おはようございます。
”見てごらん なんて美しんだろう
優雅さがあふれている
ほら、あの娘さ こっちに向かってきて 通り過ぎてゆく
体をやさしくスウィングさせながら 海に向かっているんだ
イパネマの太陽から生まれた黄金の肌を持った娘
彼女の歩く姿は 一編の詩なんかじゃ表せない
今まで見てきたどんなものよりも美しい光景さ
ああ、僕はどうしてこんなにも孤独なんだろう?
どうしてこれほど悲しいんだろう
この美しさは夢じゃない
この美しさは僕だけのものじゃない
ただ通り過ぎていってしまうものなんだ
ああ、彼女が気づいてくれたなら
自分が通り過ぎる時 世界中が微笑んで
優しさに満ちることを
そしていっそう世界は美しくなることを 愛のために ”
(ポルトガル語のオリジナルを英語に置き換えたものを和訳したものです)
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”背が高く、日に灼けて、若くて、愛らしい
イパネマの娘が歩いてゆく
そして 彼女が通り過ぎるたび 誰もが”ああ”って言う
彼女の歩く様子は まるでサンバさ
クールにスウィングしたり、優しくゆっくり揺れたり
だから 彼女が通り過ぎるたび 誰もが”ああ”って言うんだ
だけど 彼は悲しそうに彼女を見つめている
どうしたら 愛してるって言えるのだろう
喜んでこの心を差し出すつもりさ
だけど、来る日も来る日も 彼女が海に歩いていく時は
まっすぐ前を向いていて 彼の方は見ないんだ
背が高く、日に灼けて、若くて、愛らしい
イパネマの娘が歩いてゆく
そして彼女が通り過ぎる時 彼は微笑みかける
だけど彼女は気づかない 気づかない ”
(英語詞を和訳したものです)
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ボサノヴァを世界中に広めることになった、この「イパネマの娘」は、前半はポルトガル語の原詞(作詞ヴォニシウス・ヂ・モライス)をジョアン・ジルベルトが歌い、後半を、英訳ではなく新たに作った英語詞(作詞ノーマン・ギンべル)を奥さんのアストラッド・ジルベルトが歌うという構成になっています。
僕のたいへん稚拙な和訳ですら、オリジナルの歌詞の方が”品がある”ことが明白なような気がするのですがどうでしょうか。
ヴィニシウスはオックスフォード大学に留学し英文学を学んだ詩人であり、ブラジル外務省の外交官でもあったという大変なインテリの方です。
英語詞を書いたノーマン・ギンベルは、主に映画の楽曲の作詞や、海外の楽曲に英語詞をつける仕事で有名な人で、ポップスではロバータ・フラックの「やさしく歌って」の作詞家として知られています。
あるよく晴れた夏の日、リオにある「ヴェローゾ」という店で、ヴィニシウスが作曲家のアントニオ・カルロス・ジョビンが若い女性について喋っている最中、海に向かって歩いているある女性に気づいたジョビンが、それをヴィニシウスに教えたことがきっかけでこの曲は生まれたと言われています。
しかし、実際は1962年の冬に「ヴェローゾ」で彼らは彼女を見かけたそうですが、彼女は当時15歳で、母親のタバコを買いにしばしば店を訪れるたびに客がみんな口笛を吹くほどの”人気者”だったようです。
その女性はエロイーザ・エネイダ(日本人にとってはセクシーに響く名前ですね、下世話ですみませんw)といって、この曲が大ヒットした後になってモデルが自分だったと知らされてすごく驚いたそうです。
そして、それをきっかけにモデルの仕事を始め、一気に人気者になり女優もやっていたようです。その後は主にTV司会者として活躍し、1999年には自身のビーチウェア・ブランドを立ち上げたようです。その名も「ガロータ・ヂ・イパネマ(Garota de Ipanema)」。「イパネマの娘」の原題ですね。
ちなみに、この曲が着想された店「ヴェローゾ」は1974年に店名を、「ガロータ・ヂ・イパネマ(Garota de Ipanema)」に変更しています。(2000年に僕はこの店に行きました。小自慢ですが、すいませんw)
