まいにちポップス(My Niche Pops)

令和初日から毎日、1000日連続で1000曲(せんきょく)を選曲(せんきょく)しました。。。古今東西のポップ・ソングのエピソード、洋楽和訳、マニアックなネタ、勝手な推理、などで紹介しています。キャッチーでメロディアスなポップスは今の時代では”ニッチ”なものになってしまったのかなあとも思いますが、このブログを読んでくださる方の音楽鑑賞生活に少しでもお役に立てればと願っています。みなさんからの追加情報や曲にまつわる思い出などコメントも絶賛募集中です!text by 堀克巳(VOZ Records)

「流星都市」小坂忠(1975)

 おはようございます。今日は小坂忠の「流星都市」です。


Ryusei Toshi : Kosaka Chu

 

 このブログを読んでくださる方なら当然「はっぴいえんど」というグループはご存知だと思いますが、その「はっぴいえんど」のメンバーになっていたかもしれなかったのが、小坂忠です。

 「はっぴいえんど」は細野晴臣大瀧詠一鈴木茂松本隆という、日本のポップスの発展に計り知れないほどの影響を与えた人たちが集まったグループですが、その前に細野、松本が組んでいたバンド「エイプリルフール」のメンバーの一人が彼だったのです。

 「エイプリルフール」はアルバム一枚で解散し、細野と松本は次のバンドの構想をねりはじめ、ヴォーカルには小坂を考えていました。

 1969年のことで、その頃は音楽史的にも激動の時代で、大規模な野外フェス”ウッドストック”など若者たちの”ヒッピー”に代表される新しい思想やライフスタイルを打ち出したムーヴメントが続々と起こっていました。

 

 そのムーヴメントを象徴するもののひとつが初めてロックを取り入れたミュージカル「ヘアー」(フィフス・ディメンデョンの「輝く星座(Aquarious〜Let The Sunshine In)」という大ヒット曲も生み出しています)。

 「ヘアー」は世界各国で上演されるほどの大人気作になりますが、日本でも上演することになり、小坂はそのオーディションに参加し合格します。そのため、小坂は細野たちのバンドに参加できなくなります。しかし、細野は小坂の意思を最初から尊重していたようで、「ヘアー」のオーディションのときには伴奏者としてギターを弾いていたそうです。

 細野はこう回想しています。

エイプリル・フールの解散が決定的になって、まず松本と話が盛り上がった。次にヴォーカルが必要だったので小坂忠に声をかけたら、彼にもやる気があった。じゃあ三人でなにかできるんじゃないかとということになってね。ところが忠が『ヘアー』のオーディションに受かって、構想は白紙に戻ったわけです。ぼくはオーディションを手伝ったので、松本からなじられたりして」

 (「細野晴臣と彼らの時代」)

 

 小坂は当時のことをこう語っています。

エイプリル・フールの時はね、ディスコのハコバンの仕事が終わると、麻布にあった松本の家に細野くんと3人で集まって、音楽を聴いたりいろいろ話したりしていたんです。彼らと話したことを通じて、ぼくのなかで新しい音楽が芽生え始めてはいたんだけど、その頃の僕の交友関係は音楽にとどまらなかった。建築家だったり役者だったりカメラマンだったり。そういう交友関係もあっていろいろ興味があったから(はっぴいえんど結成には)関わらなかった。それはそれでよかったと思うけど」

(「レコードコレクターズ増刊 日本のロック/ポップス」)

 

 1969年末に東京で上演が始まった「ヘアー」は日本のプロデューサー、出演者が大麻取締法違反容疑で逮捕されたため、1970年2月の大阪公演を前に打ち切りになったのですが、小坂は音楽の仕事には戻らず、デザイン事務所に居候しながら骨董やポップアートの仕事をしていたそうです。

 

 しかし1971年に作曲家の村井邦彦や「ヘアー」のプロデューサーでもあった川添象郎たちが設立した「マッシュルーム・レコード」から声がかかり、彼はソロデビューすることになります。

 

 そこで小坂は実質的なサウンド・プロデュースを細野晴臣に依頼し出来上がったアルバムが「ありがとう」。リリースは1971年、はっぴいえんどが名盤「風街ろまん」を発売した年でした。表題曲「ありがとう」は細野の作品で、細野と小坂が一緒に歌っています(細野がメインのように聴こえますが、、)。

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「「ありがとう」というのは、はっぴいえんどでやろうかと思っていたんです。でも、小坂忠は親友だったんで彼のデビューを飾るためにと提供したんです。だからひょっとすると、はっぴいえんどがやっていた曲かもしれないんです」

(「細野晴臣インタビュー THE ENDLESS TALKING」)

 また、細野は自分の歌唱法で悩んでいた当時の彼にとって「自分の一番ベストな表現というのの片鱗をつかめた」のがこの曲で「自分でも歌いたかった曲」だったとも語っています。

 「ありがとう」は、もし小坂がはっぴいえんどに参加していたら、という”たられば”を妄想させてくれる曲であり、”歌い手”細野の名盤「HOSONO HOUSE」のきっかけになった重要曲でもあるのかもしれません。

 

 

 そして、小坂の代表作が「流星都市」も収録されている4枚目のアルバム「HORO」です。 

 このアルバムが発売されたのは、「はっぴいえんど」の元メンバーと彼ら周辺のアーティストたちがメジャーシーンで台頭し始めたのが1975年でした。

 ユーミンの「コバルト・アワー」、山下達郎大貫妙子がいたシュガーベイブの「SONGS」などが発売され、はっぴいえんのメンバーもソロとして、

「バンドワゴン」(鈴木茂)「トロピカル・ダンディ」(細野晴臣)「ナイアガラ・ムーン」(大瀧詠一)と、後に若い世代から再評価される作品を作っています。

 

