おはようございます。
今日もボサノヴァを(アメリカ産ですが)。アントニオ・カルロス・ジョビンに捧げた曲、マイケル・フランクスの「アントニオの歌」です。
Michael Franks - Antonio's Song/The Rainbow (from "Sleeping Gypsy.")
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Antonio lives life's frevo
Antonio prays for truth
Antonio says our friendship
Is a hundred-proof
The vulture that circles Rio
Hangs in this L.A. sky
The blankets they give the Indians
Only make them die
But sing the Song
Forgotten for so long
And let the Music flow
Like Light into the Rainbow
We know the Dance, we have
We still have the chance
To break these chains and flow
Like Light into the Rainbow
Antonio loves the desert
Antonio prays for rain
Antonio knows that Pleasure
Is the child of Pain
And lost in La Califusa*
When most of my hope was gone
Antonio's samba led me
To the Amazon
We sing the Song
Forgotten for so long
And let the music flow
Like Light into the Rainbow
We know the Dance, we have
We still have the chance
To break these chains and flow
Like Light into the Rainbow
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”アントニオは人生のフレーヴォ(Frevo)を生きる
アントニオは真実を祈る
アントニオは僕らの友情は純粋だと言う
リオでは悠々と旋回するハゲタカも
LAの空では持ちこたえているのがやっと
奴らがインディアンに差し出した毛布は
彼らを殺しただけだった
だけど歌おう 長い間忘れていた歌を
そして音楽が流れるままにまかせよう
虹へと変わってゆく光のように
僕らはあのダンスを知っている
僕らにはまだあるんだ
鎖を断ち切って自由になるチャンスが
虹へと変わる光のように
アントニオは砂漠を愛する
アントニオは雨に祈る
アントニオは喜びは痛みから生まれることを知っている
La Califusa(ロサンゼルス)にのみこまれ
あらかた夢が消えた時
アントニオのサンバが僕をアマゾンへと導いた
だけど歌おう 長い間忘れていた歌を
そして音楽が流れるままにまかせよう
虹へと変わってゆく光のように
僕らはあのダンスを知っている
僕らにはまだあるのさ
鎖を断ち切って自由になるチャンスが
虹へと変わる光のように ” (拙訳)
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この曲には2つ聞きなれない単語が出てきます。
まず、”Frevo”(フレーヴォ、フレヴォ)。これはブラジルの北東部にあるレシーフェが発祥地の音楽とダンスのスタイル。明るく軽快な音楽でカーニバルでは、色とりどりの小さな傘を持って踊るそうです。語源は、ポルトガル語のferver(沸騰する)の変種であるfreverからきているそうです。
Cia de Dança Giselly Andrade dança FREVO
ジョビンの名前を最初に世界的に広めた映画「黒いオルフェ」(1959)には、彼が作曲した「Frevo」という曲があるので、そこから歌詞に使ったのだと思います。
この歌では、人生の祝祭を生きた、もしくは人生を祝祭のように生きた、みたいなニュアンスでしょうか。
もうひとつは、La Califusa。
これは”L.A ,California USA”の略称だそうで、検索してもほとんどヒットしないので、ごく一時的に流行った言い回しだったのかもしれません。
話は飛びますが、僕が初めてこの曲を聴き、初めてマイケル・フランクスを観たのが、NHKのアイドル番組(レッツ・ゴー・ヤング)で、それが不思議に記憶に残り続けています。
あらためて、ネットで調べてみると「レッツ・ゴー・ヤング」の出演者をちゃんとアーカイヴされている方がいて、ありました!1977年9月25日に放送されていたようです。
出演者は ”キャンディーズ 郷ひろみ 山口百恵 研ナオコ 荒川つとむ 狩人 マイケル・フランクス 都倉俊一”とあります。
そのとき僕は中一で、音楽番組が好きでよく観ていたのですが、このときのマイケル・フランクスの”違和感”はハンパじゃなかったんです。この出演者の並びを見れば一目瞭然ですが。
ただ、違和感がハンパじゃなかったぶん、ずっと僕の記憶に残ることになりました。
確か彼は、アコースティック・ギターを弾きながら歌っていたはずです。
歌い方、メロディ、コード感、どれも僕には今まで聴いたことのない種類の音楽でした。
特に彼が少し口の端を歪めるような感じで歌う
サビの”Sing The Song”というところのメロディがいつまでも耳にひっかかっていました。
今考えると、よく「レッツゴー・ヤング」にマイケル・フランクスをブッキングできたなあ、と驚いてしまいます。
ネットには「演奏直後、当時の同番組司会者都倉俊一は客席の反応を見て、「ここには向かない曲だったかもしれない」旨のコメントを加えた」という記述もあります。
僕の想像ですが、マイケルの音楽を個人的に気に入った都倉俊一の独断で出演を決めたけれど、当日の会場での”違和感”のハンパなさに、都倉自身マイケルに悪いことしたなあ、と反省した、そんな感じだったんじゃないでしょうか。
また、この「アントニオの歌」は日本だけのシングルで、日本だけのヒット曲でした。
それに加えて、この曲の入ったアルバム「スリーピング・ジプシー」は日本ではAORの古典として揺るぎない地位を確立していますが、アメリカでは最高119位と売れていません。
アメリカと日本では、彼の評価のされ方は違うんですね(アメリカで最も売れたのは1982年のアルバム「Objects of Desire」でした。
この「アントニオの歌」を日本でシングルにして、来日させ、NHKのアイドル番組にまで出演させた、当時の日本の担当者の動きは、AOR、シティポップを好む日本人の感性を育むのに少なからず貢献したんじゃないかと、僕は思います。
少なくとも、僕が本格的なシティ・ミュージックの洗礼を浴びたのが、「レッツ・ゴー・ヤング」の「アントニオの歌」でした。
最後にマイケル・フランクスの簡単なプロフィールを。
南カリフォルニアで生まれ育った彼は、UCLAで英語を学びながらアメリカ文学を教える仕事につくことを目指していたそうです。それと並行して音楽活動もやっていて、デイヴ・ブルーベック、スタン・ゲッツ、ジョアン・ジルベルト、アントニオ・カルロス・ジョビンなどを敬愛していました。
1973年にマイナー・レーベルからアルバム「Previously Unavailable」でデビュー。その頃はフォーク・ロック・テイストの音楽をやっていました。
そして3年のブランクを経て、メジャーレーベルからトミー・リピューマのプロデュースで再デビューします。そのアルバム「アート・オブ・ティー」では凄腕のジャズ・セッション・プレイヤーをバックに従えて、前作とは全く別人のような音楽を披露します。
そしてそれに続くアルバムが「スリーピング・ジプシー」だったわけです。
Youtubeを見るとプロアマ問わず日本人のカバーが数多く見れます。UA、布袋寅泰、石川セリ、杏里など、しかし海外のアーティストのカバーもけっこうあるので、時間をかけて浸透していった曲なのだと思われます。
個人的には、この曲はマイケル本人の歌じゃないと、と思っています。ですので、最後は本人のライヴ映像を。
1曲目の「The Lady Wants to Know」のイントロが流れ始めた瞬間に、僕はもうこのアルバムが名盤であることを確信してしまいました。
数あるトミー・リピューマ・プロデュースの中でも代表作といえばやっぱり「ブリージン」でしょうか
アントニオ・カルロス・ジョビンの代表作。
トミー・リピューマ作品には、こんなのもありました。
追記:日記ブログはじめました。よかったらのぞいてみて下さい