まいにちポップス(My Niche Pops)

令和初日から毎日、1000日連続で1000曲(せんきょく)を選曲(せんきょく)しました。。。古今東西のポップ・ソングのエピソード、洋楽和訳、マニアックなネタ、勝手な推理、などで紹介しています。キャッチーでメロディアスなポップスは今の時代では”ニッチ”なものになってしまったのかなあとも思いますが、このブログを読んでくださる方の音楽鑑賞生活に少しでもお役に立てればと願っています。みなさんからの追加情報や曲にまつわる思い出などコメントも絶賛募集中です!text by 堀克巳(VOZ Records)

「ドライビング(driving)」エブリシング・バット・ザ・ガール(1990)

 おはようございます。

 今日はエブリシング・バット・ザ・ガールの「ドライビング」です。


Everything But The Girl - Driving (Official Music Video)

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Oh loverboy
To you I belong
But maybe one day you'll wake
And you'll find me gone
But loverboy
If you call me home
I'll come driving
I'll come driving fast as wheels can turn


Oh loverboy
I know you too well
And all of my lonely secrets
To you I tell
The highest of highs
The lowest of lows
I'll come driving
I'll come driving fast as wheels can turn


Stretching away as far as my eyes can see
Deserts and darkness, my hand on the wheel
Loverboy, please call me home
A girl can get lonely out here on the road


You see
Some days I find the old ways
Frighten me too easily
I leave my key and say
I'm too young
But loverboy
If you call me home
I'll come driving fast as wheels can turn

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ああ ラヴァーボーイ あなたのものなの、私は

だけど、たぶんある日あなたが目覚めると 

私がいなくなっていることに気づくわ

だけど ラヴァーボーイ

あなたが家に呼び出したら

車を走らせる 車で駆けつけるわ 精一杯のスピードで

 

ああ ラヴァーボーイ あなたのことは知りすぎている

私の孤独な秘密はみんな あなたに教えるわ

一番最高なことも 一番最低なことも

車を走らせる 車で駆けつけるわ 精一杯のスピードで

 

視界が届くかぎり広がってゆく 

荒野と暗闇 ハンドルを握る私の手

ラヴァーボーイ 私を家に呼んで

女はこんな道の上にいるとさみしくなるから

 

わかるでしょ いつか

昔のやり方が私を簡単に驚かせることに気づくの

鍵を残して、こう言うの 私は若すぎる

でもあなたが家に呼び出したら

車を走らせる 車で駆けつけるわ 精一杯のスピードで   (拙訳)

 

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 エブリシング・バット・ザ・ガールはベン・ワットとトレイシー・ソーンによる男女ユニットです。

 ベンとトレイシーはそれぞれが高校時代に”チェリー・レッド”というレーベルと契約していて、イギリスのキングストン・ハルにあるハル大学に同じタイミングで入学しています。

 

 トレイシー・ソーンの書いた「安アパートのディスコクィーンーートレイシー・ソーン自伝」は彼女の実に率直な語り口が読み物としてもとても面白く、当時のイギリスの音楽シーンの様子もよくわかって、数多あるアーティストの自叙伝の中でもかなり面白いものじゃないかと僕は思っていますが、それによると二人の最初の出会いは大学の校内放送でベンがトレイシーを呼び出したことから始まったそうです。

 

  トレイシーはそれまで”マリン・ガールズ”というガール・バンドをやっていました。


Marine Girls - A Place in the Sun (Official Video 1983)

 ベンと出会った日に、トレイシーは彼の部屋のレコード・コレクションを眺めながら彼女が夢中になっていた二枚のレコードを見つけ、それ以外は全く自分のコレクションとかぶっていないにもかかわらず、後のインタビューで「信じられないと思ったわ。まさに完璧な運命の相手かも知れないくらいに感じたの」と語っていたといいます。

 

 そしてそれ以来、彼らは音楽的なパートナーだけでなく、プライベートでもパートナーとしてのの関係が続いてゆきます。

 

  そして、彼らはコール・ポーターのジャズ・スタンダード「ナイト・アンド・デイ」

でデビューします(この時点では彼らはまだこのユニットでずっとやっていこうとは思っていなかったそうです)。


Night and Day

 そして、この曲をいたく気に入ったのがポール・ウェラーでした。

 パンクの大ファンだったトレイシーにとって、ザ・ジャムを率いていたポールは英雄でした。そしてポールから彼らに電話があり、一緒にセッションすることになります。

 彼はスタイル・カウンシルを準備していて、彼らに何か共通するものを感じたようです。

 そしてスタイル・カウンシルのデビュー・アルバム「カフェ・ブリュ」の「 ザ・パリス・マッチ」と言う曲で、トレイシーがボーカルをとり、ベンがギターを弾くことになります。


The Paris Match

  そして彼らがリリースしたセカンド・シングル「Each and Every One」が全英28位まで上がり、その後この曲が収録されたデビュー・アルバム「エデン」が全英14位のヒットになり、彼らの活動は軌道に乗っていきました。

 

 そして、”パンク以降”の新たなロックのスタイルとして、かつてのジャズやソウルなどを取り入れた知的でセンスのある音楽が人気になり、彼らはその中心アーティストとして支持されていきます。

 

