」

「日本語が、まるで楽器の一部のように音になって聞こえ、発声が英語的ニュアンスを持っているのです」

 

 僕が熱心に音楽を聴き始めた1970年代終わりから1980年代にかけては、ニューミュージックが流行し、それが今で言うシティポップへと音楽的な洗練が進んでいた時代で、歌詞は”意味”より”サウンド”としての意義の方が高いものでした。

 

 そういう歌詞に日本で誰よりも早くアプローチし形にしたのが、チューリップであり、財津和夫だったのかもしれません。

 

 瀬尾はまた「魔法の黄色い靴」のレコーディングを見に行って、このような感想を述べています。

「曲の展開がよりポール・マッカートニー的になった、というより、エミット・ローズ、バッド・フィンガー的になったといった方がいいかもしれません。彼らも含めて、チューリップは、小'ポール'ちゃんなのです」

 

 チューリップを単にビートルズの影響を受けたバンドと単純にくくってしまうのではなく、ポール・マッカートニーの影響を受けたバッド・フィンガー、エミット・ローズと横並びにするほうが、確かに見えてくるものは多くなる気はします。

 

 瀬尾の”小ポール”という言い方は的を得ていたようで、財津はそれから2年後のインタビューでこう答えています。

「ええ、ポールとぼくらは兄弟なんです。でもポールは兄さん」(ライト・ミュージック1974年11月)

 

  また、財津はこの「魔法の黄色い靴」についてこうコメントしています。

 

「この曲は何かが降ってきたように出来た。今でも、そうやって創ったか、はっきりしない。ただ「ジェネシス」のあのミュージックビデオを観たことにインスパイアされた様な気がしている。あのイギリス的な世界に!」

(「財津和夫ワークス」〜40周年を記念して〜」ライナーノーツ)

 

 ビートルズでもバッドフィンガーでもなくジェネシスだったんですね。どの曲かはわかりませんが、時代的にはアルバム『怪奇骨董音楽箱Nursery Cryme』(1971)の頃だったのでしょう。

 

 ただ、チューリップの瀬尾の言う”小ポール”、バッド・フィンガー的なムードは次のシングル「一人の部屋」でも強く感じられます。

 ヒットしませんでしたが、のちの「青春の影」にもつながるようないい曲だと思います。

 

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 それから、財津は歌詞の「音」についてやはりこだわりがあったようで、1979年の大ヒット「虹とスニーカーの頃」についてこう語っています。

「特に歌詞の「あ段」の連続性が気に入っているー「わ'が'ま'ま'は'」「若か'っ'た'」」

(「財津和夫ワークス」〜40周年を記念して〜」ライナーノーツ)

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 狙って「あ」の母音が続く言葉を選んでいるんですね。

考えてみると、チューリップ最大のヒット「心の旅」の冒頭も「あ'ーだ'か'ら'」と「あ」の母音の連続で始まっています。


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 日本語の歌詞において「あ」の母音の使い方ってすごく大事なんですよね。

 以前、若手の作曲家を育成する仕事を長くやっていたこともあって、興味があって調べたことがあるんですけど、大ヒットした曲の歌い出しやサビの歌い始めの母音は「あ」が圧倒的に多いんです。

いにち、まいにち」(およげ!たいやきくん)、「たしが ささげた」(女のみち)、「とえば君がいるだけで」(君がいるだけで)、「いにはあいで」(Say Yes)「てしない闇の向こうに」(Tomorrow Never Knows)、「の日あの時あの場所で」(ラブ・ストーリーは突然に)、、、といったように。

 

 「あ」って母音の中で、発声するとき一番自然に出て、力も入れやすいんですよね。ボキャブラリー自体もきっと多いんだとは思いますが。「あ」の母音で歌い始めた方が、自然でかつ強く伝わりやすいように思えます。

 「心の旅」も「虹とスニーカーの頃」も、財津はヒットを狙うために苦労して書いたと語っていますので、「あ」の母音の連続で曲を始めるというのは、ヒットさせるためのテクニックのひとつとして、使ったんだろうと想像できます。

 

「魔法の黄色い靴」が発売された1972年6月には大瀧詠一がやはりビートルズ調の「空飛ぶくじら」をリリースしています。「はっぴいえんど」では大好きなポップスをやれなかった大瀧は、1971年末にリリースした初のソロ・シングル「恋の汽車ポッポ」からポップスへのアプローチを始めていました。

 

 J-POPのルーツをまっすぐ遡っていくと、大瀧や財津がスタートを切ったこの時代に行きつくんじゃないか、というのが今のところの僕の考えではあります。

 

 最後はこの曲のライヴ動画を。お客さんがずっと一緒に歌ってます。女性人気がすごかったんですね。

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