まいにちポップス(My Niche Pops)

令和初日から毎日、1000日連続で1000曲(せんきょく)を選曲(せんきょく)しました。。。古今東西のポップ・ソングのエピソード、洋楽和訳、マニアックなネタ、勝手な推理、などで紹介しています。キャッチーでメロディアスなポップスは今の時代では”ニッチ”なものになってしまったのかなあとも思いますが、このブログを読んでくださる方の音楽鑑賞生活に少しでもお役に立てればと願っています。みなさんからの追加情報や曲にまつわる思い出などコメントも絶賛募集中です!text by 堀克巳(VOZ Records)

「ストーニー・エンド(Stoney End)」ローラ・ニーロ(1966)

 おはようございます。

 今日はローラ・ニーロの「ストーニー・エンド」です。

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I was born from love, and my poor mother worked the mines
I was raised on the good book Jesus till I read between the lines
Now I don't believe I want to see the morning

 

Going down the stoney end
I never wanted to go down the stoney end
Mama, let me start all over
Cradle me, Mama, cradle me again
(Cradle me, Mama, cradle me again)

 

I can still remember him with love light in his eyes
But the light flickered out and parted as the sun began to rise
Now I don't believe I want to see the morning

 

Going down the stoney end
I never wanted to go down the stoney end
Mama, let me start all over
Cradle me, Mama, cradle me again
(Cradle me, Mama, cradle me again)

 

Never mind the forecast, 'cause the sky has lost control
'Cause the fury and the broken thunder's come to match my raging soul
Now I don't believe I want to see the morning

 

Going down the stoney end
I never wanted to go down the stoney end
Mama, let me start all over
Cradle me, Mama, cradle me
Going down the stoney end
I never wanted to go down the stoney end
Mama, let me start all over
Cradle me, Mama, cradle me again

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私は愛から生まれ
かわいそうな母は鉱山で働いていた
私は行間が読み取れるようになるまで
エス様の良き書を読んで大きくなった
今じゃ信じちゃいないわ 私が朝を迎えたいと思ってることさえ

 

石ころだらけの終わりに向かって落ちてゆく
石ころだらけの結末なんて望んだことなんてないの
ママ、もう一度やり直させて
揺り籠であやして、ママ、揺り籠にもう一度

 

瞳にに愛の光を宿した彼を今でも覚えてるわ
だけど、太陽が昇り始めると
その光はだんだんと消えてしまった
今じゃ信じちゃいないわ  私が朝を迎えたいと思っていることさえ

 

石ころだらけの終わりに向かって落ちてゆく
石ころだらけの結末なんて望んだことなんてないの
ママ、もう一度やり直させて
揺り籠であやして、ママ、揺り籠にもう一度


天気予報は気にしないで だって空はコントロール不能
怒りと止まない雷が私の荒れ狂った魂にマッチしているから
今じゃ信じちゃいないわ 私が朝を迎えたいと思っていることさえ

 

石ころだらけの終わりに向かって落ちてゆく
石ころだらけの結末なんて望んだことなんてないの
ママ、もう一度やり直させて
揺り籠であやして、ママ、揺り籠にもう一度


石ころだらけの終わりに向かって落ちてゆく
石ころだらけの結末なんて望んだことなんてないの
ママ、もう一度やり直させて
揺り籠であやして、ママ、揺り籠にもう一度

      (拙訳)

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  この曲は以前にこのブログにも登場しましたローラ・ニーロのデビュー曲「ウェディング・ベル・ブルース」のB面曲としてリリースされ、彼女のファースト・アルバム『モア・ザン・ナ・ニュー・ディスカバリー (More Than a New Discovery)』(現在は「ファースト・ソングス」というタイトルになっています)にも収録されています。

 

 「ウェディング・ベル・ブルース」は彼女の最初期の曲で、デビューのきっかけとなった音楽出版社のオーディションで彼女が歌ったものですが、そのオーディションでこの「ストーニー・エンド」も歌ったそうです。

 

 まだ18歳の才能溢れる新星はアーティスティックな方向ではなく、いまどきのティーン女子の代表みたいな感じで、ウェディング・ドレス姿の広告を大々的にうたれるというミスマッチぶりで「ウェディング・ベル・ブルース」は売れなかったため、そのB面であるこの「ストーニー・エンド」も陽の目を浴びることはありませんでした。

 

 しかし、彼女の曲に目をつけた音楽関係者もいたようで、1967年の4月にダーレン・ラヴが在籍していたガールズ・グループ”ブロッサムズ”がシングルのB面で取り上げています。

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 この曲をプロデュースしたのは、のちにキャロル・キングの「つづれおり」で知られることになるルー・アドラー。自身で始めたレーベル”ODE"の第一弾としてスコット・マッケンジーの「花のサンフランシスコ」とともにリリースされました。プロモ盤ではこちらをA面にしたものも存在しているので、出来上がりに自信があったのではないでしょうか。ともかく、この曲のポップスとしての潜在力をよく示しているヴァージョンだと思います。

 

 そして、その翌年1968年にやはりルー・アドラーの”ODE"から女優のペギー・リプトンがデビュー・シングルとしてこの曲を取り上げています。彼女は1970年代にクインシー・ジョーンズと結婚したことでも知られていますね。

  もともと自分でも曲を書き歌手になりたかった彼女は、ルー・アドラーに売り込んだようです。このブロッサムズの「ストーニー・エンド」に手応えを感じていた(A面にすればよかったとか思っていたりして)ルーがペギーに歌わせたと思われますが、ローラとペギーはほぼ同い年でニューヨーク出身、十代の頃はジャズやドゥワップに熱中したというバック・グラウンドが一致していて、どこかで接点があった可能性もありそうです。

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 実はペギーと同じくロサンゼルスでこの「ストーニー・エンド」をレコーディングし、5ヶ月早くリリースしていたシンガーがいます。リンダ・ロンシュタットです。彼女が組んでいたストーン・ポニーズの三枚目のアルバムのラストにこの曲のカバーが収録されています。

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 そして、この曲を大ヒットさせたのがバーブラ・ストライサンドです。彼女はデビュー以来ブロードウェイものを中心に歌ってきましたが、本格的にポップスのソングライターの曲を集めたアルバムをリチャード・ペリーのプロデュースで作りました。それがアルバムのタイトルであり、シングルにもなった「ストーニー・エンド」です。1970年位リリースされ最高6位と、「スター誕生愛のテーマ」(1976)がリリースされるまで、彼女の最も売れたシングルにだったそうです。

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 さて、彼女の最初期の作品でオーディションで歌った曲が「ウェディング・ベル・ブルース」「ストーニー・エンド」とあともう1曲あります。それが「アンド・ホエン・アイ・ダイ(And When I Die)」で、やはり、彼女のファーストアルバムにも収録され、三枚目のシングルにもなっています。

 "And when I die and when I'm gone 

    there'll be one child born

    and a world to  carry on "

 

