おはようございます。
今日は浜田省吾が在籍していたポップ・グループ”愛奴”の「二人の夏」です。
しかし、動画がなかったので、浜田省吾のちにセルフカバーしたヴァージョンで。
この曲の印象的な間奏に使われているのは、ザ・ビーチ・ボーイズのインスト・ナンバー「Summer Means New Love」。1965年のアルバム「サマー・デイズ」の収録されています。
Summer Means New Love (Stereo)
先日このブログのも登場しました「カリフォルニア・ガールズ」も収録されているアルバムです。
浜田省吾はビーチ・ボーイズ・ファンだったことが知られていて、彼が中二の時にコピーしたというビーチ・ボーイズの曲2曲もやはり、この「サマー・デイズ」に収録されていたものでした。
Girl Don't Tell Me (Remastered)
こちらは、オリジナルはクリスタルズ(フィル・スペクターのプロデュース)
Then I Kissed Her (Remastered)
愛奴(あいど)は、「広島フォーク村」の音楽仲間を中心に結成されたグループ。吉田拓郎のツアーのバック・バンドを一年務めたのちに1975年にこの「二人の夏」でデビューしています。
当時、完全に洋楽志向だった浜田が気に入っていた日本のレコードは、はっぴいえんど「風街ろまん」、はちみつぱい「センチメンタル通り」、細野晴臣「HOSONO HOUSE」、大瀧詠一「大瀧詠一」の四枚だったそうで、愛奴のアルバムにもはっぴいえんどなどの影響が感じられます。
「二人の夏」はレコード会社内の反応もよく、事前に行った社外モニターでも素晴らしい反応を得て、大ヒット間違いなし、担当ディレクターは100万枚も夢じゃないと思っていたそうです。
しかし、予想とは違い全くヒットしませんでした。ものすごく売れそうな曲でも売れなかった、という例はこの世界では数え切れないほどあったでしょうし、売れなかった原因はそうシンプルに突き止められるものでもないでしょう。
彼の伝記には(田家秀樹「陽のあたる場所」)、プロモーションで愛奴のメンバーがラジオ局に入った時に、ディレクターが「二人の夏」を聴いて”湘南ボーイ”みたいなかっこいいメンバーかと思っていたら、ロング・ヘアーでロンドン・ブーツ姿でがっかりした、というエピソードが書かれていて、そういうところは意外に大きいのかなと、個人的には思います。
「二人の夏」は愛奴というバンドを象徴する曲ではなくかえって異色な曲だった、僕は後追いで彼らの音楽を聴いたのですが、そんな風に思いました。
また、仮に「二人の夏」が100万枚売れたら、その後の浜田省吾というアーティストの歩みも相当変わったのかもしれない、とも思います。
結局、1年で浜田は脱退し、ソロ活動を始めます。また、愛奴のメンバーで「二人の夏」のコーラス・ワークの中心になっていた町支寛二は、その後浜田のバンドに加わり、現在に至るまでギタリスト、コーラス・アレンジャーとして彼を支えています。
1987年には浜田は「Club Surf Bound」というアルバムで、町支のアレンジで「二人の夏」を再録音しています。
また、「愛奴」「浜田省吾」と並走するような存在として「シュガー・ベイブ」「山下達郎」がいます。
愛奴が「二人の夏」でデビューするわずか1週間前にシュガー・ベイブはシングル「DOWN TOWN」とアルバム「SONGS」でデビューしています。
愛奴のファースト・ライヴの会場には山下の姿もあったそうで、インタビューで山下が浜田にシンパシーを感じているといった発言をしているのも見たことがあります。
音楽性こそ違いますが、共にビーチ・ボーイズやヤング・ラスカルズといったアメリカのポップス、ロック、R&Bに憧れ音楽を始め、最初のバンドで当時の歌謡曲とフォーク主体だった日本の音楽シーンに打ち砕かれた挫折を糧に、日本のポップスに揺るぎない地位を確立した両者は、確かに重なる部分も少なくないように僕は思います。
ネットを見たら両者のお互いに対するコメントを時間軸に沿って丁寧にまとめられたものがあったのでご紹介します。本当に深くうなずけるものがあります
そして、山下は94年にシュガーベイブの曲を演奏するライヴでこの「二人の夏」のカバーし、その音源もリリースされています。(シングル「世界の果てまで」カップリング、アルバム「Ray of Hope」初回盤ボーナス・ディスク)
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