おはようございます。
フレンチ・ポップ特集(?)、今日はフランソワーズ・アルディの「さよならを教えて」です。
Francoise Hardy - Comment te dire adieu
「さよならを教えて」は、アメリカで作られた「It Hurts to Say Goodbye」という曲がオリジナルなんです。
アーノルド・ゴーランドとジャック・ゴールドが書き、1966年にアメリカのポピュラー/カントリー歌手のマーガレット・ホワイティングが最初にリリースしました。翌1967年にはイギリスの歌手/女優のヴェラ・リンのカバー・バージョンがヒットしています(ビルボード・イージーリスニング・チャート7位)。
(ちなみにヴァラ・リンは今年の6月103歳で亡くなっていますが、92歳でイギリスのアルバム・チャートの1位を獲得したという最高齢記録を持っているほどの人です)
お聴きの通り、もとはドラマティックな王道バラードだったんです。
しかし、フランソワーズ・アルディが興味を持ったのはマーガレットやヴェラのヴァージョンではありませんでした。
この曲の作曲者アーノルド・ゴーランドが1967年にリリースしたシングルのB面に収録されていたインスト・ヴァージョンだったのです。
St Tropez Since 1967 - Arnold Golan - It Hurts To Say GoodBye
この曲をインストでしかも軽快なリズムにアレンジすることに関してはブラジルのオルガン奏者ワルター・ワンダレイのほうが早かったようなので、ワルターのアレンジを聴いてアーノルドがインスパイアされたという可能性もあります。
It Hurts To Say Goodbye (Comment Te Dire Adieu) - Walter Wanderley 1967.wmv
しかし、アメリカで全くヒットしていないインスト・シングルの、しかもB面をチェックするとは、彼女はかなりマニアックなルートを持っていたんですね。
ともかく、彼女はアーノルドのインストを聴いてキャッチーでいいと思ったそうですが、でも歌詞を書く気になれないので彼女のエージェントに相談したところ、セルジュ・ゲンズブールに頼むのがいいんじゃないかということになり、彼に連絡して了解してもらったという流れだったようです。
ちなみに、アーノルド・ゴーランドという人が、興味深いプロフィールの持ち主で、
フィル・スペクターのアレンジャーをやっていたんです。フィルがフィレズという自分のレーベルを立ち上げたばかりのころ、ジャック・ニッチェと組む直前のタイミングです。作品で言うと、クリスタルズのファースト・アルバムのすべてと、セカンドの一部です。
また、クリスタルズのシングル2曲のB面で彼の作品名義のインストが入っていますが、これはただ彼に印税をプレゼントするためのもの、という可能性もあります。フィル・スペクターの最初の結婚式でフィルの介添人までやっているそうなので。
他にはジェイ&ジ・アメリカンズのヒット曲「カラ・ミア」は彼のアレンジです。
もうひとりのソングライター、ジャック・ゴールドもキャリアの豊富な人で、この頃ではバーブラ・ストライザンドの「クリスマス・アルバム」(1967)のプロデュースをやったりしていますが、”ジャック・ゴールド・オーケストラ&コーラス”という名義で
この曲もやっています。
***** Jack Gold Orq. y Coros - It Hurts to say Goodbye 1969 *****
こちらは1969年なので、フランソワーズ・アルディのヴァージョンを聴いてジャックは、自分が作詞をした英語でもやってみようと思ったんじゃないでしょうか。
それからゲンズブールの歌詞に関してですが、タイトルの「Comment te dire adieu」は英語にすると”How can I say goodbye”といった意味らしいので、「It Hurts to Say Goodbye」のインストだけじゃなく歌詞入りヴァージョンを当然知っていたように思います。
もしくは、1967年にカナダのシンガー、ジネット・リノが「Avant de dire adieu」というタイトルのフランス語版をリリースしたので、そのヴァージョンを聴いたのかもしれません。ちなみに「Avant de dire adieu」は”Before Saying Goodbye"といった意味のようです。
「さよならを教えて」のプロフィールが興味深くて、ついつい深追い(?)してしまいましたが、最後にフランソワーズ・アルディのプロフィールを簡単に。
彼女はシルヴィ・ヴァルタンと同じ1944年生まれで、デビューアルバムも二人とも1962年にリリースしています。
パリの9区で育ち、両親が別居して経済状況もよくなかった彼女は英語圏のラジオを聴いたりギターを弾くことにに夢中になりました。ソルボンヌ大学で1年過ごした後、若い歌手を探しているという新聞の広告を見て応募、レコードレーベル「ヴォーグ」と契約を結びます。
彼女が作詞作曲(ロジェ・サミンが作曲に協力)したデビュー曲「男の子女の子(Tous Les Garçons Et Les Filles)」がいきなり100万枚の大ヒットになります。
この曲が収録された同名のデビューアルバムはアメリカで発売された時には「 The "Yeh-Yeh" Girl From Paris! 」というタイトルになっていたそうで、まさしく、シルヴィ・ヴァルタンらとともに”イェイェ”を象徴するアーティストと目されていました。
しかし、この”イェイェ”時代の音楽は、彼女にとって大変不本意なものだったらしく(当初からシルヴィやフランス・ギャルほど弾けていなかったのですが)、1960年代後半から、アーティスティックなシンガー・ソング・ライターへと変貌していきます。この「さよならを教えて」は、新しい路線になってからのものです。
その後は、シルヴィがまさに”大スター”としての道を歩んでいったのとは対照的に、彼女は知的でアーティスティックなスタイルを極めていきました。
日本でもユーミンが「私のフランソワーズ」(1974年「ミスリム」に収録)という曲を書くなど知名度は高かったのですが、この「さよならを教えて」が日本でヒットしたのは「私のフランソワーズ」の前年、海外でのリリースから5年もたった1973年だったそうで、ミッシェル・ポルナレフの大ブレイクの次を狙ってレコード会社が”仕掛けた”ヒットでした。
そして、1990年にいわゆる”トレンディ・ドラマ”のひとつ、フジテレビの「恋のパラダイス」(浅野ゆう子、本木雅弘、鈴木保奈美出演)の挿入歌でこの曲が使われたことで、日本で再度人気になりました。
確かこのタイミングで、彼女の旧譜が日本でCD化されたと記憶しています。
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