  (私が死んでしまったとき 私が行ってしまったとき

  子供が一人生まれるだろう そして世界は続いてゆく)

 十代の女の子が初めて作った曲の一つだなんてとても思えないものです。

 

 彼女のヴァージョンは売れなかったのですが、これまた他のアーティストによって大ヒットしています。ブラッド、スウェット&ティアーズが1969年にこの曲を取り上げ全米2位の大ヒットになりました。

 この曲、実はローラ本人より先にピーター、ポール&マリーがリリース(1966年)していますので、最後にローラ、P,P&M、そしてB,S&Tと3ヴァージョン続けてどうぞ。

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「霧のベイカー街(Baker Street)」ジェリー・ラファティ(1978)

 おはようございます。

今日はジェリー・ラファティの「霧のベイカー・ストリート」です。

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Windin' your way down on Baker Street
Light in your head and dead on your feet
Well another crazy day, you'll drink the night away
And forget about everything
This city desert makes you feel so cold
It's got so many people but it's got no soul
And it's taking you so long to find out you were wrong
When you thought it held everything

 

You used to think that it was so easy
You used to say that it was so easy
But you're tryin', you're tryin' now
Another year and then you'll be happy
Just one more year and then you'll be happy
But you're cryin', you're cryin' now


Way down the street there's a light in his place
He opens the door he's got that look on his face
And he asks you where you've been
You tell him who you've seen and you talk about anything
He's got this dream about buyin' some land
He's gonna give up the booze and the one night stands
And then he'll settle down, in some quiet little town
And forget about everything

 

But you know he'll always keep movin'
You know he's never gonna stop movin'
'Cause he's rollin', he's the rollin' stone
And when you wake up, it's a new mornin'
The sun is shinin', it's a new mornin'
You're goin', you're goin' home

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イカー・ストリートの曲がりくねった道をゆく
頭はクラクラして足は動かない
いつものイカれた一日、夜は飲み明かして
すべて忘れてるのさ
この街の砂漠は君を凍えさせる
たくさん人はいるが 魂がはない
自分が間違いに気づくのに時間がかかりすぎる
そこにはすべてがあると考えていたから

かつて君はとても簡単だと思っていた
かつて君はとても簡単さと言っていた
だけど、君は努力して がんばっているね今
何年かすれば幸せになれるだろう
あと1年だけ、そうすれば君はは幸せになれるだろう
だけど君は泣いている、泣いているね今


通りの向こうでは、ヤツの部屋に明かりがついている
ヤツはドアを開けてあの表情を浮かべる
そして君はどこに行っていたのかとたずねて
君は誰に会ったかとか何でも話すのさ
ヤツは土地を買う夢を見ている
酒と一夜限りの関係をあきらめて
ヤツは落ち着くのさ、どこか静かな小さな町に
すべてを忘れて

だけど君はわかってる、ヤツはいつだってじっとしちゃいないって
わかっているのさ、動くことをやめはしないと
だって彼は転がる、転がる石なんだ
そして目覚めれば、新しい朝
太陽は輝いている  新しい朝
君は家に帰っていくのさ

 (拙訳)

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  1978年当時全米2位、全英3位になった大ヒットですが、2010年にはアメリカの著作権団体BMIから、世界で500万回以上放送や演奏された曲として表彰されています。これはビートルズの「カム・トゥゲザー」、エルトン・ジョンの「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」や「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」と同じ規模ということですので、堂々たる”スタンダード”でもあるんですね。

 

  彼は1947年にスコットランドのペイズリーで、スコットランド人の母とアイルランド人の父との間に生まれました。少年時代に母親からアイルランドスコットランドの民謡を教わり、その後、ビートルズボブ・ディランの音楽に影響を受け、自分でもオリジナル曲を描くようになったそうです。1969年にのちに大人気コメディアンになるビリー・コノリーがいるハンブルバムズというグループに参加します。成功はしませんでしたが、ジェリーの”ポール・マッカートニー”を思い起こさせるようなソングライティングが発揮されています。

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ハンブルバムズが解散すると、1971年に彼はソロ・アーティストとしてデビューを果たします。

 Can I Have My Money Back

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 彼はこのレコーディングで学校時代の友人であるジョー・イーガンをバック・ボーカルに起用、レコードは売れませんでしたが、このセッションをきっかけに二人は”スティーラーズ・ホイール”を結成します。

  そしてA&Mレコードと契約し、なんと、プレスリーの「ハウンド・ドッグ」やベン.E.キングの「スタンド・バイ・ミー」など、ロック、R&Bの歴史を作ったプロデューサー・チーム、ジェフ・リーバーとマイク・ストーラーが彼らを担当することになります。

 そして、1973年のこのデビュー曲がいきなり、全米6位、全米8位の大ヒットになります。のちに、タランティーノが映画「レザボア・ドッグス」で使ったリバイバル・ヒットしたことでも知られています。

 

Stuck in the Middle with You

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 しかし、このバンドは彼とジョー以外のメンバーが入れ替わり、結局2人組になり、次第に彼とジョーの仲がうまくいかなくなり、といったドタバタが絶えなかったようで、3枚目のアルバムのリリースされることには解散していました。

   ジェリーは新たな活動を望みましたが、マネージメントとの契約問題で裁判沙汰になり、結局約3年ブランクが空いてしまうことになります。

 

 そして、ようやく晴れてソロ活動することになり、作られたのがこの「霧のベイカー街」でした。

   ベイカー街はシャーロック・ホームズが住んでいた場所として知られていますね。

しかし、この歌にはホームズもワトソンも出てきません。ベイカー街は、訴訟問題で彼が通った弁護士の事務所があって、そのことが反映された曲だったのです。

 

「みんなお互いを訴えあっていたから、僕は弁護士と打ち合わせするためにグラスゴーからロンドン行きの夜行列車で多くの時間を使っていた。僕はベイカー街の小さなフラットに住んでいるヤツを知っていたんだ。僕らはそこで夜通し座って、しゃべたり、ギターを弾いたりしたんだ」

 (Daily Telegraph 2011

 

 この曲でまず耳を引くのはイントロのサックスですね。ポップ・ミュージックの歴史の中でもイントロのサックスとしては屈指のものだと僕は思います。

 

 このリフを吹いているのはラファエル・ラヴェンスクロフトという人で、このまさに”一世一代の”演奏で有名になります。

 しかし、生涯この曲と結び付けられることになったことにうんざりしたのか、晩年のラジオ・インタビューでは、このフレーズについて”音が外れていてイライラする。フラットしてるんだ。せいぜいイライラさせられるだけのものさ”と語っていたそうです。

 

 ただし、このフレーズを考えたのはジェリー本人で、プロデューサーの提案でサックスを試すことにして、ラファエルには口頭で伝えたそうです。のちに発表されたこの曲のデモヴァージョンでは、ギターでこのフレーズの原型を聴くことができます。

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 この曲の大ヒットが結果として、彼の人生の歯車が狂ってしまったようで、大変繊細だったという彼は、プロモーション・ツアー中にパニック障害を起こすほどだったそうで、大掛かりなアメリカツアーもキャンセルすることになったと言われています。

