おはようございます。
今日は大橋純子 & 美乃家セントラル・ステイションの「シンプル・ラブ」です。
1977年。演歌、歌謡曲、フォークばかりしか流れてこなかったTVから、洗練されたポップスを歌う日本人アーティストがどんどん現れた年、と僕は記憶しています。
それは、その年の後半の原田真二の登場で決定的になるわけですが、この年の春にヒットした尾崎亜美の「マイ・ピュア・レディ」と、この「シンプル・ラブ」にもそれまでの邦楽にはなかった洗練と開放感を感じて、まだ中学一年になったばかりの僕の音楽の嗜好性に大きな影響を与えたのだと、今になってみると思います。
大橋純子は北海道夕張生まれ、短大時代に北大の音楽サークルに入り、ジャニス・ジョプリンや当時の洋楽を原曲のキーで歌うことで、ノドが強くなり高音が出るようになったと本人は回想しています。
その後、北海道で深夜放送のDJをやったのちに上京し、ヤマハにバイトで入ったところ、その部署には、その後数々の大ヒット曲を手がける編曲家、萩田光雄と船山基紀やのちに彼女のパートナーになる佐藤健もいたといいますから、ものすごい巡り合わせですね。
そして、彼女は”スーパーマーケット”というバンドに参加しデモテープを作ります。しかし、バンドは解散してしまいますが、シンガーとしての力量を買われ彼女はソロ・シンガーとしてデビューすることになります。
1974 年にアルバム「フィーリング・ナウ」でデビューしますが、このアルバムは「ストップ・ルック・リッスン」(スタイリスティックス)「兄弟の誓い」(ホリーズ)「ア・ソング・フォー・ユー」(レオン・ラッセル)「やさしく歌って」(ロバータ・フラック)「消えゆく太陽」(ビル・ウィザース)、あとメルバ・ムーアの「Look What You're Doing to the Man」なんていう曲もカバーしていて、彼女が最初から洋楽志向が強かったことがわかりますし、1974年という時代を考えると、かなり貴重な作品だと思います。
1976年には佐藤健を中心に彼女のバック・バンド”美乃家セントラル・ステイション ”が結成されます。そこにはギターで土屋昌巳も参加していました。
当時のことを彼女はこう回想しています。
「「大橋純子& 美乃家セントラル・ステイション」としての活動が浸透し、世の中に認知され出した頃。暇さえあればリハーサルをしていました。カバー曲を増やすこと、その合間にマー坊(土屋昌巳)が積極的にオリジナルを書いて来て練習、まとまったら次のライブでやってみる。徐々にバック・バンドからバンドそのものの存在までもアピールしだしました。インストものや歌ものなどマー坊の過激な色が加わって個性がより際立ち、他と差別化されるようになりました。次のアルバムの制作には是非バンドでレコーディングしたいと申し出たのは当然の成りゆきでした。念願のバンドを持ち、次にバンドでレコーディングする事。私の理想が現実になって行く絶頂の時でした」
そして、大橋純子 & 美乃家セントラル・ステイションとしてリリースされた最初のシングルがこの「シンプル・ラブ」でした。作詞は松本隆、作曲は佐藤健。
当時、新人や洋楽アーティストが日本でブレイクする大きなきっかけになっていた”東京音楽祭”でシルバー・カナリー賞と外国審査員団賞受賞を受賞したことで、この曲はヒットしました。
また、この曲は当時六本木のディスコで日本語の曲で唯一かかっていたそうで、それにあわせてディスコ向けにリミックスした英語ヴァージョンが作られています。
そのあと、1978年1月にリリースされた「クリスタル・シティ」はシティポップ・リバイバルで再評価されています。
そして同年の8月に、筒美京平がカーリー・サイモンの「You Belong To Me」をモチーフに、見事な歌謡ポップスへと落とし込んだ「たそがれマイ・ラブ」が大ヒットするわけです。
この曲は企画物(タイアップ)としてソロシンガーとしての彼女に来た話だったようで、当時美乃家セントラル・ステイションという素晴らしいバンドとの一体感を感じていた彼女にとって、この曲の大ヒットは複雑な気持ちだったとのちに語っています。
そして、彼女はその後もタイアップ曲を歌いましたがなかなかヒットしなかったなか、じわじわと大ヒットになったのが1981年の「シルエット・ロマンス」で、これはサンリオのタイアップ曲でした。
「たそがれマイ・ラブ」と「シルエット・ロマンス」という稀代の名曲を二つも持っているというのは相当幸運なシンガーであると思いますが、本来彼女はバンドで洋楽に近い音楽をやりたかった人だったんですね。
ただ超有名曲が2つもあれば、そこに彼女のイメージが全部集約されてしまい、それ以外のレパートリーの魅力が伝わらなくなるというマイナス面もあるわけです。
しかし、昨今のシティポップ・ブームによって、彼女の都会的で洗練された楽曲がじわじわと知られるようになったことはとてもいいことだと思います。
最後は、シティポップ・シーンで人気の高い「テレフォン・ナンバー」(1081年。作詞:三浦徳子 作曲:佐藤健 編曲:荻田光雄)を。