まいにちポップス(My Niche Pops)

令和元年初日から毎日更新中〜1日1ポップス。エピソード、歌詞の和訳、謎解き、マニアックな捜査、勝手な推理、などで紹介していきます。text by 堀克巳(VOZ Records)

「アントニオの歌(Antonio's Song)」マイケル・フランクス(1977)

 おはようございます。

 今日もボサノヴァを。アメリカ産ですが。アントニオ・カルロス・ジョビンに捧げた曲、マイケル・フランクスの「アントニオの歌」です。


Michael Franks - Antonio's Song/The Rainbow (from "Sleeping Gypsy.")

 

 ”アントニオは人生のフレーヴォ(Frevo)を生きる

  アントニオは真実を祈る

  アントニオは僕らの友情は純粋だと言う

 

 リオで悠々と旋回するハゲタカは

  LAの空ではなんとか持ちこたえている

  奴らがインディアンに差し出した毛布は

     彼らを殺しただけだった

 

 だけど歌おう 長い間忘れていた歌を

 そして音楽が流れるままにまかせよう

 虹へと変わってゆく光のように

 僕らはあのダンスを知っている

 僕らにはまだある

 鎖をこわして自由になるチャンスが

 虹へと変わる光のように

 

 アントニオは砂漠を愛する

 アントニオは雨に祈る

 アントニオは喜びは痛みから生まれることを知っている

 

    La Califusa(ロサンゼルス)にのみこまれ

 ほとんど夢が消えた時

 アントニオのサンバが僕をアマゾンへと導いた

 

 だけど歌おう 長い間忘れていた歌を

 そして音楽が流れるままにまかせよう

 虹へと変わってゆく光のように

 僕らはあのダンスを知っている

 僕らにはまだある

 鎖をこわして自由になるチャンスが

 虹へと変わる光のように    ”    (拙訳)

 

 2つよくわからない単語が出てきます。

まず、”Frevo”(フレーヴォ、フレヴォ)はブラジルの北東部にあるレシーフェが発祥地の音楽とダンスのスタイル。明るく軽快な音楽でカーニバルでは、色とりどりの小さな傘を持って踊るそうです。語源は、ポルトガル語のferver(沸騰する)の変種であるfreverからきているそうです。


Cia de Dança Giselly Andrade dança FREVO

  ジョビンの名前を最初に世界的に広めた映画「黒いオルフェ」(1959)には、彼が作曲した「Frevo」という曲があるので、そこから歌詞に使ったのだと思います。

 人生の祝祭を生きた、みたいなニュアンスでしょうか。


Frevo (Remastered)

 

 もうひとつは、La Califusa。

    これは”L.A ,California  USA”の略称だそうで、検索してもほとんどヒットしていないので、ごく一時的に流行った言い回しだったのかもしれません。

 

 

 僕が初めてこの曲を聴き、初めてマイケル・フランクスを観たのが、NHKのアイドル番組(レッツ・ゴー・ヤング)で、それが不思議に記憶に残り続けています。

 あらためて、ネットで調べてみると「レッツ・ゴー・ヤング」の出演者をちゃんとアーカイヴされている方がいて、ありました!1977年9月25日に放送されていたようです。

 出演者は ”キャンディーズ  郷ひろみ  山口百恵  研ナオコ  荒川つとむ  狩人 マイケル・フランクス  都倉俊一”とあります。

 そのとき僕は中一で、音楽番組が好きでよく観ていたのですが、このときのマイケル・フランクスの”違和感”はハンパじゃなかったんです。この出演者の並びを見れば一目瞭然ですが。

 ただ、違和感がハンパじゃなかったぶん、ずっと記憶に残ることになったんです。

 確か彼は、アコースティック・ギターを弾きながら歌っていたはずです。

 歌い方、メロディ、コード感、どれも僕には今まで聴いたことのない種類の音楽でした。

 特に彼が少し口の端を歪めるような感じで歌う

   サビの”Sing The Song”というところのメロディがいつまでも耳にひっかかっていました。

 今考えると、よく「レッツゴー・ヤング」にマイケル・フランクスをブッキングできたなあ、と驚いてしまいます。

 ネットには「演奏直後、当時の同番組司会者都倉俊一は客席の反応を見て、「ここには向かない曲だったかもしれない」旨のコメントを加えた」という記述もあります。

 僕の想像ですが、マイケルの音楽を個人的に気に入った都倉俊一の独断で出演を決めたけれど、当日の会場での”違和感”のハンパなさに、都倉自身マイケルに悪いことしたなあ、と思った、そんな感じだったんじゃないでしょうか。

 

 また、この「アントニオの歌」は日本だけのシングルで、日本だけのヒット曲でした。

 それに加えて、この曲の入ったアルバム「スリーピング・ジプシー」は日本ではAORの古典として揺るぎない地位を確立していますが、アメリカでは最高119位と売れていません。

 アメリカと日本では、彼の評価のされ方は違うんですね(アメリカで最も売れたのは1982年のアルバム「Objects of Desire」でした。

 

 この「アントニオの歌」を日本でシングルにして、来日させ、NHKのアイドル番組にまで出演させた、当時の日本の担当者の動きは、AOR、シティポップを好む日本人の感性を育むのに少なからず貢献したんじゃないかと、僕は思います。

 少なくとも僕が本格的なシティ・ミュージックの洗礼を浴びたのが、「レッツ・ゴー・ヤング」の「アントニオの歌」でした。

 

 最後にマイケル・フランクスの簡単なプロフィールを。

 南カリフォルニアで生まれ育った彼は、UCLAで英語を学びながらアメリカ文学を教える仕事につくことを目指していたそうです。それと並行して音楽活動もやっていて、デイヴ・ブルーベックスタン・ゲッツジョアン・ジルベルトアントニオ・カルロス・ジョビンなどを敬愛していました。

 1973年にマイナー・レーベルからデビュー。その頃はフォーク・ロック・テイストの音楽をやっていました。


Michael Franks - King Of Oklahoma

 そして3年のブランクを経て、メジャーレーベルからトミー・リピューマのプロデュースで再デビューします。そのアルバム「アート・オブ・ティー」では凄腕のジャズ・セッション・プレイヤーをバックに従えて、前作とは全く別人のような音楽を披露します。

www.youtube.com

 そしてそれに続くアルバムが「スリーピング・ジプシー」だったわけです。

 Youtubeを見るとプロアマ問わず日本人のカバーが数多く見れます。UA布袋寅泰石川セリ、杏里など、しかし海外のアーティストのカバーもけっこうあるので、時間をかけて浸透していったのだと思われます。

 

 個人的には、この曲は本人じゃないと、と思っています。ですので、最後は本人のライヴ映像で。


Michael Franks - Antonio's Song (Live 1991)

 

 

 

スリーピング・ジプシー

スリーピング・ジプシー