 

 大きな成功に見合うキャラクターになれなかったこと、それが結果的に「霧のベイカー街」以降、大きく成功できなかった原因の一つのようです。

 

 そして彼は、昨日このブログに登場したデヴィッド・キャシディのようにアルコール依存症になり、2011年に肝不全で亡くなってしまいます。

 「霧のベイカー街」は晩年でも毎年8万ドルを稼いでいたそうですから、経済的に困ることはなかったとは思いますが、アルコール依存から抜け出すことはできなかったようです。

 彼の歩みを追ってゆくと、本当に才能のあるポップ・ソング・ライターだったのだと思います。

 日本では「霧のベイカー街」の印象が強いようですが、海外ではこの次のシングル「Right Down the Line」など他のレパートリーも人気があるようです。

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 最後はこの曲のカバー。2018年にショーン・コルヴィンがコーラスにデヴィッド・クロスビーを迎えたカバーをやっていて、なかなか味わいがあります。

 

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「デイドリーマー(Daydreamer)」デヴィッド・キャシディ(1973)

 おはようございます。

 今日はデヴィッド・キャシディの「デイドリーマー」です。

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I remember April
When the sun was in the sky
And love was burning in your eyes

Nothing in the world could bother me
'cos I was living in a world of ecstasy
But now you're gone I'm just a

daydreamer
I'm walking in the rain
Chasing after rainbows I may never find again

Life is much too beautiful to live it all alone
Oh how much I need someone to call my very own


Now the summer's over
And I find myself alone
With only memories of you
I was so in love I couldn't see
'cos I was living in a world of make believe
But now you're gone I'm just a

daydreamer

I'm walking in the rain
Chasing after rainbows I may never find again

Life is much too beautiful to live it all alone
Oh how much I need someone to call my very own


I'm just a daydreamer
I'm walking in the rain
Chasing after rainbows I may never find again

Life is much too beautiful to live it all alone
Oh how much I need someone to call my very own

I'm just a daydreamer
I'm walking in the rain
Chasing after rainbows I may never find again
Life is much to beautiful to live it all alone
Oh how much I need someone to call my very own
I'm just a daydreamer baby

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4月を覚えているよ
空には太陽があって
君の瞳には愛が燃えていた

僕らを邪魔するものなんてなかった
僕は歓喜の世界に生きていたから
だけど、君がいなくなって今は
僕はただのデイドリーマーさ
雨の中を歩いている
二度と見つからないかもしれない
虹を追いかけて

ひとりぼっちで生きるには人生はあまりにも美しい
ああ、僕だけを呼んでくれる誰かがどれだけ必要か
夏は終わって
気づけばひとりぼっちさ
あるのは君の思い出だけ
恋に夢中なあまりわからなかった
だって僕は見せかけの世界に生きていたから
でも君がいなくなった今
僕はただのデイドリーマーさ
雨の中を歩いている
二度と見つからないかもしれない
虹を追いかけて

ひとりぼっちで生きるには人生はあまりにも美しい
ああ、僕だけを呼んでくれる誰かがどれだけ必要か
僕はただのデイドリーマー
雨の中を歩いている
二度と見つからないかもしれない
虹を追いかけて

ひとりぼっちで生きるには人生はあまりにも美しい
ああ、僕だけを呼んでくれる誰かがどれだけ必要か

私はただのデイドリーマー
雨の中を歩いている
二度と見つけられないかもしれない虹を追いかけて
ひとりぼっちで生きるには人生はあまりにも美しい
ああ、僕だけを呼んでくれる誰かがどれだけ必要か
僕はただのデイドリーマーさ、ベイビー

 (拙訳)

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 たぶん、僕が初めて認識した男性アイドルはフォーリーブスだったと思いますが、このデヴィッド・キャシディもだいたい同じ頃におぼえています。新潟の田舎町でテレビしか接するメディアのない小学生2~3年生の僕が記憶しているくらいですから、日本でもかなり人気があったのだと思います。

 (海外の記事を見ると”1970年代のジャスティン・ビーバーという表記があって、なるほど、わかりやすい、と思いました、、)

 僕が彼を見たのは「パートリッジ・ファミリー」というドラマでした。アメリカでは1970年スタート、日本では1972年からオンエアされたようです。

<未亡人となった母親を経済面で助けようと5人の兄弟姉妹が組んだバンド(母親もボーカルとして参加)が、マネージャーの手腕もあって人気を獲得。母親の運転するスクールバスで演奏旅行を行うようになり、その中で発生する様々な出来事を描く…という構成>(ウィキペディア

 

   このドラマの中で歌われた曲が実際に大ヒット、1970年に全米NO.1になります。

「悲しき初恋 (I Think I Love You)」

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 父親が俳優で歌手、母親も女優という芸能一家に生まれた彼は、1969年にブロードウェイでデビューすると、このショーを見たキャスティング・ディレクターのすすめで、ユニバーサルと契約し、テレビにいくつか出演するようになります。

 そしてこの「パートリッジ・ファミリー」で、一気に世界的なアイドルの座に着いたわけです。

 その人気に合わせて、1971年にソロ・アーティストとしてデビュー。デビュー曲はアソシエーションの「チェリッシュ」のカバー。全米9位のヒットになりました。

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  1972年にはヤング・ラスカルズの名曲「高鳴る心(How Can I Be Sure)」をカバーし全英1位(全米25位)になっています。

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   プロデューサーは「パートリッジ・ファミリー」の音楽も手がけていたウェス・フェレルという人で、”レッキング・クルー”などLAの優れたミュージシャンを集めて、アイドルとはいえしっかりした音作りをしている、というのがわかります。

 それから、興味深いのはアメリカのチャート上では「チェリッシュ」がピークで徐々に下降していくのですが、クロスするようにイギリスで人気が上がっていくんですね。

 

ともかく1970年代前半から中頃の彼の人気は凄まじかったようで、世界中の主要なアリーナでコンサートが完売し、ファンは集団ヒステリーを引き起こし、メディアは ”ビートルマニア”ならぬ"キャシディマニア"なる言葉でその騒ぎを表現していたそうです。

 

  そんな彼の絶頂期の1973年、彼にとって2曲めの全英1位になったのがこの「デイドリーマー」でした。

  ここからプロデューサーがリック・ジャラードになります。彼はニルソンの「パンディモニアム・シャドウ・ショウ」「空中バレー」「ハリー・ニルソンの肖像」といった傑作や、ジェファーソン・エアプレインの「シュールリアリスティック・ピロー」やホセ・フェリシアーノなどを手がけた人です。

 

 「パートリッジ・ファミリー」が続いたおかげもあって、彼の人気は続きましたが、1974年にロンドンのホワイト・シティ・スタジアムで行われたショーで、ステージ前で押しつぶされて800人近くが負傷し、14歳の少女が亡くなるという事件があり、そのことは長年彼を深く悩ませることになったと言われています。

