おはようございます。
今日は大瀧詠一「恋するカレン」。昨日このブログでセレクトしたザ・ウォーカー・ブラザーズの「太陽はもう輝かない」を聴くと、必ず思い出してしまうのはこの曲です。
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「恋するカレン」は「太陽はもう輝かない」のアレンジのテイストを”意図的に”使っています。ただし、”元ネタ”という短絡的な表現は当てはまらないように思います。
全体的なサウンドの”トーン”のひとつに選んだ曲、とでもいいますか。
彼は、1曲の中にいくつもの楽曲の要素を取り入れていて、その”引用”を見つけ出すのが”大瀧ファン”の楽しみにもなっています。表面上は、洋楽好きならわりと気づきそうな曲であっても、その奥にいくつもの曲が忍ばされているわけです。”その仕掛けの全部は誰にもわからないだろう”とご本人は多分思っていたのでしょうけど、実際全然わからないんですよね(苦笑。
ともかく、「恋するカレン」にとっての「太陽はもう輝かない」は、ポップス・ファンにわかるようにわざと表面に置いた、一番わかりやすい仕掛けということなのでしょう。
彼は「A LONG VACATION」で2曲だけ自分流のフィル・スペクター・サウンドにトライしていて、1曲が「君は天然色」でもう1曲がこの「恋するカレン」でした。
「君は天然色」はスペクターの「ダ・ドゥ・ロン・ロン」の要素はありながら、スペクター・フォロワーのロイ・ウッドの「シー・マイ・ベイビー・ジャイヴ」のアレンジを引用したりしていました。
「恋するカレン」も、本家スペクターの曲じゃなく、スペクター・サウンド・フォロワーであるザ・ウォーカー・ブラザーズの曲をメインにおいているわけです。
そこには、自身もまたフォロワーであるという客観的な視点があったのかもしれません。
それに加えて、彼はウォーカー・ブラザーズを大変評価していました。
「ブライアン・ウィルソンだって、ちゃんとやろうと思ったんだろうけど、全然できなかったんだね。なんで、そういう音にならないんだろうと。
<中略>
だから不思議なことに、まるで関係のないウォーカー・ブラザーズ が、ブライアンができなかったサウンドをイギリスでやったわけだよ。だからウォーカー・ブラザーズはまあ、俺の前身みたいなもんだなと思うね」
「日本で最初に受け入れられたスペクター・サウンドはウォーカー・ブラザーズということになるね」
(「フィル・スペクター/甦る伝説」日本版特別解説対談 より)
フィル・スペクターが、アレンジャーのジャック・ニッチェとエンジニアのラリー・レヴィンと一緒にゴールド・スター・スタジオだけにしかない独自の”エコー”を使って作り上げた”純正なもの”だけじゃなく、数多くのアーティストが試行錯誤してトライした”スペクター風のもの”への親愛の情も含めて”ウォール・オブ・サウンド”としたようにも思えます。
ちなみに「恋するカレン」の歌メロに引用されているものとしては、この2曲があがっています。
デイヴ・クラーク・ファイヴ「Hurting Inside」
Dave Clark Five : Hurting Inside
Arthur Alexander「Where Have You Been All My Life」
大瀧詠一は「恋するカレン」はライチャス・ブラザーズの「ふられた気持ち」などを書いたバリー・マンとシンシア・ワイルの曲を念頭に置いていたことはファンにはよく知られていますが、「Where Have You Been All My Life」はマン=ワイルの作品です。
この曲を歌っているアーサー・アレキサンダーはベン・E・キング(ザ・ドリフターズ)を敬愛するシンガーで、そのラインを狙って作られたものです。
フィル・スペクターはジェリー・リーバーとマーク・ストラーという作家チームの元で見習いとして働き、彼らが手がけるベン・E・キングやドリフターズのレコーディングで学んだことが”ウォール・オブ・サウンド”に繋がっていると言われています。
そして、マン=ワイルは、フィル・スペクター作品の重要な作家チームのひとつになりますし、のちにドリフターズに「オン・ブロードウェイ」という大ヒット曲を提供します。
そういうフィル・スペクターがらみの”因果”があるからこそ、彼は意識的にこの曲を使ったのだと思います。
あと、マン=ワイルの作品では、サビのコーラス感にこの曲のニュアンスが”ほのか”ですが感じます。
Rock and Roll Lullaby - B.J. Thomas 1972