 しかし、そういう音楽は”雰囲気もの”とか”イージーリスニング”と解釈されるリスクもあり、本来パンク・ロックに大きく影響された精神性を持つトレイシーと、独自の美意識があり求道的なベンの二人は、常にそういう葛藤がああったようで、ただの”イージー・リスニング的作品”ならないように歌詞やサウンドにこだわりながら作っていったようです。

 

 特にトレイシーはパンクに強く影響を受け、デビューしてからもスミスのモリッシーに夢中になるなど、彼らの音楽性とはかなりギャップのあるパーソナリティの持ち主です。

 

 しかし、1980年代後半になると彼らは、ロッド・スチュワートの「もう話したくない」のカバーがその当時の彼らの最大のヒット・シングル(全英3位)になり国民的TV番組「トップ・オブ・ポップス」に初登場どころか2度も出演し、音楽ファンからの彼らの見方が大きく変わっていきます。

 

 そして、イギリスの音楽シーンのなかで孤立感を感じるようになり、業界から離れて田舎暮らしを始めたり、トレイシーは大学で英文学の学位を取ろうとしました。

 そんな中、彼らは”アメリカ”に打開策を見出そうと考えます。

 

 「ここまでまだアメリカではヒット曲など出てもいなかったのだけれど、それはつまり、私たちがまだ全然主流などではないということでもあった。しかしイギリスでは少なからず時代遅れでダサい連中だと、それもより広範囲からそんな具合に認知されつつあったという苦境を鑑みれば、この点もまたかえってとことん魅力的であるようにも思われた。」

              (「安アパートのディスコクィーン」)

 

 そして、アメリカのプロデューサー、トミー・リピューマに連絡を入れます。トミーは数年前に彼らをプロデュースをしたいと彼らに連絡してきましたが、ちゃんと返事していなかったのです。

 

 トミー・リピューマ。”洗練された都会的なポップ・ミュージック”の作り手としては史上最高のプロデューサーです。ロジャー・ニコルスクロディーヌ・ロンジェなどのA&Mポップス、ジョージ・ベンソン「ブリージン」、マイケル・フランクス「スリーピング・ジプシー」、、あげたらきりがありませんね。

 

 トミーに連絡すると彼らはニューヨークに呼ばれ、レコーディング・ルームで彼に新曲を演奏して聴かせたそうです。

 「『まあものすごいな』

  最後にトミーはそう言った。

  『では一番いいのを十個選んで始めることにしようか』

  え、そんな簡単でいいの?でもきっとそういうものなのだろう。」

           (「安アパートのディスコクィーン」)

 

 そして彼らはLAに向かい、当時最高のミュージシャン達を集めて制作されたアルバムが「ランゲージ・オブ・ライフ」で、そこからのシングルが「ドライビング」でした。

 ミュージシャンだけではなく、エンジニアがアル・シュミット(ジョージ・ベンソンスティーリー・ダン)、ミックスがビル・シュネー(スティーリー・ダンボズ・スキャッグス)と豪華な布陣で、音質も最高のものを目指しました。

 

 そして、その結果本国イギリスでは、流行からいちだんと外れた音楽として扱われるようになったかわりに、アメリカではアニタ・ベイカーやジャム&ルイスの作品と肩を並べるものだとの評価され、アルバムは初めてアメリカのチャートに入りました(全米77位)。

 

 日本では、当初のネオアコ・シーンから彼らを追ってきた人たちにとってはきっと面白みがなく、かえってAORフュージョンなどを好んでいた人たちからはかなり好意的に迎えられたように思います。

 

 この頃は、日本でイギリスのロックが好きな人は、技術や音質より圧倒的にセンスやオリジナリティのようなものを評価していましたし、アメリカの音楽が好きなのは全体的な完成度を重視するような傾向があったように僕は記憶しています。

 

 ちなみに、1960年代から70年代にかけてはアビーロード・スタジオに代表されるように、アメリカよりイギリスの方がレコーディングの設備、技術が上だったと言われていて、イギリス人が音質や完成度を軽視するなんてことはなかったはずだと思います。

 やはりパンク〜ネオアコのムーヴメントがリスナーの価値観を大きく変えたんでしょうね。

 

 パンクはともかく、ネオアコはポップスと親和性が強いですから、活動を続けていくうちに、どうしても”クオリティ”という壁にぶつかってしまうのだと思います。

 

 音楽としてのクオリティーをより上げていこうとするのはクリエイターとしてはいたってナチュラルなことですし、ただ、そうすることで、当初自分が持っていた”ピュアな何か”が失われてしまうというジレンマがそこにきっとあるのでしょう。

 

 この「ランゲージ・オブ・ライフ」も音のクオリティが高すぎて、ライヴで再現できないという壁にに彼らはぶつかってしまうのですが、そういうトライ&エラーを繰り返してゆく彼らの歩み全体を僕は支持したいなと思います。 

 

 ポール・ウェラーが早々に”ポップ”から撤退してしまったのに対して、彼らはサウンドを変えながらも、ずっと”ポップ”と対峙し続けたわけですから。それだけでも、エライと僕は思ってしまうんです。

 

 作り出すのがかなり大変なわりに、人からついつい軽視される傾向が強い”ポップス”をずっとやり続けるというのは、本当にすごいです。このブログを書きながら、いつも思うことです。

 

 

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