 そして、彼はパートリッジ・ファミリーのツアーと俳優業の両方を辞め、レコーディングと作曲に専念し、1975年と1976年にRCAから3枚のソロ・アルバムをリリースしています。

 最初の「青春のポートレート(The Higher They Climb)」 はイギリスでもヒットしましたが、徐々にセールスは落ちてゆき、三枚目の「恋の大通り(Getting It in the Street)」は最初はドイツと日本のみでのリリースになっていたようです。

 しかし、最初の二枚はビーチ・ボーイズのブルース・ジョンストンがプロデュースしたり、三枚めはブライアン・ウィルソンとの共作曲があったりして、ポップス・ファンからの評価が高く、彼本人も満足していたようです。

 

 ”過去の人”になっていた彼が復活したのが1985年、彼の大ファンだったというジョージ・マイケルが参加したシングル「ラスト・キッス」でした(全英6位)。

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  プロデュースしたのがアラン・ターニー。a-haの「テイク・オン・ミー」やクリフ・リチャードの「恋はこれっきり」などを手がけたこの時代を代表する”ポップ・マスター”の一人ですね。この曲はアランがクリフ・リチャードに書いてリリースされていた「Young Love」という曲の歌詞をデヴィッドが書き変えたものだったようです。

 

 このヒットを最後に彼がスポットライトを浴びることはなく、長年深刻なアルコール中毒に苦しんだ末、2017年に肝不全で亡くなっています。

 彼の娘によると最後の言葉が「So much wasted time」という、なんとも痛ましいものであったことが伝えられています。

 

 彼の晩年のインタビューで

「自分が10代の頃、マーヴィン・ゲイB.B.キングエリック・クラプトンジミ・ヘンドリックスを5回、ベルベット・アンダーグラウンド、ドアーズ、バッファロー・スプリングフィールドなどを見たことがあります。ドアーズはウィスキーで見ました。68年にはストーンズも見ました。ヘンドリックスは5回、彼がママス・アンド・パパスの前座を務めたのも見ました」

 (Yahoo" Entertainment     

  と語っていて、かなりのロック・ファンだったようで、他のインタビューではR&Bやブルースへの愛情を語っていました。

 アイドルであることと、本格的な音楽ファンであることのギャップに悩まされていたのかもしれません。

 

 さて、「デイドリーマー」を聴いていると、バリー・マニロウでヒットした「涙色の微笑(Can't Smile Without You)」はこの曲を参考にしたんじゃないか、と僕には思えるんです。ジノ・クニコというシンガーの「ジノ・クニコ」というアルバムには両方のカバーが入っていて、わざとだろ?なんて疑ってしまいます。

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 そういえば、ワムの「ラストクリスマス」は「涙色の微笑」の盗作じゃないかと訴えられ示談になったことがあったことを思い出しました。

 でも、ジョージ・マイケルがデヴィッドの大ファンだったなら、「ラスト・クリスマス」は「デイドリーマー」の方の影響が大きいんじゃないか、などと考えていたら、デヴィッドのこんなライヴ動画がありました。「涙色の微笑」と「ラスト・クリスマス」に、クール&ザ・ギャングの「ジョアンナ」まで加えて、全部「デイドリーマー」のパクリだろ?って感じで、そんなあからさまにやらなくても、と思いもしますが、、、。「ラスト・クリスマス」を訴えた「涙色の微笑」だって「デイドリーム」に似てるじゃないか、なんて話に当時になって、「涙色の微笑」側も示談にせざるを得なかった、、なんてことはあったのでしょうか、、、その辺はわかりませんが。

 1985年のロイヤル・アルバート・ホールでのライヴのようです。

 

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「オンリー・ザ・ロンリー(Only The Lonely)」ロイ・オービソン(1960)

 おはようございます。

 今日もロイ・オービソン・「オンリー・ザ・ロンリー」を。

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(Dum-dum-dum-dumdy-doo-wah
 Ooh-yay-yay-yay-yeah
 Oh-oh-oh-oh-wah
 Only the lonely
 Only the lonely)

 

Only the lonely 
Know the way I feel tonight
Only the lonely 
Know this feeling ain't right 

And there goes my baby
There goes my heart
They're gone forever
So far apart

But only the lonely
Know why
I cry
Only the lonely

 

(Dum-dum-dum-dumdy-doo-wah
 Ooh-yay-yay-yay-yeah
 Oh-oh-oh-oh-wah
 Only the lonely
 Only the lonely)

 

Only the lonely
Know the heartaches I've been through 
Only the lonely 
Know I cry and cry for you 

And maybe tomorrow
A new romance
No more sorrow
But that's the chance

You gotta take
If your lonely heart breaks
Only the lonely

**************************************************************

孤独な人だけが
今夜の僕の気持ちをわかってくれる
さみしい人だけが
この気持ちがしっくりしないとわかっている

そして、僕のあの娘が通り過ぎると
僕の心も行ってしまう
永遠に行ってしまう
あまりに遠い場所へ

だけど、さみしい人ならわかってくれる
どうして僕が泣いているのか
さみしい人なら


孤独な人だけが
私が経験した心の痛みをわかってくれる
さみしい人だけが
僕が君を思って泣いて、泣いているのを知っている

そして、たぶん明日
新しいロマンスがおとずれて
悲しみは消えるかも
だけど、それはどうなるかわからない
受け入れるしかないんだ
もし、君のさみしい心が傷つくことになっても
孤独な人ならば

   (拙訳)

**************************************************************

 

オンリー・ザ・ロンリー」は、「オー・プリティ・ウーマン」と並ぶロイ・オービソンの代名詞とも言える曲で、彼の初めてのメジャー・ヒットでもありました。

 

  1936年にテキサス州ヴァーノンで生まれたロイは、6歳の時に父親からギターをプレゼントされて以来音楽に夢中になっていたといいます。

     レコード・デビューはメンフィスのサン・レコード。エルヴィス・プレスリーを生み出したことで有名なレーベルですね。ロイが組んでいたバンド”ティーン・キングス”がレコーディングした「Ooby Dooby」という曲がレーベルのオーナー、サム・フィリップスに気に入られたのです。

 そして、この曲をあらためて録音し直し、リリースすると全米59位まで上がりました。

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 しかし、その後はヒットが出ずくすぶっていた彼は、地道にライヴをやりながらナッシュビルの出版社ウェスリー・ローズでソングライターとしてせっせと曲を書いていました。彼が大学時代の恋人であり妻となったクローデットのために書いた曲「クローデット」がエバリー・ブラザーズに提供が決まった頃に、ロイはサン・レコードを離れ、エルビス・プレスリーと同じようにRCAと契約します。しかし、RCAでもヒットは出ませんでした。

 また、ある日テキサスで知り合ったジョー・メルソンというソングライターに声をかけられ彼は一緒に曲作りをするようになります。

 そして、ウェスリー・ローズを介して、フレッド・フォスターというプロデューサーが運営するモニュメント・レコードに移籍することで、彼はブレイクすることになります。少なくともロイに関しては、サム・フィリップスよりフレッド・フォスターの方が適したプロデューサーだったことが証明されていきます。

