まいにちポップス(My Niche Pops)

令和初日から毎日、1000日連続で1000曲(せんきょく)を選曲(せんきょく)しました。。。古今東西のポップ・ソングのエピソード、洋楽和訳、マニアックなネタ、勝手な推理、などで紹介しています。キャッチーでメロディアスなポップスは今の時代では”ニッチ”なものになってしまったのかなあとも思いますが、このブログを読んでくださる方の音楽鑑賞生活に少しでもお役に立てればと願っています。みなさんからの追加情報や曲にまつわる思い出などコメントも絶賛募集中です!text by 堀克巳(VOZ Records)

「不思議なピーチパイ」竹内まりや(1980)

 おはようございます。

 今日は竹内まりやの「不思議なピーチパイ」です。

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 一昨日から加藤和彦の作品を取り上げていますが、彼は1960年代にはフォークソングを、70年代はサディスティック・ミカ・バンドでロック、そして1980年代では職業作曲家として、妻の作詞家の安井かずみとコンビを組んで”ポップス”を手がけます。

 

 フォーク・クルセイダーズサディスティック・ミカ・バンドと他の誰もやっていない斬新な音楽を作ることをモチベーションと矜持にしていた彼が80年代に、商業主義の真正面で勝負していた、その辺りに僕は個人的にすごく興味があります。

 

 音楽の根本は”ソングライティング”ですから、ヒット・ポップス作曲家としての加藤和彦についてもっともっとクローズアップしてもいいんじゃないかとも僕は思っています。 

 さて、加藤和彦がヒット作曲家になった”突破口”は竹内まりやだったようです。

 

 竹内まりやのデビューの経緯やエピソードについて、当時のプロデューサーであった牧村憲一さんが「「ヒットソング」の作りかた」という本で書かれています。

 

 ライヴ・ハウスの新宿ロフトがレーベルを作ったときに、「ロフト・セッションズ」という、若い凄腕ミュージシャンをバックに新人女性歌手を歌わせるというライヴ・アルバムを牧村さんが企画し、そのシンガーを探していく中で知人(川原伸司さん)から杉真理のバックで歌っていた彼女のテープを聴かせてもらいとても気に入った彼は、彼女にアルバムに参加してもらいます。

 

 そして、牧村さんは彼女にソロデビューを持ちかけたそうで、もともとプロになるつもりのなかった彼女は一旦保留したそうですが、後日この人たちに曲を書いてもらえるならやってもいい、という条件を出して来たそうです。

 

 それが、加藤和彦山下達郎、センチメンタル・シティロマンス、細野晴臣杉真理だったそうです。

 全てのアーティストとつながりのあった彼は快諾し、彼女のデビュー・アルバム「BEGINNING」にはその全員の作品が収録されています。

 このメンバー、今でこそ日本のポップスのレジェンドたちですが、この当時はマニアックな存在でした(もちろん加藤は知名度はありましたが、ソロ作品やCM音楽などをやっていてかつてのように目立ってはいない時期でした)。彼女のセンスの良さがよくわかる人選です。 

 

 そして、彼女のデビュー曲になったのは加藤が書いた「戻っておいで・わたしの時間」でした。これは、もともと加藤が伊勢丹のCMのために書いていた曲だったそうです。たぶん、タイトルは伊勢丹の宣伝のキャッチコピーで、そのタイトルありきで作られたのではないでしょうか?

 (アレンジはドクター・バザーズ・オリジナル・サバンナ・バンドのスタイルの流用ですね。これはアレンジャーの瀬尾一三の発案だったのでしょうか?僕は加藤和彦だったんじゃないかと思うのですが。ともかく、この時代の日本のポップスのアレンジは、大抵なにかの洋楽曲をサンプルにして作られていました)

 

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 そして、彼女の四枚目のシングルにして初の大ヒット曲が加藤の作曲による「不思議なピーチパイ」です。資生堂のCMソングとしてよく耳にしました。もともとキャンペーンタイトルとして”ピーチパイ”という言葉があって、そこに当時CMを担当したコピーライターの糸井重里が”不思議な”を付け加えたんだそうです。

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 加藤の作風も、よりアメリカン・ポップスの度合いが強まっています。これは彼女のアルバムの他の作家たちの楽曲がその色合いが濃かったことと、アメリカやイギリスで60年代ポップスのリバイバルの動きがあったことの両方を、加藤は意識したのかもしれません。

 このあと彼は、1970年代初頭のTVアイドル岡崎友紀の復活曲(YUKIというアーティスト表記)「ドゥ・ユー・リメンバー・ミー」を書いてヒットさせています。


Yuki - ドゥー・ユー・リメンバー・ミー (岡崎友紀 1980)

 

 ちなみに、これはロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」あたりを念頭に置いていたらしく、後年英語詞にして、フィル・スペクターサウンドに近づけてセルフ・カバーするアイディアが彼にはあったようです。

 「「ヒットソング」の作りかた」によると、「ヒット曲を書く」ということが当時の加藤の願いだったらしく、メジャー・シーンでバリバリ戦うモードになっていたんですね。

 (同時に、自身の作品ではコンセプチュアルなヨーロッパ三部作「パパ・ヘミングウェイ」「うたかたのオペラ」「ベル・エキセントリック」をYMOのメンバーたちと作っていたわけで、この時期が彼のポップ・クリエイターとしてのピークと見ていいんじゃないかと僕は思います)

 

 アマチュア時代から多作で、一つ方向が定まると徹底的に研究する資質が知られている彼が、ヒット曲を作る、というモードになったわけで、調べてみると想像したよりもかなりたくさんの楽曲を他の人のために書いていたことがわかります。

 

 その際、どんなスタンスでどんなアプローチをしたか、もっと知りたかったとも思います。

 それからあらためて彼の作品を振り返ってみると、「あの素晴らしい愛をもう一度」「悲しくてやりきれない」「タイムマシンにお願い」や「ドゥ・ユー・リメンバー・ミー」「不思議なピーチパイ」など、ジャンルを問わず、楽曲として”スタンダード”感が強いというか、まとまりのよさをとても感じます。

 

 日本の音楽史の中で革新的なアクションを起こし続けて来た人ですが、ソングライター、特に職業作曲家としては実はとてもスタンダードなスタイルの人だった、そのコントラストこそが彼のユニークさであり、稀有な才能の証拠だったのだと僕は思うのです。

 

 

 

 

 

 

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加藤和彦フィル・スペクター風ポップス

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「不思議なピーチパイ」と同じく資生堂のCMソングとして大ヒットしました

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