おはようございます。
今日はルーサー・ヴァンドロスの「ネヴァー・トゥ・マッチ」を。
Luther Vandross - Never Too Much (Official Video)
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自分を偽ることなんかできない
他の誰かに愛されたいとも思わない
君は輝く星、導く光、愛のファンタジー
いつ何時でも昼も夜も 君を愛していない時はない
君は僕のリストのトップさ だっていつも君のことを考えているんだから
君に触れることを怖がっていた頃を今もおぼえている
どんな風に君に愛を告げようか夢見て過ごしていたよ
潜れそうなほど深いところにある僕の想いに気づいていたんだね
君は心を開いて いらっしゃいと言ってくれたんだ
愛する人よ
1000回キスしてくれても 決して多すぎやしない
止めたくないんだ
愛する人よ
君の腕の中に 100万日いたとしても
決して多すぎやしない 止めたくないんだ
今日めざめたら まずスタートするために君の写真を見つめた
君に電話したらいなかくて がっかりしたよ
受話器を置いた 遅れるわけにいかない 上司がうるさいんだ
ドアを開けたら 驚きさ 君がそこにいた
金のためにあくせく働かなきゃいけないのか?
それより君といたいよ だって君は僕の心を騒がせるんだ
愛はギャンブル、僕は勝っているから嬉しいよ
二人長い道のりをやってきたけど まだまだ始まったばかりさ
愛する人よ
1000回キスしてくれても 決して多すぎやしない
止めたくないんだ
愛する人よ
君の腕の中に 100万日いたとしても
決して多すぎやしない 止めたくないんだ (拙訳)
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僕が一生懸命、アメリカのヒットチャートを追っかけていたのは、1970年代後半から1980年代前半のことでしたが、そのころはポップ・チャートとR&Bのチャートは中身がまったく別のものでした。
いまは、HIPHOPやR&Bのアーティストが普通にポップ・チャートの上位を占めていて、かなり重なり合っていますが、この頃はマイケル、プリンス、スティーヴィー・ワンダー、ライオネル・リッチーなど、ポップとクロスオーヴァーしたほんのひと握りのアーティストだけが、両方のチャートの上位に入ることができました。
その当時、ポップ・チャートではそこまで上位には行かないのに、R&Bチャートではめっぽう強いというアーティストがいて、その筆頭の一人がルーサー・ヴァンドロスでした。
そして、彼のデビュー作である「ネヴァー・トゥ・マッチ」は、1980年代のR&Bの指針となる大変重要な作品になりました。
ちなみに、昨年アメリカの音楽業界では、いわゆる商業ベースのR&Bを指すジャンル名”アーバン(Urbun)・コンテンポラリー”の”アーバン”という言葉が黒人への差別にあたるとして、ジャンル名が廃止する動きにつながりました。
日本人は”アーバン”というと昔から大抵おしゃれな都会をイメージしますが(小洒落たマンションの名前によく使われていましたよね)、アメリカでは時が経つにつれて、貧しいゲットーなどをイメージさせるネガティヴな要素の方が強い言葉になっていたんですね。
この「ネヴァー・トゥ・マッチ」は、”アーバン”というワードにまだネガティヴな意味合いなどなくて、都会の摩天楼の輝きが頂点に達していた時代の、まさに”アーバン・コンテンポラリー”というジャンルの”金字塔”だったと僕は思います。
ルーサー・ヴァンドロスはニューヨーク、マンハッタンのロウアー・イースト・サイドに生まれ、幼い頃からR&Bのガール・グループや女性シンガーばかり聴いていたそうです。
最初に好きになったのは、昨日このブログに登場したキャロル・キングとジェリー・ゴフィンが書いた「ウィル・ユー・ラヴ・ミー・トゥモロウ」を大ヒットさせたシュレルズだったそうです。
その後、ディオンヌ・ワーウィック、ダイアナ・ロス&スプリームス、アレサ・フランクリンなどを聴くようになります。
そして,ディオンヌが「エニワン・フー・ハド・ア・ハート」(バート・バカラック作)をライヴで歌うのを聴いて、音楽の道に進む決意をしたそうです。