 (どんな天才的な才能を持つアーティストでも、特別な人物との出会いがなければ、その才能を開花させることはできない、このブログでたくさんのアーティストの歩みを追ってみてつくづく感じることです)

 

  そして、メルソンと書いた「Up Town」が全米72位と久しぶりにチャートインを果たします。

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 この曲で、ロイはストリングスを入れることを提案したそうです。そして、それが彼のスタイルにつながってゆくのです。

 ドライでソリッドなロカビリー・サウンドではなく、ストリングスを加えた叙情的でドラマティックなサウンドが、彼のベルベット・ヴォイスを活かすことになった、ということです。

 それが結実したのが次のシングルのこの「オンリー・ザ・ロンリー」。全米2位の大ヒットになりました。

 

  実はこの曲は当初、エルヴィス・プレスリーに歌ってもらいたいと思って作ったそうですが採用されず、その後エヴァリー・ブラザースからも却下されたため、自ら歌うことになったそうです。

 

 ちなみに、エルヴィスはのちに 自身のラスヴェガスのショーで、ロイについて”最も完璧な声”'”世界で最も偉大なシンガー”と語っていたそうで、エルヴィスが生涯ロイの曲をレコーディングしなかったのは、自分よりロイが歌った方が良いという敬意があったからではないかと考察している人もいます。

 

 ジェフ・リンは自分が作ってみたかったシンプルな曲は何かという質問にこう答えています。

「その一つは、間違いなくロイ・オービソンの「オンリー・ザ・ロンリー」になるよ。とてもクレバーな曲なんだ。とてもシンプルで、4つのコードしかないのに、何百ものコードに聞こえるんだ」

「「オンリー・ザ・ロンリー」は、あらゆる美しさを備えていると思う、とてもシンプルなコードなのにね。僕はいつも、"どうやって作ったのだろう?"と考えていたものさ。僕が小さい頃、13歳の頃は、"これを全部まとめて、こんな美しいものに誰がやっているだろう?"と思っていた。それは僕さ(笑)。冗談だよ。僕はベストを尽くしているけど、あの作品に近づくことさえできないと思うよ」

(Forbes   Dec 1, 2019)

 

 シンプルなコードの曲を豊かに聴かせる、このアプローチはジェフのE.L.Oにつながっているように思えます。

 また、ロイは自身のヴォーカル・スタイルを”「Ooby Dooby」から「オンリー・ザ・ロンリー」の間のどこかで身につけた”と語っています。

 

 「オンリー・ザ・ロンリー」はロイのヴォーカル、サウンド、という音楽的なスタイルが確立された曲だったわけですが、もう一つ重要な要素が打ち出されています。

 歌詞です。

 

 ブルース・スプリングスティーンはこう語っています。

「ロイは、あなたが今まで見た中で最もクールな、カッコ悪い負け犬だった」

 

 当時、ロックンロールは社会的弱者であり負け犬である若者を鼓舞させる音楽として人気を集めていました。

 ロイ・オービソンは、この「オンリー・ザ・ロンリー」で、その新たなヴァリエーション、発展形として、恋に破れた若者の思いを、ドラマティックなロックンロールにするということに成功したわけですね。

 そして、その影響をもとに、負け犬をクールにドラマティックに描くロック、というのを極めたのが「明日なき暴走」のブルース・スプリングスティーンだったわけです。

 彼の「涙のサンダー・ロード」のこの歌詞にこの「オンリー・ザ・ロンリー」が出て来ますね。

”Roy Orbison singing for the lonely 
  Hey that's me and I want you only "
ロイ・オービソンが孤独な者のために歌ってる、ヘイ、それは俺のことさ、おまえだけがほしいんだ)
 そして、J.D.サウザーもロイ・オービゾンに夢中になった一人で。彼の大ヒット曲「ユア・オンリー・ロンリー」は、タイトルも含めてあえて「オンリー・ザ・ロンリー」の影響がわかるようになっています(音楽的にはロイの「I'm Hurtin」という曲の影響も大きいですが)。

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  その後彼は、”ヤツに彼女を奪われることをおそれてひたすらビビっている”という内容の「ランニング・スケアード」(1961年全米1位)や”ふられて立ち直ったはずなのに、偶然君と会ったらどうしても泣いてしまう”という「クライング」(1961年全米2位)など、言い方は悪いですが”へなちょこな”主人公の歌を、美しくドラマティックに歌うことで大人気になっていくのです。

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 でも、言ってみれば、人はみんな”へなちょこ”です。へなちょこな世界でも、それをドラマティックな音楽で彩ることで、気持ちが日常の鎖から解き放たれ、ひとときの勇気をもらえたりする、そういった働きというのが、ポップ・ソングの真理のひとつのように僕には思えるんです。

 

 最後は1987年、彼がなくなる1年前に行われたコンサートのライヴ映像を。

 ロサンゼルスのアンバサダーホテル内にあるナイト・クラブ「ココナッツ・グローヴ」で、彼を敬愛するアーティストやエルヴィス・プレスリーのバック・バンド(TCBバンド)のプレイヤーなどを迎えて行われたライヴで、1989年に『ブラック・アンド・ホワイト・ナイト』というタイトルでリリースされています。

 集まったのはスプリングスティーンJ.D.サウザーのほかジャクソン・ブラウンエルヴィス・コステロトム・ウェイツ、ジェームズ・バートンなどすごい面々。

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「ユー・ゴット・イット(You Got It)」ロイ・オービソン(1989)

 おはようございます。

 今日はロイ・オービソンの「ユー・ゴット・イット」です。

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Every time I look into your loving eyes
I see a love that money just can't buy
One look from you, I drift away
I pray that you are here to stay

Anything you want, you got it
Anything you need, you got it
Anything at all, you got it
Baby

Every time I hold you, I begin to understand
Everything about you tells me I'm your man
I live my life to be with you
No one can do the things you do

Anything you want, you got it
Anything you need, you got it
Anything at all, you got it
Baby
Anything you want
Anything you need
Anything at all

I'm glad to give my love to you
I know you feel the way I do

Anything you want, you got it
Anything you need, you got it
Anything at all, you got it
Baby
Anything you want, you got it
Anything you need, you got it
Anything at all, you got it
Baby

Anything at all
Baby
You got it

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君の愛しい瞳をのぞきこむたびに
お金では買えない愛をが見えるんだ
君から見つめられると 心は漂ってゆく
君がここにいてくれることを祈るよ

欲しいものは何でも、君のものさ
必要なものは何でも、手に入れられるよ
どんなものでも、君のものさ
ベイビー

君を抱きしめるたびに、僕は理解し始める
君のすべてが、僕が君のものであると僕に教える
君と一緒にいるために僕は生きている
誰も君のようにはできないんだ

欲しいものは何でも、君のものさ
必要なものは何でも、手に入れられるよ
どんなものでも、君のものさ
ベイビー
欲しいものは何でも
必要なものは何でも
どんなものでも

