まいにちポップス(My Niche Pops)

令和初日から毎日、1000日連続で1000曲(せんきょく)を選曲(せんきょく)しました(苦笑)。古今東西のポップ・ソングをエピソード、歌詞の和訳、マニアックなネタ、勝手な推理、などで紹介しています。みなさんの音楽鑑賞生活に少しでもお役に立てればうれしいです。みなさんからの情報や思い出話などコメントも絶賛募集中です!text by 堀克巳(VOZ Records)

「ルビーの指環」寺尾聰(1981)

 おはようございます。

 今日は寺尾聰の「ルビーの指環」です。

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 寺尾聰は1965年にザ・サベージというグループにベーシストとして参加することで芸能活動をスタートさせています。

 ザ・サベージの代表曲は「いつまでもいつまでも」(1966年)。

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 そして、サベージを辞めると1968年にはホワイト・キックスというグループに参加します。ホワイト・キックスは”白ける”→”白+ける”を英語にしたもので、シングル一枚のみで解散してしまいます。時代的にサイケデリックな音楽をやっていました。

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 そして同年に石原裕次郎が製作、出演した映画「黒部の太陽」に出演したことがきっかけで、石原プロの元で俳優業をメインで活動することになります。

 しかし、時おり歌手活動もやっていて1974年のシングル「ほんとに久しぶりだね」のB面「何処へ」は、本人の作詞作曲で、のちの彼の作風につながるような和製ボサノヴァになっています。

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 1977年には田辺靖雄とのデュエット・シングル「16の夏」をリリース。アレンジはミッキー吉野。、コーラスはオフコースがつとめていました。ニール・セダカの「すてきな16才」をコーラスで重ねる演出をしていますね。

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 このシングルを担当したレコード会社のプロデューサーの武藤敏史が、寺尾の曲を書く才能に注目するようになったそうで、彼の動向をチェックしていたそうです。そして、寺尾が「大都会」「西部警察」で人気が沸騰してきたタイミングで、武藤は石原プロに出向いて歌手活動を再開しないかと提案します。

 武藤が考えていた寺尾のコンセプト”日本のAOR”でした。

そして寺尾が書き上げてきたデモテープには6曲あって、のちにヒットする「ルビーの指環」「シャドー・シティ」「出航 SASURAI」の3曲も入っていたそうです。

 

 また、29才のときに彼は穿孔性胃潰瘍という病気で意識不明になり胃を80%切除する手術をして、俳優業をセーブしなければいけなくなったため、生活のため曲を書いてデモテープを作ってレコード会社に売り込み、その中に「ルビーの指環」があったと彼自身がTV番組で語っていたという記事も見つかりました。

 

 ただ、彼が29才というと1976年ですから、タイミングとしては田辺靖雄とのデュエットをやる少し前なんですね。時系列的に合わないような、、。

 

  ともかく、日本のAOR路線、最初のシングルは「シャドー・シティ」でした。

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 ヨコハマゴムのCMソングでしたが、まだ歌詞できていない段階でスキャットのまま映像を合わせたときのことを武藤はこう語っていたそうです。

「映像と合わせた時に歌詞がないほうがCMも立つし、十分雰囲気もいいのでこのままいこうと思いました。歌詞がないタイアップは冒険でしたが、寺尾さんも納得してくれましたね」

        「J-POP名曲事典300曲」(富澤一誠

 当時僕は中学生でしたが、スキャットというのがかえってこの曲を際立たせて聴こえさせたような印象があります。

 

その次のシングル「出航SASURAI」は「シャドー・シティ」からわずか2ヶ月半後のリリースでした。「出航」にSASURAIという読みかたを当てたのは、寺尾本人だったそうです。

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 そして、その次がこの「ルビーの指環」でした。

 編曲は井上鑑。この曲の入った大ヒットアルバム「Reflections」全曲も彼のアレンジ。

 1981年に日本のアルバムで一番売れたのが「Reflections」で確か2位が大瀧詠一の「A LONG VACATION」だったと記憶しているが、こちらも井上のアレンジ。この時代の日本のポップスの洗練されたサウンドを大衆レベルまで広げた最大の功労者かもしれません。

「寺尾さんのデモテープは、当時出演していた人気テレビドラマ「西部警察」の撮影の合間にロケ現場で作ったものらしい。生ギターをつま弾きながら、あの特徴のあるトーンでスキャットを歌っている、という内容だった。

 もともとベーシストとして「ザ・サベージ」というグループ・サウンズのバンド在籍していた寺尾さんはミュージシャンとしてセンスがお洒落な人。

 僕が受け取ったデモテープには、そこはかとない異国情緒というか無国籍感が漂っていて、映像が見えるような雰囲気があった。

 僕の第一印象は「良質のフランス映画の中で聞こえてくるブラジル音楽」というイメージだった。このことはとても良く覚えている」

               (「僕の音、僕の庭」井上鑑

 デモは例えば、ピエール・バルーみたいな感じだったのでしょうか。

 

 そう考えると、「ルビーの指環」の原曲はボサノヴァ調のものとしてすでに1976年頃にできていて、寺尾がレコード会社に売り込んだデモにも入っていたという可能性もありそうです。そして、田辺靖雄とのデュエットという企画が実現し、担当者の武藤はそのときに聴いた寺尾のデモテープの曲の印象がずっとあって、数年後に、寺尾が再度デモを作り直して、井上に聴かせたと。もちろん僕の推測ですが。

 

 大ヒットの分析なんて、すべて後づけですからなんとでも言えることで、ほとんど意味のないことなんですが、それでも言わせてもらうと(苦笑)、やっぱりポップスはタイミングと、アレンジ、サウンドがピタッと合わないとブレイクしないんだなと思います。

 当時、日本でもボズ・スキャッグスTOTOサウンドなどのAORが人気でしたが、寺尾はそれを日本に見事に置き換えたな、と僕は感じました。楽曲には日本人好みの歌謡性もありながら、洗練もしている。

 寺尾のビジュアルイメージもまさにAORという感じですし。

 そして、井上鑑のアレンジ、そして井上が在籍していたバンド”パラシュート”のメンバー(林立夫斎藤ノブ松原正樹、今剛)が、ボズ・スキャッグスに対するTOTOのような立ち位置で見事な演奏をしていて、全てが見事に”ハマって”います。

 もちろん、「ルビーの指環」に関しては、もちろん松本隆の歌詞も重要です。「風の街」という自身の創作の”核”とも言える言葉を入れ、1970年代から南佳孝らと作り上げていた都会に生きる男のスタイルの集大成がこの曲だったのかもしれません。

 

 参考:「J-POP名曲事典300曲」(富澤一誠

 

 

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