まいにちポップス(My Niche Pops)

令和初日から毎日、1000日連続で1000曲(せんきょく)を選曲(せんきょく)しました(苦笑)。古今東西のポップ・ソングをエピソード、歌詞の和訳、マニアックなネタ、勝手な推理、などで紹介しています。みなさんの音楽鑑賞生活に少しでもお役に立てればうれしいです。みなさんからの情報や思い出話などコメントも絶賛募集中です!text by 堀克巳(VOZ Records)

「DOWN TOWN」シュガー・ベイブ(1975)

 おはようございます。

 今日はシュガー・ベイブの「DOWN TOWN」です。


Sugar Babe - Down Town

 

 山下達郎大貫妙子が在籍し、今のJ-POPのルーツとも呼ばれているこのグループを生み出すきっかけになった場所は、四谷にあったロック喫茶”ディスク・チャート”だったといいます。

 店員だったのは、後にシュガーベイブのマネージャーになる長門芳郎シュガーベイブの母体になるバンドを作ることになる小宮やすゆう。二人は長崎の中学の同級生でバンド仲間でもありました。そして、二人が大好きだったアーティストははラヴィン・スプーンフル。店の入り口には、バンドのリーダー、ジョン・セバスチャンの大きなパネルが飾られていたそうです。

popups.hatenablog.com

 ディスク・チャートは有名なジャズ喫茶”いーぐる”が経営者が始めた店ですが、店でかける音楽は長門と小宮に一任されていました。

 そして、アメリカの良質でセンスのいいポップ、ロックをかけるロック喫茶ができたという噂を聞きつけて人が集まり始めます。

 そのころは、メッセージ性のあるフォークやロックが主流で、洋楽的なポップスを好きな人間は圧倒的な少数派でした。

 ポップな音楽はずっとメジャーな存在だったと思いがちですが、そうではなかったんですね。

 自分のまわりでは同じ音楽の好みを共有できない、そんな少数派の人たちが集い交流する場としてディスク・チャートは機能したわけです。

 そして、当時「三輪車」というフォーク・グループでメジャーデビュー寸前までいった大貫妙子も知人を介して店に来るようになり、彼女の歌を気に入った彼らは閉店後の店内でセッションを始めるようになります。

 セッションの中心は、当時まだ大学生で後に名セッション・ギタリストとして名をはせる徳武弘文だったそうです。

 そして、そのセッションに後に加わるのが山下達郎です。彼も、またビーチボーイズなど良質なポップスをかける店があることを聞きつけてきたやってきた一人です。

 当時彼は「Add Some Music To Your Day」というA面がビーチボーイズ、B面がドゥー割賦やロックンロールのカバーをしている自主制作盤を作っていて、ディスク・チャートに持っていったそうです。

 ディスクチャートでこの自主盤を手に入れた長門の知り合いの女の子が、高円寺のロック喫茶「ムーヴィン」でかけたところ、店にいた伊藤銀次が興味を持ち、それを大瀧詠一に聴かせ、そして大瀧が山下に会いたいと言い出し、二人は出会うことになります。

 ポップ・ミュージックを作ってきたのは特別に秀でた才能の持ち主たちです。しかし、才能は孤立して機能するものではなく、さまざまな化学反応が必要です。そのためには”磁場”が必要で、媒介となる人が欠かせません。

 ディスクチャートは1972年の10月開店後73年春、わずか半年で閉店したといいますから、シュガーベイブを生み出すために作られた磁場だった、とすら考えられます。

 また、長門芳郎は、その後細野晴臣ピチカート・ファイヴのマネージメントを手掛けるなど、媒介者として日本のポップス史に大変重要な役割を果たします。そのあたりは、彼の回想録「パイド・パイパー・デイズ」に詳しいです。

 また、小宮やすゆうのサイトのコラムにも興味深い話がたくさん載っています。

  ( 僕のこの記事も二人の書いたものを参考にしています。)

 

 あっ、音楽そのものについて全然ふれていませんでした。

 このシュガーベイブが一枚だけ残したアルバム「SONGS」の、最も大きな特徴は大瀧詠一がエンジニアを務めたということでしょう。

 彼は自分がいたバンド”はっぴいえんど”がアメリカでレコーディングをした際に、そこで見聞きした経験を活かそうとしました。当時はロックのレコーディングやミキシングのやり方を知る日本人はほとんどいませんでした。

 この数ヶ月後に倒産してしまうという、大手ではないレコード会社で、低予算で作られたため、録音環境はかなりひどかったようです(機材には差押え予告書が貼ってあったそうです、、)。

 しかし、シュガーベイブが憧れ目指した洋楽のサウンドに誰よりも詳しく、その”音像”を理解していた大瀧詠一がエンジニアをやることで、いわば”ガレージ・ポップ”のハシリともいうべきサウンドになり、発売から40年たっても時の試練に耐えうるものになったと、山下本人は語っています。

 ちなみに、僕自身は「愛を描いて」(1979年)で山下達郎を知り好きになり、そこからさかのぼってシュガーベイブを聴いたのですが、当時は「愛を描いて」や「RIDE ON TIME」に比べると、曲はポップだけどサウンドのクオリティが低いなあ、と正直思いました。

  しかし、今聴くと、いっさい”手垢”を感じないような音と空気感は、永遠の鮮度を保っているように思えます。不思議なものです。

 

 さて、このシュガーベイブの最も有名な曲「DOWN TOWN」はもともとコーラス・グループ、キング・トーンズのために書かれた曲だったようです。

 キング・トーンズが当時、若い作家とプレイヤー(キャラメル・ママ)でアルバムを作ろうという企画になり、山下達郎伊藤銀次がそのために曲を書き提出したのですが、曲を作ったのは彼らしかいなくて最終的にこの企画自体がなくなってしまい、もったいないのでシュガーベイブでやろうということになったのです。

 

 伊藤が「ダウンタウンにくりだそう~」というサビまで作っていたところ、山下と連絡を取るうちに一緒に作ろうということになり、サビ以外のメロディは山下が作り、歌詞は伊藤が書いたそうです。

   伊藤の最初のイメージとなったのはペトゥラ・クラークの「恋のダウンタウン」でサウンドはフォートップスの「I Just Can't Get You Out Of My Mind」だったそうです、が、山下がそのころ夢中になっいたのがアイズレー・ブラザースということで「If You Were There」(ワム!もカバーしてますね)がモチーフになったようです。


恋のダウンタウン/ペトゥラ・クラーク


Four Tops - I Just Can't Get You Out Of My Mind


IF YOU WERE THERE - Isley Brothers

 ちなみに

 ”七色の黄昏~”と”シャボン玉のように~”という歌い出しの歌詞は

 ”七色の虹が消えてしまったの シャボン玉のようなあたしの涙”

 という歌詞の日本のムード歌謡の大定番「ラブユー東京」をモチーフにしたそうです。


黒沢明とロス・プリモス「ラブユー東京」

 山下達郎のレパートリーの中で「Down Town」について僕はちょっと異質な感じをずっと持っていたのですが、サビのメロディを書いたのが伊藤銀次だったからなんですね。

    ふたりの様々なアイディアを融合させることにより、個性的なスタンダード・ポップスになったわけです。

  

 最後は、この曲の再評価に大きく貢献したEPOのカバーを。

www.youtube.com

 

 

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