喜んで君に僕の愛を与えよう
君も同じように感じているはずさ

欲しいものは何でも、君のものさ
必要なものは何でも、手に入れられるよ
どんなものでも、君のものさ
ベイビー
欲しいものは何でも、君のものさ
必要なものは何でも、手に入れられるよ
どんなものでも、君のものさ
ベイビー

どんなものでも
ベイビー
君のものさ

                (拙訳)

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 1960年代に「オー・プリティ・ウーマン」をはじめとして数々のヒットを放っていたロイ・オービソンは1970年代に入ると1曲も全米チャートの100位に入らないという長い苦境に陥っていました。

 しかし、1980年になると彼を取り巻く状況は変わっていきます。まず、ドン・マクリーンが彼の「クライング」をカバーし大ヒットさせ、彼自身もエミルー・ハリスとデュエットした映画「ローディー」(主演がミート・ローフ。ロイ本人のほか、アリス・クーパー、ブロンディなどもカメオ出演しています)の主題歌「That Lovin' You Feelin' Again」で」全米55位と、久々のチャートインを果たします。

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  1982年にはヴァン・ヘイレンが「オー・プリティ・ウーマン」をカバーし全米12位のヒットになります。

 その後、映画の仕事が増えていき、1985年にはイギリス映画「マリリンとアインシュタイン」のために彼は「Wild Hearts Run Out Of Time」という曲を書き下ろして歌っています。

 1987年になるとデヴィッド・リンチの「ブルー・ベルベット」では彼の代表作の一つ「イン・ドリームス」が使われ、 「Life Fades Away 」という曲が映画『レス・ザン・ゼロ』に収録され、映画『ヒディング・アウト』のサウンドトラックに収録するために、k.d.ラングと 「Crying 」をデュエットしています。

 

 そんな中で1988年に彼は、ボブ・ディランジョージ・ハリスン、ジェフ・リン、トム・ペティと”トラヴェリング・ウィルベリーズ”を結成します。

 これはロイが自身のアルバムをプロデュースすることになったジェフ・リンと、やはりジェフのプロデュースで「クラウド・ナイン」というアルバムを完成させていたジョージ・ハリスンと3人で会食しているときに、ジョージのEPの追加曲のレコーディングに参加することになったのがきっかけでできたグループだったといわれています。

 

 予定していたスタジオが使えなくなったため、ハリソンはボブ・ディランに電話し、マリブにある彼のガレージ・スタジオを使わせてもらうことになったことでディランも参加し、また、ハリソンにギターを借りていたトム・ペティもそこに加わり、ということだったようです。そして、曲の仕上がりがあまりに良かったので、グループを組んでそのレパートリーとして発表することになりました。

 

「Handle with Care」1988年全米45位

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 そして、トラヴェリング・ウィルベリーズと並行して制作されたのが、彼の10年ぶりとなるオリジナル・アルバム「ミステリー・ガール」で、そこからのファーストシングルがこの「ユー・ゴット・イット」で、全米9位と、1964年の「オー、プリティ・ウーマン」以来25年ぶりのトップ10ヒットになりました。

 トラヴェリング・ウィルベリーズの「Handle with Care」と同じ月、一説によると前日にレコーディングされたと言われています。

 

 この曲はロイとジェフ・リンとトム・ペティが共作しました。

  ジェフ・リンはこう回想しています。

「長い間、彼はただ形だけのレコーディングをやってきて、彼に共感できたり、十分に配慮したり、その音楽に愛情を注げるような人とは仕事をしていなかったんだ。僕は彼がどんな人でどれだけ偉大なのか思い出させた。だからこそ、彼の素晴らしいパフォーマンスを引き出すことができたんだ」

 (Rolling Stone JANUARY 21, 2016

 

 ジェフ・リンにとって彼はビートルズと並ぶアイドルだったそうです。長い間”過去の人”扱いされていたロイ・オービソンにとって、ジェフはただ売れっ子の才能あるプロデューサーでなく、自分をリスペクトし、自分の個性を十分に理解している人だったわけです。 

 アーティストというのは人一倍ナイーヴですから、”リスペクト”や”理解”というのは、1番のモチベーションになりますから、結果として良い作品を作り出すのに実は最も重要なことなのかもしれません。

  

   久しぶりに脚光を浴び充実した仕事ができていた、ロイはいつになく多忙な日々を送っていたのでしょう、1988年12月、オハイオでのライヴ後体調を崩し、ノースカロライナ州の自宅で数日療養した後、トラヴェリング・ウィルベリーズのビデオ撮影でロンドンに飛び、また帰ると、心臓発作で亡くなってしまいます。まだ52歳だったそうです。

 

 その翌月にこの「You Got It」とアルバム「ミステリー・ガール」が発売され、大ヒットしたわけですが、彼自身はそれに立ち会うことはできなかったのです。

 

 最後は「ミステリー・ガール」から2曲。

 

まずは、U2のボノのプロデュースでボノとエッジが書いた「 She's a Mystery to Me」

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「ユー・ゴット・イット」と同じく、ジェフ・リンのプロデュース、ロイ、ジェフ、トムの共作による「カルフォルニア・ブルー」

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「ナイト・イン・ニューヨーク」エルボウ・ボーンズ&ザ・ラケッティアーズ(1983)

 おはようございます。

 今日も、昨日に続いて”80年代ニューヨークの夜もの”。エルボウ・ボーンズ&ザ・ラケッティアーズの「ナイト・イン・ニューヨーク」です。

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I have known a thousand eyes
Who would knock my big brown eyes
And at least a hundred times
They have almost lost their minds
I have had them promise me
Caviar and limousines
But if they really knew me
Really, if they knew me
They'd take me for a night in New York
Take me for a night in New York
Oh, take me for a night

You have had so many girls
Speak of fancy cars and pearls
And the girl I used to know
Only dated guys with plenty dough
Women all have need a guy
She don't have to tell big lies
'Cause if he really knew me
He could really wound me
And take me for a night in New York
Take me for a night in New York
Oh, take me for a night

Once we're at Central Park
Is guaranteed to win a heart
A streetserenader's guitar
Sings the stars out just where we are
So if you wanna please me
I don't mind if you tease me
Just take me for a night in New York
Take me for a night in New York
Oh, take me for a night

So if you wanna please me
I don't mind if you tease me (Don't mind if you tease me
Just take me for a night in New York
Take me for a night in New York
Oh, take me for a night
Take me for a night

So if you wanna please me
I don't mind if you tease me
Take me for a night in New York
Take me for a night in New York
Take me for a night in New York
Oh, take me for a night

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千もの視線が
私の大きな茶色の瞳に釘付けだって知ってるわ
そして少なくとも100回は
彼らの頭がおかしくなりそうだったことも
私は彼らにキャビアとリムジンを約束させた
でも、もし彼らが本当に私のことを知っていたら
本当に、私のことがわかっていたら


