まいにちポップス(My Niche Pops)

令和初日から毎日、1000日連続で1000曲(せんきょく)を選曲(せんきょく)しました。。。古今東西のポップ・ソングのエピソード、洋楽和訳、マニアックなネタ、勝手な推理、などで紹介しています。キャッチーでメロディアスなポップスは今の時代では”ニッチ”なものになってしまったのかなあとも思いますが、このブログを読んでくださる方の音楽鑑賞生活に少しでもお役に立てればと願っています。みなさんからの追加情報や曲にまつわる思い出などコメントも絶賛募集中です!text by 堀克巳(VOZ Records)

「愛のテーマ(Love's Theme)」ラブ・アンリミテッド・オーケストラ(1973)

 おはようございます。

 今日はラブ・アンリミテッド・オーケストラで「愛のテーマ(Love's Theme)」です。

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 ラブ・アンリミテッド・オーケストラは、音楽プロデューサー、シンガー・ソングライターバリー・ホワイトと彼がプロデュースした女性三人組グループ”ラブ・アンリミテッド”のバックをつとめるために結成されたオーケストラです。

 

 ラブ・アンリミテッドは1972年にホワイトが曲を書きプロデュースした(曲中に電話の相手としても現れます)デビュー曲「恋の雨音(Walkin' in the Rain with the One I Love)」(全米14位)が有名です。

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 そして、この「愛のテーマ」は彼女たちのセカンド・アルバム『Under the Influence of... Love Unlimited』(1973年6月リリース)のオープニング・ナンバーでした。

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 アルバム・タイトルでもある「Under the influence」という曲にそのまま繋がる序曲的なものだったんですね。当時ディスコでもこの2曲を一緒にまとめてかけられていたようですので、「愛のテーマ」の反響が大きくなっていったのかもしれません、同年12月に”ラブ・アンリミテッド・オーケストラ”名義でシングルにすると、大ヒットになりました。

 

 この曲はもともとヴォーカルものとして作られましたが、有名なアレンジャーであるジーン・ペイジがストリングスのアレンジしたものを聴いてホワイトは、ヴォーカルを入れることで曲の良さが消されてしまうと判断して、インスト・ナンバーにしたと言われています。

 

  しかし、この曲が全米1位の大ヒットになるとホワイトも欲が出たのか、1974年にラブ・アンリミテッドによるヴォーカル・ヴァージョンも発表しています。

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 ラブ・アンリミテッドの「恋の雨音」やラブ・アンリミテッド・オーケストラの「愛のテーマ」が大ヒットした同時期にバリー・ホワイトはシンガーとしても大ブレイクを果たしています。

 

 もともと彼は自身でシンガーとして成功しようなんて気は全くなかったそうですが、あるとき自分で歌って録音していた曲をビジネス・パートナーであるラリー・ヌネスに聴かせると、彼はレコードにするようにホワイトに強く勧めたそうです。

 

 その曲が1973年に全米3位になった「つのりゆく愛(I'm Gonna Love You Just a Little More Baby)」。この曲のレコーディングには、ギターのレイ・パーカー・ジュニア、ワーワー・ワトソン、ディーン・パークス、デヴィッド・T・ウォーカー、ドラマーのエド・グリーン、ベースのウィルトン・フェルダー、ネイザン・イーストといった錚々たるメンツが集められ、このメンバーたちが”ラブ・アンリミテッド・オーケストラ”を形成してゆくことになります。

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 1974年全米1位「あふれる愛を(Can't Get Enough of Your Love, Babe)」

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1974年全米2位「マイ・エヴリシング(You're the First, the Last, My Everything)」

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 この大成功ぶりをみても、1973~4年あたりの彼は、間違いなく”時代の顔”の一人だったのでしょう。

 (日本でもかなりの人気で、矢沢永吉が「成り上がり」の中で、当時彼が生まれてから自分のお金で買ったレコードは四枚しかないと語っていて、その中に「愛のテーマ」も入っていました)

 

 バリー・ホワイトテキサス州ガルベストン生まれで、本名はバリー・ユージーン・カーター 。両親は未婚で彼は母親に育てられましたが、ホワイトというのは父親の姓だったということです。彼はカリフォルニア州ロサンゼルスの黒人の多いサウス・セントラルで育ちましたが、独学でピアノを学び、母親の影響でクラシックを聴いていたそうです。

 

「僕の住む地域では、とても珍しい存在だったよ(笑)。母は僕にクラシック音楽を聴かせました。兄は我慢できなかったようだけど、僕は母と一緒に何時間も座って、美しいメロディーとアレンジメントを聴くことができたんだ。母はクラシックのレコードをたくさん持っていたよ」

http://thekatztapes.com/barry-white/

 

 彼は16歳のときにアップフロンツというグループで「Little Girl」という曲をロサンゼルスのローカル・レーベルからリリースしています。

 また1960年代半ばにはソロ・シンガーとしていくつかシングルをリリースしています。

  1964年の「Tracy」。彼が20歳の頃ですが、すでに声が渋いですね。

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 その後、彼はロサンゼルス周辺の様々なインディペンデント・レーベルで働き、A&Rの仕事をするようになります。彼が最初に担当したグループのひとつに、後にフィフス・ディメンションと改名するバーサタイルズもいたそうです。

 彼はプロデュースしながら曲も書いていて、フェリス・テイラーの「アイ・フィール・ラヴ・カミング・オン」はイギリスで11位の大ヒットになりました。

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 モータウンホランド=ドジャー=ホランドっぽいアレンジですが、実は彼は仕事でジーン・ペイジと知り合い、ペイジがホランド=ドジャー=ホランドと仕事をする際、そのセッションにホワイトをバックシンガーだと嘘をついて、入れてくれたことがあったそうです。

 ホワイトはホランド=ドジャー=ホランドの大ファンだったそうです。

 彼はこう回想しています。

 「彼らは私に最も多くのことを教えてくれた。彼らは歴史上最高のライターであり、プロデューサーだった」

 

  「彼らはデトロイトにいて、僕はロサンゼルスにいた。僕はひたすら何時間も、朝から晩まで、日曜から次の日曜までただ聴き続けたんだ、41作のNO.1レコードを」

http://thekatztapes.com/barry-white/

 

 「愛のテーマ」のストリングス・アレンジをしたジーン・ペイジは、ホワイトの恩人でもあったわけですね。

 そして、ホワイトは自分が大成功すると今度はペイジのソロ・アルバムをプロデュースをし恩返しをしています。

 

 バリー・ホワイトは独学で音楽を学び、譜面の読み書きは全くできなかったそうですが、それでも、超一流のミュージシャンを配した最高品質のポップ・ミュージックを作れたんですね。

 ホランド=ドジャー=ホランドなどの音楽を徹底的に聴き込むことで”自分の耳を育て”、そして制作にあたっては自分独自の方法論を作り上げることができたからでしょう。

 

「誰であろうと、音楽の偉大な巨匠はみな自分なりの方式(フォーミュラ)を持っている。バリー・ホワイトの方式もある。僕は庭全体を使うのが好きで、ただ、バラだけ、ランだけ、カーネーションだけを愛するかわりに、庭のすべての花を愛するんだ。楽器は音楽的なブーケの花なんだ。その曲に合わせて適切なミュージシャンを選んで、他のミュージシャンの邪魔にならないように話をさせるんだ」

 (http://thekatztapes.com/barry-white/

 

 最後はバリー・ホワイトジーン・ペイジのソロ・アルバムのために書いた曲を。

「Gene's Theme」(1974)。

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ベスト・オブ・バリー・ホワイト

ベスト・オブ・バリー・ホワイト

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