おはようございます。
今日はエアプレイ。AORサウンドの確立に大きく貢献したデヴィド・フォスターとジェイ・グレイドンのユニットです。
「彼女はウェイト・フォー・ミー」は彼らが唯一残したアルバム「ロマンティック」からの日本のみのシングルです。
”彼女は僕を待っている 家の灯りをつけたまま
僕の仕事が遅くならないよう願いながら
僕は彼女の元へ走ってゆく そこが僕の居場所だと思いながら
通りは人影もなく 寒くて暗いけど
僕を導いてくれる 彼女は遅くても起きて待ってくれる
ベッドで一人きり本を読みながら
車を飛ばすよ 君をスターのようにもてなす場所へ
彼女は僕を待っている 家の灯りをつけたまま
僕の仕事が遅くならないよう願いながら
僕は彼女の元へ走ってゆく そこが僕の居場所だと思いながら
もし彼女が眠って安らかに夢を見ているなら
なるべく音は立てないようにしよう
放送が終わった TVがついたままで
ドアの鍵をかけるときには そっと爪先立ちで歩こう
すべて確認できたら 彼女におやすみのキスをして
灯りを消そう ” (拙訳)
当時この曲はFMでよく聴きましたが、日本のみのシングルでした。そして、この曲が収録されたアルバム「ロマンティック」は、彼らの唯一のアルバムですがアメリカでは全く売れませんでした。
しかし、日本では”AOR”の大定盤として揺るぎない評価を得ています。確かに聴き直してみると、AORの典型的なサウンドのカタログ、テキストと呼んでもいいくらいの内容です。
エアプレイのメンバーはデヴィッド・フォスターとジェイ・グレイドンの二人。
デヴィッドはキーボード、ジェイはギターの卓越したプレイヤーとして頭角を表します。このブログに何度も登場する、60年代のアメリカン・ポップスの多くを演奏した”レッキング・クルー”を追いやって(?)台頭してきた次の世代が彼らでした。
ジェイ曰く、他には、ラリー・カールトン、ディーン・パークス、レイ・パーカーJR、リー・リトナー、デヴィッド・T・ウォーカー、デヴィッド・ハンゲイト、ジェイムズ・ギャドソン、ジェフ・ポーカロなどの名前を挙げています。
ちなみに、彼らがメインストリームのヒット曲を演奏するようになる1970年代後半には、レッキング・クルーはTV、映画、ジングル制作などに主軸を移したようです。
ハリウッドのクラヴでジェイが演奏しているのを見たデヴィッドが、自身のグループ”スカイラーク”のレコーディングにジェイを誘ったのが彼らが仕事をする最初のきっかけでした。
そこで、お互いの才能を認め意気投合した両者は、デヴィッドの仕事ではジェイを、ジェイの仕事ではデヴィッドを推薦するようになったそうです。
デヴィッド・フォスターはポップ・ミュージック界の巨人として君臨していますし、
このブログにも登場していますので、今日はジェイ・グレイドンについて少し。
有能なスタジオ・ミュージシャンだった彼の名を有名にしたのは、スティーリー・ダンの「PEG(「麗しのペグ」)」のギター・ソロでした。
Steely Dan - Peg - HQ Audio -- LYRICS
スティーリー・ダンはアメリカを代表するスーパー・ミュージシャンたちを取っ替え引っ替えレコーディングさせ、平気でボツにするので有名ですが、この曲のギターもジェイが弾くまでにすでに6人のギタリストがトライしていたといいますから驚きです。
僕が彼のギタープレイを印象的に記憶しているのが1979年のマンハッタン・トランスファーの「トワイライト・ゾーン/トワイライト・トーン」。当時のラジオ番組で桑田佳祐がこのギターソロについて熱く語っていたのをよく覚えています。
1979 Manhattan Transfer :: Twilight Tone-Twilight Zone @ 432 Hz (non-official recut)
ちなみにこの曲が収録されているアルバム「エクステンションズ」はジェイのプロデュースによるもので、エアプレイの「ロマンティック」に収録されている「Nothin' You Can Do About It」のオリジナル・ヴァージョンも入っていてアレンジ、キーボードをデヴィッドがやっています。
ちなみにエアプレイのヴァージョンは。
Airplay - Nothin' You Can Do About It
デヴィッドもジェイもミュージシャン、プロデューサーとしてまさに上り調子の時期に作ったのが「ロマンティック」でした。
そしてここで作ったサウンドを、その後のそれぞれの仕事で発展させていったわけです。まさに”雛形”だったんですね。
ちなみにエアプレイを結成したのは、彼らが女優、シンガーのモーリン・マクガヴァンのレコーディングに呼ばれたときに、デヴィッドがいい曲ができたから一緒にデモを作ろうとジェイを誘い、できたデモをデヴィッドがトミー・モトーラに渡したことがきっかけでした。
トミー・モトーラ。前にもこのブログで書きましたが、ホール&オーツのマネージャーで、のちにCBSの社長としてマライア・キャリーのデビューを演出したデヴィッドいわく”マフィア”みたいな雰囲気の人です。
デヴィッドはホール&オーツのプロデュースをしていましたからアプローチしやすかったのでしょう。それで、ホール&オーツの所属するレコード会社からリリースということになったわけです。
今の時代になってこういう音楽を聴くと、あまりに明快で爽快すぎるサウンドに思えますが、当時の日本では、その爽快感がこそが、アメリカ西海岸のイメージとリンクし、多くの若い日本人にとっての憧れを象徴していたのは間違いないことです。
そしてその爽快感は、ずば抜けたミュージシャンたちの技量によって生み出されたものでした。
また、裏方から見たポップス史的には、AORは"ポスト・レッキングクルー"のミュージシャンたちが最も活躍したジャンルだったと言えるかもしれません。
TOTOのメンバーを始めとする、そういったミュージシャンが集結して、その"時代の音"を鳴らしたのが「ロマンティック」だったとも言えると思います。