でも、僕は「恋するカレン」の曲調を決める重要な”たたき台”となっているマン=ワイルの作品はこれじゃないかと思っています。ネットを見る限り、同じ意見を言っている人がいないのですが、、、。トニー・オーランドの「Bless You」。1961年全米15位まで上がったヒット曲です。
彼はマン=ワイルは、キャロル・キング&ジェリー・ゴフィンやエリー・グリニッチ&ジェフ・バリーという同時代のライバル・ヒット・チームと比較した特徴は”歌謡”だと言っています。だから「A LONG VACATION」の中で「恋するカレン」の人気が高いのは、”歌謡”のマン=ワイル色が強いからだと自己分析しています。”歌謡”のところを突かないと日本ではドメスティックなヒットは出ないとも語っています。
また、彼は「A LONG VACATION」はどんなアルバムかとたずねられて、”青春歌謡”だと彼は答えたと言います。その中でも最も「歌謡」が強い曲が「恋するカレン」だった、ということができるでしょう。
と、そこで、ここまでくどくどと知ったかぶりをして書いてきた僕はふと考えはじめます。
この曲を初めて聴いたときのことを。1981年、高校1年生の春休みでした。当然、彼が「恋するカレン」で引用した洋楽の曲など1曲も知りませんでした。だいたいそんな知識は必要なかったですし。ただただ夢中になって何度も何度も聴いたものです。たぶん、好きな女の子のことを思い浮かべながら。”青春歌謡”とはきっとそういうものですよね。
「恋するカレン」に繋がる古い洋楽を探るのは、マニアの楽しみでもありますが、当然、彼自身はマニアックな引用を組み合わせた曲を作ること自体が目的ではなかったはずです。
彼は、尋常じゃない知識量と分析力、そしてユーモアと巧みな弁舌でもって、十代の自分に大きな影響を与えた音楽と、その音楽を聴いた時の心震えるような感覚を、生涯かけて大事に守り抜いた人だったのじゃないかと僕は思います。
僕がそう思う理由のひとつに彼のこんなエピソードがあります。
大瀧が中学を卒業するころ、洋楽なんか聞きそうにもない、しかも彼と一度も話したことのないクラスの女の子が彼のところに来て「わたし、これ買ったの」と言って見せたのがロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」だったそうです。
そのことを後になって彼はこういう風に受け止めるのです。
「これがあなたの将来。これをモデルにしてつくるのよ」という意味のことを、先にその人に言われていたのかもしれない。リチャード・マシスンの「ある日どこかで」(映画化もされた、タイムトラベルもののラヴ・ストーリー)みたいに、組み込まれていたストーリーだったのかって」
(「フィル・スペクター/甦る伝説」日本版特別解説対談 より)
ポップ・ミュージックがもたらす”ロマンティックな感覚”(安易な表現しかできず歯痒いですけど)をずっと心に持ち続けた人なんですね、きっと。
「洋楽を聴いた時の”なんとも言えない感じ”を再現したくて曲を書いた」と言っていたのは小田和正ですが、大瀧はそれを、もっと純度を高め、細部まで徹底して突き詰めたのではないでしょうか。
彼が後年、長い間新しい作品を作らなかったのも、十代で洋楽に夢中になった自分を守り抜くためであり、それを「A LONG VACATION」をはじめとする作品でそれを結実させることができたからだと僕は想像しています。
自分の音楽を時代に合わせてアップデートさせることは、音楽ファンである自分にとって何か大事なことを損なう可能性が高い。それよりもすでに”自分の音楽の核”を形にさせた作品を、定期的に音質を見直してリイシューし、新しい時代の人たちに聴いてもらうことを選んだのではないかと僕は考えます。
彼が洋楽を聴き始めた頃から”はっぴいえんど”時代、そして自分でナイアガラ・レーベルをやっていた時代まで、ポップス好きというのはずっと”マイノリティ”だったわけで、世間や音楽業界の中で、極端な言い方をすればポップスへの愛情を”隠れキリシタン”のように、秘かに守り続ける必要があったのではないでしょうか。
だから思い切った”ど真ん中のポップスや歌謡を彼はなかなかできなかったはずです。
「恋するカレン」は、そんなダイレクトな表現方法を避け続けて来た彼が、思い切って”歌謡”というスタイルをとったことで、彼が大事に守って来たもの、青春期にポップスを聴いて感じた心の震えのようなもの、までも聴き手が共感できたような気持ちにさせてくれる、そんな曲になったのだと僕は思います。