まいにちポップス(My Niche Pops)

令和初日から毎日、1000日連続で1000曲(せんきょく)を選曲(せんきょく)しました。。。古今東西のポップ・ソングのエピソード、洋楽和訳、マニアックなネタ、勝手な推理、などで紹介しています。キャッチーでメロディアスなポップスは今の時代では”ニッチ”なものになってしまったのかなあとも思いますが、このブログを読んでくださる方の音楽鑑賞生活に少しでもお役に立てればと願っています。みなさんからの追加情報や曲にまつわる思い出などコメントも絶賛募集中です!text by 堀克巳(VOZ Records)

「12月の雨」荒井由実(1974)

 おはようございます。

 今日はユーミンの「12月の雨」です。

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 J-POPの歴史を源流へと遡っていくと、やっぱりこの人にぶち当たります。

 J-POPのルーツと呼ぶに最もふさわしい人を一人だけ上げろと言われたら僕は”荒井由実”と答えます。

 

  もちろん、彼女がゼロからJ-POPを始めたわけではなく、彼女以前にもたくさんのルーツ、流れがあるわけですが、その中で作品の質としても、ビジネス的な観点からも最も象徴的な存在が彼女なのだと思います。

 

 シンガー・ソングライターとしての圧倒的な才能ももちろんですが、細野晴臣山下達郎など、同時代の数々の才能を集めたサウンド・プロダクションも、今でも風化することなく、もはや重要文化財と呼んでいいレベルなんじゃないかと思います。僕がイメージしているのは、彼女をサポートした人脈こみ、での"荒井由実こそJ-POPのルーツ"ということなのかもしれません。



 シュガーベイブの記事でも書きましたが、当時の日本では”ポップス”は圧倒的なマイノリティ(少数派)でした。

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 そんななかで新しい才能を世に出すには、その音楽をよく理解し後押ししてくれる年長者は絶対に必要なわけです。シュガーベイブには大瀧詠一がいました。

 ユーミンには、作曲家の村井邦彦がその役割を果たしました。

 

 彼は「翼をください」などたくさんの有名曲を書いた作曲家でありながら、若くして音楽出版社(アルファ・ミュージック)レコード会社(アルファ・レコード)を立ち上げた辣腕実業家でもありました。彼の強みは海外の音楽シーンの知見がずば抜けていたことです。キャロル・キングの「つづれおり」やモータウンのレコーディングの現場も見学し他ことがあったそうで、そんな日本人は当時いませんでした。

 

 クリエイターとして作曲、音楽制作のプロであり、しかも最新の海外の音楽に詳しく、かつビジネスマンとして自らのレコード会社を持っている、そんな彼でなければ、彼女のような”新しい潮流を作る大きな才能”を後押しすることはできなかったのかもしれません。

 

 彼女は中学生の時にあるバンドの追っかけだったことがきっかけにデビューに至ったという珍しい経歴の持ち主です。

 そのバンドの名前はザ・フィンガーズといいました。

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 この曲を作曲しているメンバーのユー・シー・チェンにデモテープを渡し、チェンが

当時ミュージカルで共演していた元タイガースの加橋かつみに聴かせ、加橋が自分でアルバムで彼女の曲を採用し(「愛は突然に,,,」)、そのアルバムの他の曲を作曲していた村井がたまたまスタジオでその曲を聴いて興味を持ち彼女に会いたいと申し出た、そんな流れだったそうです。 


荒井由実 作曲家デビュー曲 「 愛は突然に… 」

 

 ちなみに”ユーミン”と名付けたのはチェンらしく、彼女がムーミン好きで、由実(ゆみ)とかけた、その辺りは想像できまると思うのですが、あと中国語で”有名”はユーミンと発語するそうで、その意味もあったそうです。

 

 彼女を気に入った村井は彼女と作家契約を結びます。まだ高校2年だったといいます。

 高校の頃の彼女を知る人はこう言っていたそうです。

 ”メロディーは重厚で、詞はどこかの薄暗い部屋で 男の人が死んでゆくようなものをつくるんですよ”(「音楽家村井邦彦の時代」より)

 

 「愛は突然に...」を聴いても感じますが、当初のユーミンの作風は決して”ポップ”ではなく、かえってかなり重い作風だったわけです。

 

 彼女の”新しいタイプの楽曲”には既存の歌手はフィットせず、結局彼女自身が歌うことになるわけですが、歴史的名盤と言われるデビュー・アルバム「ひこうき雲」も決してポップな作品ではありませんでした。

 

 それが「ミスリム」、「コバルトアワー」とアルバムを出すごとにポップさが開花していきます。

 その理由はわかりませんが、ポップなものへと移行していく時代の予兆をいち早く彼女が感じたのかもしれませんし、プロとしてちゃんと売れる作品を作ろうという意識が強くなっていったのかもしれませんし、もともと一人でピアノ弾き語りをしていたのが、洗練された洋楽的なグルーヴを持つティン・パン・アレイ(細野晴臣松任谷正隆林立夫鈴木茂)との共演により触発され、リズムのある楽曲に目覚めた、ということもあったのかもしれません。

 

 この「12月の雨」はアルバム「ミスリム」に収録され、シングルとしてアルバムと同時発売されました。

 特筆すべきは、シュガーベイブがコーラスに参加していること。彼らのコンサートを見たユーミンが希望したと言われています。

 まだ、ユーミンが20歳、山下達郎が21歳でした。

 「ひこうき雲」はティン・パン・アレイが彼女が引きずってきた音楽を手伝った感じだったのに対して、「ミスリム」ではバンドのヴォーカリストになった、ということを当時音楽評論家の小倉エージさんは語っていたそうです。

 

 ユーミンとティン・パン・アレイとの”一体感”から、J-POPの源流が一気に流れ始めたんじゃないでしょうか。

 そして、翌年彼女はアルバム「コバルト・アワー」、シングル「ルージュの伝言」、「あの日にかえりたい」とリリースし一気にブレイクを迎えます。シュガーベイブもデビューします。

 そして、細野晴臣大瀧詠一もアルバムを発表、本格的に日本のポップスが動き出したのです。

 

 最後にもう1曲「ミスリム」は本当にいい曲ばっかりで迷うのですが、「瞳を閉じて」を。日本のポップスの海の歌はほとんど、湘南しか似合わないのですが、この曲は中学生の頃、夏の日本海で聴いてもしっくりした記憶がありますw

 

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