おはようございます。
今日はノラ・ジョーンズの「ドント・ノー・ホワイ」を。
Norah Jones - Don't Know Why (Official Music Video)
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I waited 'til I saw the sun
I don't know why I didn't come
I left you by the house of fun
I don't know why I didn't come
I don't know why I didn't come
When I saw the break of day
I wished that I could fly away
Instead of kneeling in the sand
Catching teardrops in my hand
My heart is drenched in wine
But you'll be on my mind
Forever
Out across the endless sea
I would die in ecstasy
But I'll be a bag of bones
Driving down the road alone
My heart is drenched in wine
But you'll be on my mind
Forever
Something has to make you run
I don't know why I didn't come
I feel as empty as a drum
I don't know why I didn't come
I don't know why I didn't come
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太陽が見えてくるまで待ったわ
どうして私は行かなかったのだろう
あなたを 楽しい家に置いてきた
どうして私は行かなかったのだろう
どうして行かなかったのだろう
夜が明けるのを見たときに
私は飛んでいけたらいいのにと願った
砂にひざまづくかわりに
涙を手で受け止めるかわりに
私の気持ちはワインに浸っている
だけど、あなたは心にいる いつまでも
果てしない海の彼方で
エクスタシーの中で死ぬこともできた
だけど私は 一人車を走らせる
ガイコツみたいになるのだろう
私の気持ちはワインに浸っている
だけど、あなたは心にいる いつまでも
何かがあなたを駆り立てなくちゃいけないのに
どうして私は行かなかったのだろう
ドラムみたいに空っぽの気分
どうして私は行かなかったのだろう
どうして行かなかったのだろう (拙訳)
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"old music”のファンだと自称する無名のシンガー・ソングライターが名門ジャズレーベルからリリースした作品が、その年(2002)のポップ・ミュージクで最大の話題になるとは誰も想像していなかったことでした。
1970年代始めの内省的なシンガー・ソングライター(ジョニ・ミッチェル、キャロル・キング、ニーナ・シモン、ロバータ・フラック、、)と同質の空気感を持つ彼女の楽曲は当時の音楽シーンのメインストリームの中では全く異質でしたが、たくさんの人々が無意識に求めていたものでもあったのかもしれません。
20年近く経って振り返ってみると、彼女は”新しい潮流”ではなく、”静かで大きな揺り戻し”のようなものだったのかな、と僕には思えます。
ここであらためて、彼女のプロフィールを。
ニューヨークのマンハッタン生まれ。母親はコンサートのプロデューサーで、父親はジョージ・ハリスンにシタールを教え交流の深かったことで有名なインド人ミュージシャンのラヴィ・シャンカル 。ただし、彼は彼女が生まれる前に離婚したので一緒に暮らしたことはなく、音楽は母親の影響で始めたそうです。
4歳でニューヨークからテキサスに移住し、幼い頃から音楽を始め、ノーステキサス大学ではジャズ・ピアノを専攻していたといいます。
大学であるライヴが行われたときに彼女は出演者をホテルから大学まで連れてゆく役をやっていました。そして、彼女は出演者たちと仲良くなりライヴ後も一緒に食事をしたりしていたそうです。
そこには、出演者のメンバーの友人でニューヨークからライヴを見にきていたジェシー・ハリスというシンガー・ソングライター/ギタリストもいました。最後にはみんなで自由なセッションが始まり彼女も歌ったそうですが、ジェシーは彼女の歌に惹かれ、そのときに自分が作った曲の譜面を彼女に渡したそうです。
その後彼女はニューヨークに移り住み、ジェシーたちとグループを組むことになります。そして、彼らの作ったデモ・テープがジャズの名門ブルーノートの目にとまり、デビューが決まったのです。
彼女はデビュー前に同じブルーノートからリリースしているギタリスト、チャーリー・ハンターのアルバムにボーカルとして2曲参加しています。そのうち1曲がロキシー・ミュージックの「More Than This」です。
そして、彼女を一躍時の人にした曲がこの「ドント・ノー・ホワイ」で、曲を書いたのがジェシー・ハリスでした。
しかし、この曲はもともと彼女のために書いたものではなく、彼女がちょうどテキサスからニューヨークにやってきた1999年に、彼自身が”ジェシー・ハリス&フェルディナンドス”というグループでインディーズからリリースした曲でした。
しかし彼女がニューヨークにやってきて一緒に活動するようになったときに、この曲は女性が歌った方が合うとジョシーが考え、彼女のレパートリーになったと言われています。
デビュー・アルバム「ノラ・ジョーンズ(Come Away With Me)」のレコーディングで一番最初にしかもほとんどワンテイクで録ったのがこの曲だったと言いますから、彼女もバンドも何度もライヴでやって、馴染んだ曲だったのかもしれません。
ちなみに、ノラとジェシーが初めて会ったときに彼が楽譜を渡したというのは、「One Flight Down」という曲で、これも「ノラ・ジョーンズ」に収録されています。
One flight down
この曲も「ドント・ノー・ホワイ」と同じように、歌詞の設定が具体的にどういうものかはわかりませんが、曲から立ち上がってくる独特のムードに惹きつけられるような感じがします。
ジェシーは曲作りに関してこう語っていたことがあります。
「歌はある種抽象的な場所に存在するんだ。僕は自伝的な曲を書いたことは一度もない。僕は日記をつけているから、たぶん、人生の物事を明確にしようという欲求がないのかもしれない。そういう表現方法を見つけたいと思わないんだ。だから、歌はその歌の世界の中にだけ存在していて、自分の私生活を語る重荷を背負う必要がないんだ」
「僕はいつも、そこに自由を感じられるような曲に惹かれてきた。だから僕はそういう曲を保護しようとしているのかもしれない」
(NO DEPRESSION 2004 9月)
ジェシーの抽象的でイマジネーションを誘うような曲と、ノラの独特の雰囲気のあるボーカルは本当によくマッチしていたと思います。
明快すぎる商業的なポップ・ミュージックか、リアル過ぎる本音と現実をあからさまに言葉にするヒップホップのどちらかしか聴こえてこない時代にあって、この曲は”突然の凪”のように感じられたのかもしれません。
(参考:Songfacts OTOTOY「ジェシー・サウンドが温かく夜を包み込む」)