 そして、その日本のポップス史の重要年、1975年に「はっぴいえんど」人脈が集まって作った作品の一番手に登場したのが「HORO」だったのです。

 当時、細野、鈴木に松任谷正隆林立夫で組んだ「ティン・パン・アレイ」に、矢野顕子吉田美奈子大貫妙子山下達郎というメンバーが参加しています。

 

 この時代の音楽を順を追って聴いていくと、1975年あたりから日本の音楽がぐっと都会的にポップになっていったという印象があります。

 例えば、ユーミンの場合「ひこうき雲」、「ミスリム」にくらべて「コバルト・アワー」は一気にポップになっています。

 小坂もそれ以前に3枚のアルバムをリリースしていますが、フォークっぽかったそれまでの作品に比べて「HORO」ではR&Bぐっと都会的なサウンドになっています。

 

 「HORO」で小坂の音楽性をシフトさせたのがアルバムのプロデュースを担当した細野でした。

 小坂はこう語っています。

「彼がティン・パン・アレーと作った音楽がそういう感じだったから、僕の歌い方もそれにあわせて変わったんです。もともと、個人的にソウル・ミュージックが好きで聴いてたんですけど、そういうことも細野君は知ってたから。僕が最初に好きになったシンガーってレイ・チャールズなんです。言葉に感情をこめて、絞り出すような歌い方が好きだった」

「あのアルバムを出すまでは、自分のスタイルを探していたんです。『ほうろう』で自分のスタイルが決まった感じがした。だから、(『ほうろう』は)自分の原点なんです」

  (ARBAN 2019.08.30)

 

 R&Bスタイルはアルバムのオープニング・ナンバーでタイトル曲でもある「ほうろう」(細野作詞作曲)ではっきり打ち出されています。

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 細野は小坂に提供した「ありがとう」で自分の歌唱法を見出したわけですが、小坂本人は「HORO」で自分の歌のスタイルを見つけたわけです。

 

 ものすごく大雑把な捉え方なんですが、1970年から1980年にかけて日本のポップスはフォークからシティポップへ、素朴から洗練へと向かっていったと思います。

 その転換期が1975年でした。人間味と素朴な温かみを持つ歌い手でありながら、東京で生まれ育ちR&Bフィーリングに小坂にとって、1970年初頭の土臭いフォークやロックも、1980年ごろの商業的にきらびやかになったポップスも似合わなかった、洗練と素朴が絶妙にブレンドされた1975年という時代があまりにフィットしていた、そんな風に僕には思えます。

 

 実際、小坂は1978年に日本初のゴスペル・レコード会社「ミクタムレコード」設立し、ゴスペル・シンガーとして活動を始めます。彼は1976年にクリスチャンになっていました。1979年くらいまではソングライターやプロデューサーとしてポップスの仕事(佐藤奈々子「Pillow Talk」など)にもたずさわっていましたが、その後は完全に離れてしまいます。

 

「変わり目だったんです。自分たちの音楽が商業ベースになりかけた時期でね。形にはしたいけど、気持ちがなりきれないって感じ。それに、ジャズっぽいもの(フュージョン)が流行ってきた。ミュージシャンはそういう世界にどんどん入っていくし」

(「レコードコレクターズ増刊 日本のロック/ポップス」)

 

 発売当時は商業的には成功しなかった「HORO」ですが、1990年代に再評価され始めます。いわゆる”渋谷系”のムーヴメントの中で、ミュージシャンやDJたちが隠れた名盤を発掘する動きが活発になったのですが、その中でこの「HORO」もいろんなメディアで紹介されるようになりました。

 

 僕もそのタイミングで知って、再発盤を買ったくちなのですがその中で一番好きになった曲が、この「流星都市」でした。

 今流行している「CITY POP」の始まりはシュガーベイブのアルバム「SONGS」だとする説が主流で僕も異存はないのですが、「SONGS」より数ヶ月先駆けて発売された「HORO」、特にこの「流星都市」という曲にもシティポップの”ルーツ”をものすごく感じるのです。

 洗練されたグルーヴを感じるアレンジ、ロマンティックなイメージを醸し出す都会的な歌詞。この曲こそがシティポップの原型なのだと僕は思っています。

 

 作詞は松本隆(作曲は細野晴臣)。

 この「流星都市」というタイトルも魅力的で渋谷系の代表アーティスト”オリジナル・ラヴ”が同名異曲を作っています。これまたロマンティックな都会の風景を描いた名曲です。

 

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 また、2015年にDAOKOがまた同名異曲をリリースしています。

 

 小坂は、2000年に「Tin Pan」名義で再結成したティン・パン・アレーのコンサートにゲストで参加して25年ぶりの共演を果たすと。2001年に細野のプロデュースによるアルバム『People』をリリースし、ポップスでの活動も再開させます。

 

   2010年には「HORO」のオリジナル・トラックに合わせて新たに歌い直したアルバム「HORO 2010」をリリース。こちらが新録の「流星都市」です。

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 その後も彼は牧師として、歌手として精力的に活動していましたが、2022年4月29日に全身がんによる肝不全のため亡くなったという訃報が届きました。

 松本隆は自身のTwitterで彼へのメッセージに、彼の写真とともに「流星都市」の歌詞をそえています。

 

 最後に「HORO」完全再現ライヴを収めたライヴ盤「HORO 2018 Special Live」に収録されていた「流星都市」を。

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