*バカラック本人が紹介する貴重なディオンヌの映像
1971年大学を卒業した彼は、アーティストになるために昼間働き、夜はクラブで歌ったり、セッションのバックアップ・シンガーの仕事をやるようになります。
そして、彼を最初に見出しチャンスを与えたアーティストは、なんとデヴィッド・ボウイでした。
ボウイのアルバム「ヤング・アメリカンズ」(1975)のレコーディングに参加した知人のギタリストがコーラスとして彼を紹介し、現場でコーラスのアレンジのアイディアを出すルーサーをボウイが気に入り、アルバムのコーラス・アレンジを彼に全て任せ、1曲彼と共作までしたのです。
ボウイのTVパフォーマンス。コーラスの一番左がルーサー。
ボウイと共作した「ファッシネイション」。ルーサーが作った「ファンキー・ミュージック」という曲を元にして作られたそうです。
知名度の上がった彼は、自分をメインとする5人組グループ”ルーサー”を結成し、レコードデビューを果たします。
最初のシングル「イッツ・グッド・フォー・ソウル」はソウル・チャート28位とまあまあの結果を残します(ボウイの「ファッシネイション」の元曲「ファンキー・ミュージック」もファースト・アルバム「ルーサー」に収録されています)。
しかしその後が続かず、もう一枚アルバムを出してルーサーは解散、彼はまた、バック・コーラスに戻ることになりました。
時はまさにディスコ・ブームでした。彼は引っ張りだこで”キング・オブ・セッション・シンガー”とまで呼ばれるようになります。
クインシー・ジョーンズの「スタッフ・ライク・ザット」にヴォーカルとして参加したり、また”チェンジ”というコンセプト・グループのメイン・ヴォーカルをつとめたりと、だんだんソロ・アクトにつながるような仕事も現れます。
ルーサーが チェンジのヴォーカリストとして参加したダンス・クラシックス「The Glow Of Love」
そこで、彼がソロ・アーティストとして一歩を踏み出す大きな後押しをしたのがロバータ・フラックでした。
古くから彼にバック・コーラスをやってもらっていた彼女は、ピーボ・ブライソンとのツアーで再び彼に声をかけます。そして、そこで彼はベースで参加していたマーカス・ミラーと出会います。そして、意気投合した彼らは一緒に曲を作り始めたそうです。
また、ロバータが1981年に「Bustin' Loose」という映画がらみのアルバムを作った時に、ルーサーとマーカスが参加し、ルーサーは「You Stopped Loving Me」という曲を書き下ろしました。
Roberta Flack - You Stopped Loving Me
当時の彼は売れっ子のセッション・シンガーになって、収入も増え満足していたそうです。しかし、この曲のレコーディングが終わった時にロバータは彼を問い詰めたのだそうです。
「彼女は言ったんだ”ルーサー、あなたはその椅子に心地好さそうに腰掛けて”ウー”とか”アー”とか歌ってるけど、あなたは立ち上がって、自分自身のキャリアを始めなきゃダメよ、私が協力してあげるから”。僕が自分のキャリアをスタートさせることができたのは、ロバータひとりのおかげなんだよ」
(The Washington Post 2001年11月9日)
そして、マーカスと一緒に作ったデモテープが認められ、キャリア10年目にしてようやくソロ・デビューを果たしたのです。
そして、「ネヴァー・トゥ・マッチ」はポップチャートでは33位でしたが、R&Bチャートでは1位、アルバムもR&Bチャートで1位、最終的に200万枚以上売り上げ、グラミー賞の新人賞とR&B男性ヴォーカルにノミネートされるまでに至りました。
彼のファースト・アルバム「ネヴァー・トゥ・マッチ」には、彼のデビューのきっかけになったロバータ・フラックに書いた「You Stopped Loving Me」のセルフ・カバーが収録されている他、彼のアイドルであったディオンヌ・ワーウィックの「ア・ハウス・イズ・ノット・ア・ホーム」(もちろんバート・バカラック作)も収録されています。ちなみに、バカラックは「ア・ハウス・イズ・ノット・ア・ホーム」はルーサーの歌唱がベストだと言っています。
Luther Vandross - A House Is Not A Home