おはようございます。
今日は桑田佳祐がソロで初めてリリースした曲「悲しい気持ち(JUST A MAN IN LOVE)」です。
桑田佳祐 – 悲しい気持ち (JUST A MAN IN LOVE) (Full ver.)
彼のことを日本のポップスの”顔”と言っても誰も異論がないと思いますが、彼自身が、意識的に、自覚的に、”ポップス”にアプローチしたのは、この頃が初めてだったそうです。
サザンの「思い過ごしも恋のうち」〜「C調言葉にご用心」というシングル盤のリリースの流れは、ほんとに胸ときめくもので今だに僕ははっきり記憶しているわけですが、その時はまだ自覚的にポップスをやっていたわけじゃなかったようです。
でも、確かに、サザンが出てきた1970年代後半から80年代の日本の音楽のメジャー・シーンというのはフォークからニュー・ミュージックに移り、ロック・バンドも現れ、それに対比される存在として歌謡曲、アイドル歌手がいたという時代でした。
確かに、当時ポップスというのは、まだそれほどの存在感がなくて、そこを大瀧詠一や山下達郎や、ユーミンといった”巨大な才能”が開拓していったわけです。もちろん、サザンもそこに大きな役割を果たしていたわけですが、当時の桑田はユーミン、達郎と違って”芸能界”で奮闘していたわけで、自身を客観的に見る余裕がなかったのかもしれません。
この「悲しい気持ち」やソロアルバム「KEISUKE KUWATA」の頃を振り返って、彼はこう語っています。
「サザンのデビュー当時、ポップスという用語はしばしば差別的というか、少々時代遅れ手にな意味合いで使われることもあったし、やっぱり褒め言葉は何だかわからないけど「ロックだね!」だった(笑)。あとは”フォーク”とか”ニューミュージック”の方が
、ジャンルとして確立された感もあって」
「不自由なことは何ひとつ無かったけれど、自分のこれまでとこれからをぼんやりと考え始めて‥‥‥まあいろいろ切なくなっていたんでしょうね。これからは自分の内省や感傷的な部分も音楽でアピールしてみようと、割と自覚的に挑んだ記憶があります。そこで自分の音楽をどんな言葉に置き換えようかと考えた時に、ふと”ポップス”という言葉が器量としても自分にしっくりくるかなと感じ始めてきたわけです」
(「SWITCH 特集 桑田佳祐クロニクル」2012年)
1988年頃のインタビューを読むと、「勝手にシンドバット」のイメージでコミック・バンドと呼ばれ、KUWATA BANDでこれはロックだ、と宣言してみた中で、これはロックだ、これはロックじゃないといった当時の日本のロックをめぐる偏狭さや矛盾にうんざりしていた感じが伝わってきます。
「だから限定するんならポップスという言い方のほうがいいやって気がするしね。自分はついついいろんなことをやってしまうから、音楽の中で。だから、ロックって断っちゃって、失敗したなと思う、俺は。メロディー弱くなっちゃったかな、とかね(笑」
「でもやっぱりこう、ポップスって‥‥俺、山下達郎みたいな人ってすごく好きなのね、竹内まりやとか。ちょっと堅物のさ、何か職人芸みたいのあるじゃない?でも最終的にあの人は職人なんだよね。<中略>ああいうガンコ者の音楽だと思うの、ポップスってのは。筋金入りのもんですよ。インディーズほどやわじゃないと思うの」
「やっぱり言い訳が許されない音楽っていうのが一番正しいと思うんだけどねえ」
(「ROCKIN'ON JAPAN FILE」1988)
日本ポップス史上不世出の才能である彼をして、自身の音楽をポップスと定義するのに10年もの月日を要したというわけで、”ポップス”というのは、その実に口当たりの良い呼称と軽んじられやすい一般の風潮とは裏腹に、なんとも、扱いの難しいものなのだと思わずにはいられません。
「『悲しい気持ち』で、ポップスという言葉を、等身大の音楽を、ようやく掴まえたんですよ。ディープ・パープルも悪くないけど、やっぱり本質はロネッツの『ビー・マイ・ベイビー』や坂本九の『上を向いて歩こう』なんだよって」
(「SWITCH 特集 桑田佳祐クロニクル」2012年)
桑田流等身大ポップス第一弾の「悲しい気持ち」は、”モータウン・ビート”という王道を用いながら、新たな制作パートナーとなった小林武史の手腕もあったのでしょう、懐古的なところにいっていないところがいいですね。
そして、曲やサウンドは軽快で明るいのに、歌詞は恋の切なく儚い感じが見事に出ていて、まさにポップスと呼ぶべき曲だと僕は思います。