私を夜のニューヨークに連れて行ってくれるはず
私を夜のニューヨークに連れて行って
ああ、一晩連れて行って

 

たくさんの女の子と付き合っていたわね
派手な車と真珠の話をするような
私が知っていた女の子は
金持ちとしかデートしない
女にはみんな男が必要なの
大きな嘘をつく必要はない
だって、もし彼が私のことを本当に知っていたら
私を傷つけることだってできるから


夜のニューヨークに連れて行って
私を夜のニューヨークに連れて行って
ああ、一晩連れて行って

 

一度でもセントラルパーク過ごしたら
心を勝ち取れるって保証するわ
街のセレナーデのギターが
私たちがいる場所で歌で星を生み出すの
だからもしあなたが私を喜ばせたいなら
私をからかっても構わないから


ただ、私を夜のニューヨークに連れて行って
私を夜のニューヨークに連れて行って
ああ、一晩連れて行って

あなたが私を喜ばせたいなら
私をからかっても構いから


私を夜のニューヨークに連れて行って
私を夜のニューヨークに連れて行って
ああ、一晩連れて行って
一晩連れて行って

 

だから、もし、私を喜ばせたいなら
私をからかってもかまわない
私を夜のニューヨークに連れて行って
私を夜のニューヨークに連れて行って
ああ、一晩連れて行って

(拙訳)

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 このエルボウ・ボーンズ&ザ・ラケッティアーズはオーガスト・バーネルが作ったバンドです。オーガスト・バーネルはキッド・クレオールという芸名で知られています。

昔、日本でこんなCMに出ていて人気者になりました。

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 彼のバンド、キッド・クレオール&ザ・ココナッツに影響を受けたのが米米クラブで、確か彼らは共演もしていました。

 

 さて、キッド・クレオールことオーガスト・バーネルは本名をトム・ブラウナーというそうで、ブロンクスに生まれています。

 

 1965年に異母兄弟のストーニー・ブロウダーとインロウズというバンドを結成しますが、英語教師としてのキャリアを積むためにバンドは解散し、彼は実際に中学校で教鞭をとっていたそうです。

 しかし、音楽への気持ちが断ち切れなかったのでしょう、1974年に彼はストニーと一緒に”ドクター・バザーズ・オリジナル・サヴァンナ・バンド(Dr. Buzzard's Original Savannah Band)”を結成し、作詞家兼ベーシストとなります。

 彼らの「シェ・シェ・ラファム」が1976年に全米27位になっていて、のちにグロリア・エスティファンもカバーしています。

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 こういうスタイルを日本でいち早く取り入れたのが加藤和彦で、竹内まりやのデビュー曲「戻っておいで・私の時間」のアレンジにとり入れています。

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 1979年に兄ストーニーのワンマン体制に不満を持つようになり、自分の音楽を追求するためにバンドを脱退します。そして、1980年にはエルヴィス・プレスリーの映画『キング・クレオール』からヒントを得て、”キッド・クレオール”と名乗るようになります。そして「キッド・クレオール・アンド・ザ・ココナッツ」を結成し、キャブ・キャロウェイに代表されるビッグ・バンドに、サルサ、ジャズ、ポップ・ミュージック、ディスコなどをミックスした、よりインパクトの強いスタイルを確立します。

 

 オリジナル・サヴァンナ・バンドとキッド・クレオールとの違いをこう語っています。

「自分のバンドを作り始めたときに、やりたいと思ったのは、Dr. バザーから受け継いだものを維持しながら、同時に違ったものにアクセントを置くことだった。その中でも特に残しておきたいと思ったのは、40年代への憧れだ。キッド・クレオール&ザ・ココナッツでは、全員でズートスーツを着たいと思っていしたし、ハンフリー・ボガートクラーク・ゲーブルのようなマチネのアイドルのようになりたいと思っていたんだ。でも、そういうスタイルや40年代へのリスペクトを忘れずに、オールド・タイムな感じを出しながらも、サバンナ・バンドのときよりもアイランド/カリビアンな感じを強調したいと思ったんだ」

 (Blues &Soul)

 彼らはアメリカではなかなか売れなかったのですが、1982年にイギリスで突如ブレイクします。

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 この曲を含むシングル3枚がベスト10入りし、アルバム「トロピカル・ギャングスターズ」は3位まであがる大ヒットになりました。

 

   そして彼が新たにプロデュースしたバンドが、このエルボウ・ボーンズ&ザ・ラケッティアーズでした。

 エルボウ・ボーンズとは本名をジョン・リンスキーといって本業はフィトグラファーでした。

「1980年に彼らと一緒についてまわり、背景や写真、ビデオを撮影し、すべてのショーに行ったよ。彼らと一緒にいるためには何でもやった、トラックの運転だってやったんだ。オーガストは、私がいつも彼の注意を引こうとする(elbowing into his ribs、肘で肋骨を突っつく)ので、僕のことをパラサイトだと思っていたようです。それで、エルボウ・ボーンズと彼は僕を呼んでいたんだけど、それはまったくの蔑称なんだよ」

 (https://www.jonkutner.com/

 

 「詐欺師たち」という意味のラケッティアーズ(racketeers)は、フランク”パゴパゴ”パサラクア、ギチー・ダン、ケン・フラッドリー、リー・ロバートソン、そしてココナッツのメンバー、キャロル・コールマンというメンバーでした。

 

 ジョン・リンスキーは彼にバンドのアイディアを提案しますが、全く興味を持ってもらえなかったそうで、そこで相談したのがキッド・クレオールの兄、ストーニーにでした。彼のバックアップでキッドがツアーで不在の間にデモを作ったそうで、帰って来てその音源を聴いたキッドは急に興味を持つと行動に移し、メジャーレーベルとの契約を勝ち取って来たのだそうです。

 

 そして、当時キッド・クレオールが制作していた四枚目のアルバムに作家として参加していたロン・ロジャースに書かせたのがこの「ナイト・イン・ニューヨーク」だったのです。そして、シングルのB面にはストーニーが書いた「ハッピー・タイムス」という曲が収録されています。

 

  ジョン・リンスキーはキッド・クレオールことオーガスト・ダーネル

「ダーネルはまわりにいるたくさんの才能を利用するのを見てきたけど、彼の方からは与えることはあまりないんだ」とちょっと辛辣にコメントしていますが、確かに最初は興味示さなかったのに、ある程度出来上がったものを見て気にいると自分のプロデュースのものにしたわけで、そういうところがある人かもなあ、などと思ってしまいます。

 

 それから、エルボウ・ボーンズ&ザ・ラケッティアーズはココナッツよりオリジナル・サヴァンナ・バンドに近い感じがするのはストーニーがからんだからかな、とも推測してしまいます。

 

 最後に、「ナイト・イン・ニューヨーク」の次のシングル「Happy Birthday、Baby」を。

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「ステッピン・アウト(Steppin' Out)」ジョー・ジャクソン(1982)

 おはようございます。

 今日はジョー・ジャクソンの「ステッピン・アウト」を。

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Now
The mist across the window hides the lines
But nothing hides the color of the lights that shine
Electricity so fine
Look and dry your eyes

We
So tired of all the darkness in our lives
With no more angry words to say can come alive
Get into a car and drive
To the other side

Me babe, steppin' out
Into the night
Into the light
You babe, steppin' out
Into the night
Into the light

We
Are young but getting old before our time
We'll leave the T.V. and the radio behind
Don't you wonder what we'll find
Steppin' out tonight?


