まいにちポップス(My Niche Pops)

令和初日から毎日、1000日連続で1000曲(せんきょく)を選曲(せんきょく)しました。。。古今東西のポップ・ソングのエピソード、洋楽和訳、マニアックなネタ、勝手な推理、などで紹介しています。キャッチーでメロディアスなポップスは今の時代では”ニッチ”なものになってしまったのかなあとも思いますが、このブログを読んでくださる方の音楽鑑賞生活に少しでもお役に立てればと願っています。みなさんからの追加情報や曲にまつわる思い出などコメントも絶賛募集中です!text by 堀克巳(VOZ Records)

「う、ふ、ふ、ふ、」EPO(1983)

 おはようございます。

 今日はEPOの「う、ふ、ふ、ふ、」です。

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 ポップスというのは基本的に明るく親しみやすいものですから、そういうものの宿命として大衆から”軽んじられやすい”ものでもあります。そこで、いやいや、キャッチーなポップスというのは相当な能力と手間と苦労が必要で、ちょっと特別な資質の人間じゃないと作れないものなのだということを、声高に言いたくてこのブログを書いているという面もあるのです。

 

 しかし、そんなことを言っている僕も、当時はちょっと軽く見てしまっていたな、と思うアーティストがいて、EPOがまさにそうでした。

「う、ふ、ふ、ふ、」に代表される、彼女のはじけきったポップスは、ちょっとまぶしすぎるというか、少しくらい屈託があってもいいんじゃないかなどと思ったものですが、あらためて彼女の作品を聴いてみると、ソングライティング、ボーカル、コーラスワークどれもクオリティが本当に高くて、当時ちょっと軽んじてしまっていたことを反省しています、、。

 

 

 ここで、彼女のプロフィールをざっくりと。

 EPOというアーティスト名は、小学校の時の友達が彼女の本名の「榮子(えいこ)」を"えぽ”と言ったことがそのままニックネームになった、ことからきているようです。

 もともと、カーペンターズや、彼女たちの曲を書いたロジャー・ニコルズなどA&Mポップスが好きで、高校時代に組んでいたバンドがニッポン放送のコンテスト番組で優勝したことから、関係者の注目を集めます。

 推薦で入学した東京女子体育大学に通いながら、夜はコーラスなどの仕事をするという生活を送ります。1979年には、竹内まりやの「SEPTEMBER」のコーラス、大瀧詠一のCMソング「大きいのが好き」(コーラスはシャネルズ。「Pap-pi-doo-bi-doo-ba物語」野元曲)のボーカルなどをやっています。

 

 そして、1980年にシュガー・ベイブの「DOWN TOWN」のカバーでデビューします。 

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 思い出してみると、彼女は体育大学生というプロフィールが異色だということでしょう、デビュー時から体育系というのをけっこう打ち出していました。

大瀧詠一は最初に彼女を紹介されたときに”スポーツ・ウーマン”という触れ込みがあったと回想しています)

 当時、彼女のいたレーベル(RVC)には大貫妙子竹内まりやがいて、彼女を入れて”3人娘”もしくは”3人姉妹”っぽく打ち出されていました。体育系であることは、アーティスティックな大貫、英語が堪能で才女っぽい竹内、とキャラが対照的であるのはよかったのでしょうが、その分アーティストっぽさが少し薄まって伝わったようにも思えます。

 

 このころのことを彼女はこう回想しています。

 

「あの頃は『音楽はスポーツだ』みたいなイメージもありましたよね(笑)。確かにそれも私の一部ではあるんですけど、でもそれだけじゃない。本来、自分らしさを表現するのが音楽であるはずなのに、自分らしくないことを園児なかればいけないことにものすごく苦痛を感じていたんです。『それも私だけどこれも私』っていう風にバランスよく打ち出せればよかったんでしょうけど、当時の私にはそれができなかった」

 (「昭和40年男」2014年2月号)

 

  彼女の曲が最も大衆に浸透したのはこの曲と、一つ前のシングルで「オレたちひょうきん族」のテーマにもなった「土曜の夜はパラダイス」がリリースされた、1982~3年でしょう。

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 この曲も「う、ふ、ふ、ふ、」もケチのつけどころのない、完全無欠なポップソングだと思いますが、彼女にとっては”自分らしくないことを演じていた”ものだったんですね。

 とはいえ、彼女はその後もタイアップに見事に応えるようなキャッチーなポップスを作り続けていきます。

 

 この時代のEPOの音楽に欠かせないのが、編曲家の清水信之です。上記の2曲のアレンジも彼によるものです。この時代の編曲家では大村雅朗とともに、個人的にはとても好きな人ですが、特にEPOとの音楽的な相性はものすごくよかったように思います。

 

  1980年代後半から、レーベルをミディに移籍して、”明るく健康的”だけではない彼女の音楽性も発揮されていきます。個人的には、この頃やっと彼女の才能に気づいて、作品をチェックしていました。

 シングル「音楽のような風」、日本のポップスのカバー集「POP TRACKS」、ロンドンのクリエイターと組んだ「FREE STYLE」など、好きで聴いていました。

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 1992年のアルバム「WICA」からは、音楽性を大きく転換し、アコースティックで精神的でヒューマンな歌を歌うようになっていきます。そして、活動拠点も沖縄に移します。

 僕は90年代に彼女が日本のブラジリアン・ギターの第一人者である笹子重治ショーロ・クラブ)さんとデュオでライヴをやっているのを観たことがありますが、1980年代にコマーシャルなポップスをやっていた彼女のイメージとは随分違うものでした。

 

 それは、やはり80年代に苦しみながら作り続けたポップスに対する反動なのでしょうが、それ以上に深い問題を彼女がかかえていたことを、一昨年の雑誌のインタビューで語っています。その記事は彼女の名前で検索するとすぐに出てきますが、そういう問題を抱えながら、あんなに明るく弾けるようなポップスをずっと書き続けていたかと思うと、正直言葉が出なくなります。

 こうやってポップスのブログを書いている人間として思うのは、本当に明るくて魅力的なポップスは、ただポジティヴな心からは絶対に作れないんだな、ということです。

 やっぱり、暗い場所から見える明るい場所への憧れ、そういうことがよくわかる人にだけ作れるのかもしれません。

 

 2010年に彼女は土岐麻子資生堂のCM曲を書き下ろして、ポップスのソングライターとしての才能をあらためて認知させています。

 

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 そして、その流れを受けて、彼女が長く封印してきた80年代の代表曲も解禁した”ヒット・パレード・パラダイス”と銘打ったライヴを続けているそうです。

 

 最後は、最近のシティ・ポップ・シーンで人気があるという彼女の曲を。1980年のセカンドアルバム「GOODIES」に収録されていた「雨のケンネル通り」です。

 

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