まいにちポップス(My Niche Pops)

令和初日から毎日、1000日連続で1000曲(せんきょく)を選曲(せんきょく)しました。。。古今東西のポップ・ソングのエピソード、洋楽和訳、マニアックなネタ、勝手な推理、などで紹介しています。キャッチーでメロディアスなポップスは今の時代では”ニッチ”なものになってしまったのかなあとも思いますが、このブログを読んでくださる方の音楽鑑賞生活に少しでもお役に立てればと願っています。みなさんからの追加情報や曲にまつわる思い出などコメントも絶賛募集中です!text by 堀克巳(VOZ Records)

「勝手にシンドバット」サザン・オールスターズ(1978)

 おはようございます。

 今日はサザンの「勝手にシンドバット」を。

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 「勝手にシンドバット」をリアルタイムで聴いた人には、タイトルが沢田研二の「勝手にしやがれ」とピンク・レディの「渚のシンドバット」を合わせたものだということはすっかりお馴染みだと思いますが、当時僕がこの曲を初めて聴いた時、”あれ”をタイトルにしたんだ、と思ったのですが、その”あれ”がなんだったのか長い間ずっと忘れていました。

 

 そして、今年、志村けんがなくなった時、桑田佳祐がラジオで「勝手にシンドバット」のタイトルは「8時だョ!全員集合」で志村けんがやっていたギャグからのパクリだったと話していたというネットの記事を見て、あ〜あ、そうだったぁ、と何十年ぶりにスッキリしました(笑。

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 「勝手にシンドバット」という曲名の”破壊力”はすごいですよね。

 もちろん、まず曲がすごいのは当然なんですけど。発売から40年以上たった今でも、テレビなどで耳にすると、かえって当時よりパワーが増したんじゃないかと思うほどの”破壊力”があって、こんな曲は他に僕は知りません。

 でも、もし曲名が「胸騒ぎの腰つき」とか違うものだったら、大衆からのウケ方もまた幾分違ったんじゃないか、という気もします。

 ともかく、日本芸能史に残る天才2人の発想がクロスしたからこそ、これだけの楽曲になったのかもしれない、と僕は思います。

 

 それから、歌詞の意味を云々する歌じゃないのは十分わかっているのですが、「今何時?」っていうところが昔からなんか唐突な感じがしていました。そしたら、ブレッド&バターのインタビューに興味深い発言がありました。

 

「当時、茅ヶ崎には地元で有名な人がいてね。自叙伝にもある話なんだけど、テーちゃんって呼ばれてた人がいて、いつも腕に時計の絵を描いていてね。夕方には消えかかってたりして。それを子どもたちがからかって、「今何時!?」と聞くといつも「んーと、だいたい3時」と答えてた、名物男(笑)。桑田(桑田佳祐)くんも当然知ってたから、確認はしてないけど、『勝手にシンドバッド』のあの「今何時!?」「そうねだいたいね」のフレーズは、テーちゃんがモデルだと思うよ(笑)」

                         (”はまれぽ.com”より)

 

 さて、この曲のことを1987年のインタビューで彼はこう語っています。

  

 「”勝手にシンドバット”というのは、売れる売れないっていうんじゃなく、自信作だった。作ったのは1977年かな。アマチュア時代にも歌ってた。もっとテンポ遅かったですけど」

 

「原型は、ザ・ピーナッツの”恋のバカンス”みたいなもんだったの。やってる世界としては。」

 

「なんかロックを歌謡曲のレベルまで引き下げて歌いたいっていう願望が強くあった。所詮、日本時ってのは歌謡曲だから。マイナー・コードの歌謡曲は一番ラテン系である日本人にとっては好色なパターンだから」 

 

「それを追求し続けるつもりはなかったんだけど、なんでも片手間にやるというのが我々世代の浅くて深い美の追求なんだよね。”シンドバット”を持ってったら、まずメンバーがいやがってね。冗談じゃないよって感じなの。それを、上手くだましてね(笑)」

               (「ブルー・ノート・スケール」桑田佳祐

 

 オリジナルを書き始めて5曲目がこの「勝手にシンドバット」だったそうですが、アマチュアでわずか5曲目で、日本のロック、歌謡曲を客観的に批評的に見て作っていたことに、今更ながら驚かされます。

 

 「俺たちの音楽性というか、共感できるのは、荒井由実吉田美奈子、ティンパン・アレイ辺りだったからね。ユーミン細野晴臣は知的に見えたの、当時は。だから、音楽を仕事でやるんだったら、そういうレベルでやりたかった」

 「ティンパン・アレイとか、当時でいえば細野さんとかの世界が好きだったから、」

                  (「ブルー・ノート・スケール」)

 

 細野晴臣が好きだったというのは、ちょっと意外な気もしますが、この頃の細野は「泰安洋行」など、いわゆる”トロピカル3部作”を作っていた時期で、”洋楽になりきる”のではなく、あくまでも日本人としての”客観的な目線”で多国籍な音楽を”調理する”ようなスタンスは、サザンのデビュー・アルバム「熱い胸騒ぎ」に影響を与えているようにも思えます。

 

 

「”勝手にシンドバット”は俺たちにはこういうことも出来るんだぞっていう一つの存在証明だったよね。細野晴臣路線があった上で、俺たちのキャパシティはまだ他にこんなものもあるぞ、みたいなね」

「ところが、”勝手にシンドバット”路線が本流だと思われちゃったわけね、完全に」

                     (「ブルー・ノート・スケール」)

 

 「勝手にシンドバット」が彼らの”本流”だというまわりの誤解に加えて、サザンが所属した事務所の社長が、渡辺プロダクションザ・ピーナッツキャンディーズの仕事をやり、芸能界に太いパイプがある人物だったということで、一気に”芸能人”としてメディアに露出していくことになります。

 

 細野、ユーミン、のようにアーティスティックに世に出たかったという彼の意向とは、全く違う方向性でしたが、アイドルや演歌歌手とも同じ土俵にあがって常にヒット曲を作らねばいいけない環境にあったという試練が、彼の才能を一気に磨いたような気もします。

 

 「勝手にシンドバット」は作った本人の運命さえ左右してしまうほどの曲だった、とも言えるのかもしれません。

 

 

 

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