You
Can dress in pink and blue just like a child
And in a yellow taxi turn to me and smile
We'll be there in just a while
If you follow me

Me babe, steppin' out
Into the night
Into the light
You babe, steppin' out
Into the night
Into the light

Me babe, steppin' out
Into the night
Into the light
You babe, steppin' out
Into the night
Into the light
Me babe, steppin' out
Into the night
Into the light

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ウィンドウいっぱいの霧が車線を隠す
だけど、輝くネオンの色は隠せない
電気ってなんて素晴らしいんだ
見てごらん、 目が乾くくらいに

僕たちは
人生の暗闇にもううんざりしている
怒りの言葉はもう言わないで
生き返ることはできる
車に乗りこんで、走らせよう
あっち側の世界へ

僕と、ベイブ、出かけよう
夜の中へ
光の中へ
君と、ベイブ、出かけよう
夜の中へ
光の中へ

僕たちは
若いけど、楽しむ前に年をとってしまう
テレビもラジオも放っておいて
何を見つけられるか楽しみじゃない?
外に出かけよう、今夜


君はピンクとブルーの服で着飾ってもいい 子供みたいに
黄色いタクシーの中で  君は振り向いて微笑む
僕たちはもうすぐそこに着くんだ
もし、君が僕についてくるなら

僕と、ベイブ、出かけよう
夜の中へ
光の中へ
君と、ベイブ、出かけよう
夜の中へ
光の中へ

僕と、ベイブ、出かけよう
夜の中へ
光の中へ
君と、ベイブ、外へ踏み出そう
夜の中へ
光の中へ
僕と、ベイブ、出かけよう
夜の中へ
光の中へ

        (拙訳)

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イースト・ヴィレッジに短期間部屋を借りて、ジャズやラテンのクラブに出かけたんだ。そして、最初に作った曲のひとつが『Steppin' Out』だった。僕はニューヨークにインスパイアされたんだ。僕はいろんな種類のキーボードを演奏することを想定していた。それによって、ネオンの眩しさや、クラブからクラブへとタクシーで移動しているような感じを呼び起こしてひとつにまとめたいと思いました。ディスコのビートに合わせたロマンチックなバラードになるはずだった。音楽が完成すると、すぐに歌詞を書いた。喧嘩をして仲直りしたカップルを思い浮かべたんだ。彼らはお互い言い合うんだ「さあ忘れて、この街を楽しもう。夜の街に飛び込むんだ」って」

 (The Wallstreet Journal   June 13  2018)

 

  偏屈な曲者(勝手に決めつけてますが、、)ジョー・ジャクソンでさえ、1980年初頭のニューヨークの夜には、胸踊るような魔法を感じたんですね。

 

 彼は1954年にイギリスのスタフォードシャー州で生まれ、本名はデビッド・イアン・ジャクソンといいました。

 貧しい労働者階級で育った彼は、3歳のときに喘息と診断され、スポーツをすることができなかったため、音楽に興味を持たようです。11歳でバイオリンを習い始め、その後学校でティンパニオーボエを学んだそうです。また、10代前半の頃、両親が中古のピアノを買ってきてくれたのでレッスンを受けるようになり、作曲家になりたいと考えるようになります。ジャズに興味を持った彼は、16歳のときにトリオを組み、パブでピアノを弾ようになりました。

 音楽を学ぶための助成金を得て、ロンドンの王立音楽院に入学しました。そして、ポップスのバンドに参加したときに、テレビの人形劇「ジョー90」のキャラクターに似ているということで、バンドメンバーから「ジョー」と呼ばれるようになったといいます。

 「ジョー90」はこんなキャラクターです。

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 そして、彼のレコードデビューは1976年"Arms&Legs"というバンドのメンバーとしてでした。主要メンバーではありませんでしたが、シングルのB面で彼の作品を聴くことができます。

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 これはもう、完全にスティーリー・ダンですね。当時の彼の嗜好性がわかって興味深いと思います。

 レコードが全く売れなかったこともあって脱退した彼は自身のバンドを結成し、デモテープを販売していましたが、それがA&Mレコードの人間の興味を引き、デビューすることになります。

 1978年。イギリスはパンク、ニューウェイヴの最盛期。彼もそのシーンにしっかりと加わっていました。デビュー・アルバムは「ルック・シャープ」、デビュー曲は「奴に気をつけろ」でした。

 

「奴に気をつけろ(Is She Really Going Out with Him?)」全米21位、全英13位

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 日本に紹介された時は、エルヴィス・コステロ、グラハム・パーカーとともに”怒れる若者”なんて紹介されてきたのをおぼえています。

 また、パンク・ムーヴメントから出てきたイギリスのアーティストでアメリカでも売れた人たちって、コステロやクラッシュ、プリテンダーズとか、この人とか、本来、音楽的な引き出しの多い、音楽的素養がちゃんとある人たちだったんですよね。

 

 その後、彼は「アイム・ザ・マン」「ビート・クレイジー」とアルバムを出しますが、ツアーで体調を崩し実家に戻って療養しているときに、ジャンプ・ブルースやスウィング・ジャズにはまり、それが四枚目のアルバム「Jumpin' Jive」というアルバムにつながります。

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  このあたりで、多くのリスナーも”この人は根がパンクの人じゃなかったんだ”と気づき始め多様に思います。

 そして、その次にリリースされたのがこの「ステッピン・アウト」が収録されたアルバムが「ナイト・アンド・デイ」でした。

 「ナイト・アンド・デイ」は全英3位、全米5位、とかれ最大のヒットとなり、「ステッピン・アウト」も全米、全英共に6位の大ヒットになりました。

 

 その後彼は、ニューヨークに移住し、ジャズ色の強いアルバム「ボディ・アンド・ソウル」をリリースし、その後も毎回音楽性もコンセプトも全く違う作品をリリースし、

”コアなファンしかついていけない”状況になっていきます。

 そして2000年には「ナイト・アンド・デイ II」をリリースしますが、当然、そこにはかつてのきらびやかでロマンティックなニューヨークはありませんでした。

 

 今年に入って、彼が2005年にトッド・ラングレンと一緒にライヴをやった時の音源がリリースされ、その中に「ステッピン・アウト」も入っていて、ピアノのみの弾き語りでした。

 最後は「ナイト・アンド・デイ」からの2番目のヒット「危険な関係( Breaking Us In Two)(全米18位)を

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