おはようございます。
今日も筒美京平作品を。桑名正博の「哀愁トゥナイト」です。
これは桑名正博のソロ・デビュー・シングル。彼はそれまでは、地元大阪でファニー・カンパニーというバンドを組んでいて、矢沢永吉率いるキャロルと比肩される存在として”東のキャロル、西のファニカン”と呼ばれていました。ロックを日本語で歌うことを様々なアーティストが試行錯誤している黎明期、そんな時代にあって、桑名は日本語でロックを見事に歌いこなす大変貴重な存在として、かなりの評判になっていたようです。
興味深いのは、矢沢永吉が貧乏から這い上がった”成り上がり”だったのに対して、桑名は今のユニバーサルスタジオ・ジャパンのある土地をもともと持っていたというほどの、歴史ある大会社の長男だったそうで、音楽に対してもガツガツした感じはなく、両者のキャラは対照的だったのです。
ちなみに、ファニー・カンパニーの他のメンバーも社長や医者の息子といったボンボン揃いだったそうです。
言い方が難しいですが”ボンボンの不良”というのは、ハングリーな不良には持ちえないような独特の魅力というか色気があるもので、桑名の歌にはそういうものがあるように僕は感じていました。
話を戻しますが、1976年に彼は「Who Are You?」というアルバムでソロデビューし、全曲自身で作曲しています。しかし、当時は日本のロックはまったくマイナーな存在で、歌謡界全盛の時代でしたから、そこで勝負をかけようということになり、筒美京平に曲を依頼することになります。
作詞は、当時筒美とタッグを組み始め、桑名の「Who Are Tou?」でも1曲歌詞を書いていた松本隆が手がけることになり、生まれたのがこの「哀愁トゥナイト」でした。
そして演奏陣には当時サディスティックスとして活動していた高中正義、高橋幸宏、後藤次利が参加しています。
「昭和歌謡職業作曲家ガイド」(馬飼野元宏監修)という本ではこの曲を
「筒美にとっての歌謡曲とロックの初融合作品である」
と評していますが、日本の音楽シーン全体としても、歌謡曲とロックの人材が完全にクロスオーバーし作品にもそれがはっきりと反映された最初の曲ではないかと僕は考えています。
この「哀愁トゥナイト」の20日後にはチャーが阿久悠の作詞による「気絶するほど悩ましい」をリリースしています。そして、その年の後半には、松本隆が作詞を手がけた原田真二、歌謡性の強いロックを生み出した世良公則&ツイストがデビューし、そのあたりから一気に歌謡曲とロックの垣根が崩れ融合していったと僕は記憶しています。
「哀愁トゥナイト」を発表した時に、かつてのファニカンを知る人から相当反発を買ったようです。
当時の担当プロデューサーいわく
「夜中の2時頃に電話が鳴りまして、「お前、桑名を歌謡曲歌手にするつもりか!」って内田裕也さんからかかってきたんですよ。ああ、また酔っ払って電話がかかってくるんだと思って。歌謡曲とかなんとか関係ないじゃないですか! って言ったら、この裏切り者めって言うんですよ」
(FM COCOLO『J-POP LEGEND FORUM』DJ田家秀樹 ゲスト寺本幸司)
「哀愁トゥナイト」自体は、期待したほどのヒットにはなりませんでしたが、桑名は筒美、松本コンビの曲を歌い続け、ついに「セクシャル・バイオレットNO.1」(1979)
でオリコン1位を獲得するわけです。
「セクシャル・バイオレットNO.1」はロッド・スチュワートの「アイム・セクシー」に通じるようなディスコ・ロックですが、その雛形はすでに「哀愁トゥナイト」で出来上がったことがわかります。
「哀愁トゥナイト」は歌謡曲とロックの融合だけじゃなく、ディスコのノリも加わっているの大きな特徴でした。
筒美は1976年に「セクシー・バス・ストップ」を始めとしてディスコものを精力的に制作していたので、その勢いのようなものがこの曲にも反映したのかもしれません。
結果として、「アイム・セクシー」やドナ・サマーの「ホット・スタッフ」などの本場のディスコ・ロックよりも先に同様なスタイルを生み出すことになったわけですから、面白いものです。
しかも、松本・筒美コンビに編曲が萩田光雄という太田裕美の「木綿のハンカチーフ」と全く同じ布陣で、こんな真逆なスタイルの曲を作り上げたわけですから、この当時のプロの腕にはただただ驚くばかりです。
最後におまけとして、この「哀愁トゥナイト」のシングルのB面曲「さよならの夏」を。こちらも「哀愁トゥナイト」とまったく布陣で製作されています。
今聴いてみると、以前にこのブログでとりあげた「夏のクラクション」を先駆けになっているような曲だったのだと気づきました。