さて、この曲で中心的な役割を果たしたスタン・ゲッツはジャズ史を代表するサックス奏者のひとり。知り合いのベーシストから教えてもらったボサノヴァに衝撃を受け、「ジャズ・サンバ」「ビッグ・バンド・ボサノヴァ」「ジャズ・サンバ・アンコール」という三枚のアルバムを発売し、この頃アメリカで盛り上がっていたボサノヴァ・ブームを牽引する存在でした。
アメリカで”ボサノヴァ・ブーム”を起こした最初の作品と言われる「ジャズ・サンバ」(スタン・ゲッツ&チャーリー・バード)より、ジョビンの代表曲「デザフィナード(Desafinado)」
アメリカでボサノヴァの人気が盛り上がりに合わせて、1962年11月21日にはカーネギーホールでジョアン・ジルベルト、アントニオ・カルロス・ジョビン、ルイス・ボンファ、ロベルト・メネスカル、セルジオ・メンデスらによる北米初のボサノヴァ・コンサートが開催されています。
アメリカ進出を狙っていた、アントニオ・カルロス・ジョビンとボサノヴァの代表的な演奏者であるジョアン・ジルベルトはそのままニューヨークに残りました。
ジョビンはレコード会社や音楽出版社と交渉しながら、自分の作品に英語詞をつけることにも積極的に取り組んでいました。
そして彼ははスタン・ゲッツと知り合いになり、プロデューサーのクリード・テイラーの企画でスタンとジョアンの共演作「ゲッツ/ジルベルト」をレコーディングすることになります。
気難しい性格で英語が全く喋れないジョアンと、英語でいろいろ口を出してくるスタンとの間に挟まれたジョビンが片言の英語を使いながら、必死に気遣いながらとりもつという、決して友好的とは言えないレコーディングだったようです。
「イパネマの娘」にアストラッド・ジルベルトが参加することは当初予定されていませんでした。ジョビンがアメリカの音楽出版社にプレゼンするために、自作の英語ヴァージョンのデモをアストラッドに歌わせていて、それを聴いたスタンが面白がってレコーディングの最後の方になって急遽彼女を歌わせてみようということになったのだそうです。
彼女にとって初めてのレコーディングで、これが彼女の人生を大きく変えることになりました。
前半のジョアンのパートをカットして編集されたシングル・ヴァージョンが作られ、
それが全米チャート最高5位、100万枚を超える大ヒットになったのです(1965年のフラミー賞で”レコード・オブ・ザ・イヤー”を獲得しています)。
The Girl From Ipanema by Astrud Gilberto
そのおかげで彼女は、アメリカのでボサノヴァ・シンガーの”顔”ともいうべき存在になり、数多くの作品を残します。また、そのささやくようなボーカル・スタイルは日本でも当時大変な人気になり、1990年代の渋谷系ブームの時には再び脚光を浴びました。
アストラッドはジョアン・ジルベルトに見そめられ、1959年にまだ19歳で結婚しています。この「イパネマの娘」が大ヒットする頃にはジョアン・ジルベルトとは破局していたようで、彼女はスタン・ゲッツに同行してシンガーとして活動を始め、パフォーマンスをし始め、スタン・ゲッツと同じレーベル(Verve)、同じプロデューサー(クリード・テイラー)で、ボサノヴァ、ジャズ、ソフトロックがたくみにミックスされた素晴らしいソロアルバムをいくつも制作しています。(1960年代の彼女のアルバムはどれもオススメできます)
最後に「イパネマの娘」に話を戻しますと、ジョビンが自作の英語ヴァージョンのデモを作る際に、ひどい英詞がつけられたことに気づいて、こんな歌詞じゃフランク・シナトラが僕の曲を歌ってくれないじゃないかと彼は怒ったと言うエピソードがあったそうです。
彼から怒られた、当時彼の曲を扱っていたアメリカの会社の社長は<シナトラが歌うわけがない>と相手にしなかったそうですが、1967年に彼はシナトラとの共演アルバムを実現させます。そして、その1曲目が「イパネマの娘」でした。
The Girl From Ipanema - Frank Sinatra & Antônio Carlos Jobim | Concert Collection